雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

この声よ届け ・ 小さな小さな物語 ( 1458 )

2022-01-14 13:04:22 | 小さな小さな物語 第二十五部

「この声を聞いてください」と思われた経験をお持ちの方は、案外多いのではないでしょうか。
もっとも、「この声を聞いてください」などと言った穏やかなものではなく、「この声が聞こえないのか」「聞く気がないのだろう」といったものや、「聞こえていても知らない振りをしているのだろう」「聞こえるようにしてやろうか」といった脅迫めいたものまで、様々な表現方法はあるとしても、お互いの意思を伝え合うことは簡単なことではないようです。

何かの本で、こんな記事を見た記憶があります。
「女の人は、同じ所を見つけることから始まる」が、「男の人は、違う所を見つける事から始まる」というのです。女はどうだとか、男はどうだとかという意見は、最近は使い方が難しくなっていますが、なぜだか、この部分を記憶しているのです。おそらく、もっと長い文章の中の一部分で、この部分だけを取り出すのは全体の主張を歪めてしまう危険性がありますが、全体の文章の概略さえ覚えていませんので、この部分だけを使わせてもらいました。
正直申しあげますと、女の人は同じ所を見つけようとするが、男の人は違う所を見つけようとするという意見には、今ひとつ納得していません。ただ、この意見がある程度正しいとすれば、男女間で、正確に話が伝わりにくいということになるわけです。

それに、何も男と女の考え方の違いといったことを持ち出すまでもなく、なかなか自分の声は人に届かないものです。「自分がこれほど大きな声で叫んでいるのに、何故聞こえないのか」と憤慨することがありますが、その一方で、「何を大きな声で叫んでいるのだ」と、他人の真剣な意見を雑音扱いすることも、まま、あることではないでしょうか。
西欧の政治家にとって、弁論の優劣は資質のうちの相当部分を占めているそうです。一方でわが国の場合は、「沈黙は金」といった考え方は主流ではないとしても、確かにどこかに存在しているようです。理路整然、立て板に水の如く持論を展開されますと、どうも信用しきれないような気になるところが、私などは持っているようです。
現に、歴代の首相を十代ばかり遡ってみますと、お世辞にも「弁が立つ」とは言えない方でも、政権のトップに立っています。それどころか、そうした方々の弁論に対して、「なかなか味かある」という評価も少なくないようですから、わが国においては、政治家にとって雄弁は西欧ほど重要ではないようです。

ただ、これが、為政者から市民や国民に向けて発せられる物となれば、これは伝わらないことには困ります。
国民は、何も、名文句や見事な節回しを期待しているわけではないと思うのです。ふつうの言葉で、真摯に訴えてくだされば、多くの国民に声が届くのではないでしょうか。
変に力んでみたり、風呂敷を広げすぎてみたり、やたら新語を作ってみたりといった部分が見えてしまいますと、一事が万事、素直な気持ちで声を聞かなくなってしまうのではないでしょうか。
そうしたことが、新型コロナウイルスの感染拡大という、発する方も聞き取る方も経験していない問題においては、稚拙なゆえの施策の間違いや、聞き手の誤解も多発するものです。そうした無用の摩擦を少しでも和らげる方法は、雄弁でも策略でもないと思うのです。
首相が語られたほど、先に明かりが見えてきたとは思わないのですが、何が何でもこのコロナ禍を乗り越えなくてはならないわけです。
ぜひとも、為政者と国民が、真摯な発信を素直な心で聞き取る関係を、築きたいものです。私たちの社会の為に。

( 2019.08.29 )

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ここからが本番 ・ 小さな小さな物語 ( 1459 )

2022-01-14 13:03:19 | 小さな小さな物語 第二十五部

8月30日の朝刊のスポーツ欄を見て、ずっこけました。曰く、『トラ遂に陥落 3位に』との大見出しがありました。
今日から9月となり、わがひいきチームは、秋風とともに「ゆらゆらゆらり」とふらついて、首位戦線から遅れかけるのであれば良い方で、「来年は、どこどこを補強せねばならない」とか、「この成績の責任の一番は誰だ」などと、外野席のうるさいこと、うるさいこと。
ところが、今年は春先から、世間のドタバタの隙間を縫ったわけでは断じてないと思うのですが、首位を悠々キープ、だいぶ追いつかれてきたような気もしていましたが、まだゲーム差があると思っていたところ、いきなり首位から3位とは、少々驚きましたが、正式な順位は勝率によるため、抜かれている気がしないままに3位になってしまった感じです。
まあ、残り試合はまだ40試合以上あり、ここからが本番というところでしょう。

マラソン競技などでよく耳にすることに、「35kmを過ぎた辺りからがマラソンだ」といったご高説があります。ここからが本番だということなのでしょうが、では、ここまでの34kmは何だったのだ、と突っ込みたくなりますが、超一流の選手にとっては、勝負所に向けた準備期間に過ぎないのかもしれませんねぇ。
そういえば、「木登りの名人」といった話があります。昔話の一つのようですが、歴とした古典にも取り込まれています。正確には覚えていませんが、木登りの名人という人が、木登りを教えるに当たって、高い木に登らせて、そこから降りてきて、あと少しというときに、「注意せよ」と言った、というものです。木登りにおいて、登る時よりも降りる時、それも最期の数歩が、最も油断しやすく、危険だと言うことなのでしょう。

「有終の美」という言葉があります。辞書で調べてみますと、「最後までやり通し立派な成果をあげること」とあります。
時々この言葉と、「終り良ければすべて良し」という言葉と混同されることがありますが、こちらの方の意味は、「結末さえ良ければ、その過程にどのようなことがあってもかまわない」と言うことですから、本当は、大分違うわけです。
さて、わが国のコロナ対策、まだ収束の気配さえない段階で早すぎる話かもしれませんが、首相は「明かりは見えてきている」と大見得を切られました。おそらく、それなりの情報を分析した上での発言でしょうから、首相にはすでに道筋は見えているのかもしれません。また、その明かりの地点、つまり、どのような形を持って収束とするかという問題もあるでしょうが、一日も早く、収束はともかく、私たちにもはっきりと見える明かりだけでも示してほしいものです。

今回のわが国の新型コロナウイルスの感染拡大に対する施策について、その判定は、渦中にある私たちではなく、もう少し後の世の人たちが下すべきだと思われます。当然のことながら、その判定は、為政者などのリーダーシップ面ばかりでなく、私たちの国民全体の行動に対してもなされることになるでしょう。
その結果がどうなるのかは興味深いのですが、「有終の美」というのは、どうひいき目で見ても無理なような気がするのですが、せめて、「終わり良ければすべて良し」程度の評価を受けたいものです。間違っても、「後は野となれ山となれ」とか、「結局は、国民の8割が感染し、自然免疫によって収束した」といった評価は受けたくないものです。
もしかすると、この感染症との戦いは、ここからが本番なのかもしれません。そして、その最大の戦力は、私たち一人一人の行動なのかもしれません。

( 2021.09.01 )

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一寸先は闇 ・ 小さな小さな物語 ( 1460 )

2022-01-14 13:02:18 | 小さな小さな物語 第二十五部

「政界は一寸先は闇」という言葉があるそうですが、菅首相の「次期総裁選不出馬」という突然の表明に驚きました。一政党のトップが変わったところでどうでも良いとも言えますが、これが政権を担っている自民党の党首となれば一大事です。
次の自民党の総裁選挙は、新型コロナウイルスの感染状況や、衆議院議員の任期満了も近いため、解散の可否なども含めて複雑化してきていた上に、菅首相苦戦という声も聞こえてきてはいましたが、さすがに、突然の不出馬表明は政界ばかりでなく、株式市場までがびっくりしたような状態でした。

この「政界は一寸先は闇」と言う言葉は、かつて自由民主党の副総裁などを歴任した川島正次郎氏が述べたのが最初とされているようです。
政治家が担う世の中の動きは千変万化、明日のことさえ見通すことが難しいことを表現されたというものではなく、どうやら、政界の力関係の変転の激しいこと、敵味方が猫の目のように激しく変わること、政権や政策が一瞬のうちに大きく変わること、などを指しているようです。
もっとも、「一寸先が見えないような者が、政治家になってはいけない」といったご高説を述べられる方もいらっしゃるようです。
いずれにしても、今回の菅首相の決断は、「政界は一寸先は闇」の典型的な出来事として、末永く語られることになるのではないでしょうか。

「一寸先は闇」という言葉がいつ頃から使われるようになったのかは知りませんが、何も政界専用の言葉ではなく、私たちの日常でもお目にかかることがあります。
「一寸先」は、ごく短い距離なり時間なりを指しているのでしょうが、「闇」は文字通り「くらやみ」のことで、危険・恐怖・未知といったものを現わしているのでしょう。
「闇」を体験することは珍しいことではなく、毎日の生活の中でも、真っ暗な部屋は簡単に作れますし、少し田舎へ行けば、曇天時の夜道などは、大人でも恐怖を感じるほどの「闇」を体験することがあります。
旧約聖書の中にも、『 光あれ 』という神の声により、光が現れますが、光は多くの場合は希望といったものを代弁しますが、その対面に「闇」が存在しているとされることが多いようです。

私たちの生活の中にも「くらやみ」は存在していますが、有り難いことに、電灯なり、日の光を差し込ますことなどで簡単に解消させることが出来ます。
しかし、残念ながら、「一寸先の闇」を予知することは出来ません。そうしたものを予知したという例や、一寸どころか千里眼の持ち主や、何日も何年も先の出来事を予知できるという人もいるようです。多くの文献にもそうした人物が出てきますので、きっといるのでしょうが、私は今までのところ出会ったことがありません。
今、わが国で展開されている「政界は一寸先は闇」という現象は、私たちはほどなく結果を知ることが出来ますが、私たち自身が常に抱えている「一寸先の闇」は、そうそう簡単には答えを見せてくれません。しかも、どれが「一寸先の闇」なのかさえ分かることはなく、もし分かったときには、おそらく辛い思いが伴っている可能性が高いものです。しかも、それを避ける知恵を私たちはまだ手にしていないようです。
ただ、そうした知恵のごくごく一端を掴む手段があるとすれば、「謙虚さ」「身の丈を知ること」といった辺りにヒントがあるのかもしれないような気がするのですが。

( 2021.09.04 )

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小さな小さな物語 目次

2022-01-14 11:47:00 | 小さな小さな物語 第二十五部

         小さな小さな物語  目次


     No.1461  良しは良し悪しは悪し
           1462  渦中から見える景色
        1463  何を見習うか
        1464  何が人を動かすのか
        1465  それぞれの境界線

        1466  微妙な差
        1467  リーダーの資質
        1468  人間模様
        1469  第100代内閣総理大臣
        1470  チーム力
        
        1471  成長も分配も
        1472  女心と秋の空
        1473  十二色の中身
        1474  私たちの出番
        1475  褒められて育つ

        1476  駅伝の季節
        1477  恥の文化
        1478  失ってはならないもの
        1479  「ベター」を求めて
        1480  「変えられる」かも知れない           


     

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良しは良し 悪しは悪し ・ 小さな小さな物語 ( 1461 )

2022-01-14 11:41:04 | 小さな小さな物語 第二十五部

少なくとも一年以上に渡って、わが国のあらゆる分野に少なからぬ影響を与えてきた「東京2020オリンピック・パラリンピック」は、何はともあれ、大過なく終了できたことは、ある意味では大成功であったと言えましょう。
大会そのものは、7月23日にオリンピックの開会式が行われ、8月8日に閉会式が行われて無事終了、その後日を置いて、8月24日から9月5日まではパラリンピックが行われました。折から、新型コロナウイルスの感染拡大は激しさを増しており、関係者の方々の心労はいかがなものであったかと、今更のようにご苦労に感謝申し上げます。

それにしても、この大会は、実に多くのトラブルにさらされました。今、私が思い出されることだけを列記するだけでも、「大会誘致に関すること」「それに関わってと思われる JOC 会長の交代」「会場等の選定に関するもの」「日程変更への交渉」「組織委員会会長更迭」「スポーツ指導者や大会演出者等にまつわるトラブル」「競技会場の変更」「大会規模、入場者に関すること」等々数多く浮かんできますし、大会が一年延期されたことによる、業者等の影響、出場を目指していた人たちへの影響などを個別にあげればきりがなくなってしまうほどです。

しかし、そうした中で、賛否に関する世論がかなり均衡する中での強硬開催という感じもないわけでもなく、大会開催結果への賛否も、かなり対立が予想されました。
しかし、結果は、ごく一部の意見はともかく、総じて静かなように思われます。その原因の一つは、コロナ対策に政権も世論も忙殺される状態である上に、自民党総裁選挙と衆議院解散の有無が大きな話題となり、おまけに首相の交代までが日程に上がってきては、オリンピック・パラリンピックの総括などは、ニュース価値が低下してしまったようです。
とはいえ、今回の大会開催は、多くの課題を提供してくれているはずです。
例えば、オリンピックそのものに対する検討の必要性。具体的には、一つは、お金がかかりすぎるのではないかということ。この状況では、やがては一部の国(都市)でしか開催が出来なくなるのではないかと懸念されることです。
あるいは、「アスリートファースト」という言葉が錦の御旗のように使われて、スポンサーの都合や政治的な思惑、これにより利を生むシステムの肥大等が、かなり表面化しており、そう遠くない時期に変革が求められ、この大会が一つの切っ掛けになるように思われてならないのです。

わが国に限って考えてみた場合、一番大きな争点は、コロナ対策への影響と大会開催によって得られたものとの軽重ではないでしょうか。
たとえ無観客的な開催であっても、あれだけ多くの選手や関係者が入国し、周辺の人出もかなりあったようですから、感染拡大に悪影響を与えた可能性はあります。しかし、考え方によっては、大会期間中は、自宅でテレビ観戦する人も多かったはずで、外出を抑えるのに役立った面もあるかもしれません。それに、テレビ観戦した人の多くは、それなりの感動を頂いたとすれば、単に楽しかったというだけではなく、案外、免疫力が増加するのに役立ったかもしれません。
いずれにしても、これだけ大きな大会を開催したのですから、しかるべき機関によって、その是非について総括することが絶対必要だと思うのです。しばらくは政界が騒がしいでしょうが、むしろ少し時間をおいた方が冷静な判断が出来るかもしれませんので、ぜひ実行してほしいものです。
その時には、ぜひとも、「良いことは良いと事として」「悪いことは悪い事として」それぞれを評価反省すべきであって、間違っても、差し引きどうであったというような評価は避けて欲しいと思うのです。

( 2021.09.10 )

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渦中から見える景色 ・ 小さな小さな物語 ( 1462 )

2022-01-14 11:39:23 | 小さな小さな物語 第二十五部

自民党総裁選が賑やかになってきました。
もっとも、告示日は9月17日ですから、まだ前哨戦の段階ですし、すでに立候補を表明している三人の他にも、出るとか出ないとか逡巡されている人などもいるようですから、情勢はまだ流動的な部分が多いようです。 
しかし、立候補している方々は、具体的な構想を延べ、国民(党員)向けの目玉商品と、国会議員票獲得のための目玉商品を、何とか折り合いをつけようと腐心されているようです。それにしても、さすがに天下国家を担うべき国会議員らしい、雄々しい発言が目立ちます。中には、少々気恥ずかしいほどの意見を堂々と述べておられる人もいます。もしかすると、あれは、渦中にある人ならではの発言なのかもしれないように思うのです。

一方、次期総裁・総理の座から降りることを表明された菅総理の発言は、何だか一段階輝きを増したような気がします。多くの政策を思い描いて総理に就任されたのでしょうが、その多くは、コロナ対策に押しやられて、不本意な部分の多い一年だったように思えてなりません。しかし、ここ数日の輝きは、もしかすると、泥々とした渦中から一歩踏み出して、事の次第を見ておられるような気がしています。渦中から見える景色と、渦中の外から見る景色とは、大きな違いがあるのかもしれません。

以前に、主に時代小説を書いておられていた作家の方が、「なぜ、現代小説をあまり書かないのですか」という質問に対して、「時代小説は、人物や世の流れを俯瞰的に見ることが出来るが、現代小説は、その渦中に入ってしまう恐れがあるので、どうも身構えてしまうので」といったことを述べられていました。 
発言の内容は正確に覚えていたわけではありませんが、何事においても、渦中にある人が見ている景色と、一歩離れて見ている人の景色と、さらに言えば、時を経て見る人の景色は、おそらく違うはずで、その違いがどういう意味を持っているのか、個人的には大変興味があり、私にとって物事を判断する場合の一つの柱になっています。

わが国の首相が間もなく交代することになりますが、それによってどういう変化があるのか。この度のオリンピック・パラリンピックをどう評価するのか。世界的な問題としては、米同時テロからの二十年をどう評価するのか。等々、大きな問題が幾つもあります。
それらを、事の当事者や主宰者や関係者の意見は、貴重ではあっても「渦中から見た景色」にしか過ぎません。距離や時間を隔てた人が見る景色も合わせて検討することも大切だと思うのです。
ただ、残念なことは、私たちの日々は、すべてが渦中であって、過ぎ去った日々を思い返してみても、ほろ苦い思い出や忸怩たる思いに気が沈んでしまうことがほとんどです。それによって反省することは出来るとしても、取り返すことはそうそう簡単なことではないようです。
まあ、出来ることがあるとしますと、大事に巻き込まれたときには、その時見えている景色がすべてではないと、冷静に対処することだと思うのですが、それが、大事であれば大事であるほど、冷静であることは至難の業のようです。残念ながら・・・。 

( 2021.09.13 ) 

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何を見習うのか ・ 小さな小さな物語 ( 1463 )

2022-01-14 11:37:37 | 小さな小さな物語 第二十五部

自民党の総裁選挙は、正式告示日を直前にした段階で、すでに終盤戦のような空気を感じます。
候補者間の力関係や党内バランスなどの微妙な関係が、かなり明確化されてきたように伝えられていますが、同時に、さらに複雑な要因も浮上してきていて、僅差の戦いが予想されそうです。
すでに支持者を明確にしている有力議員も増えてきましたが、どうやら今回は、派閥が一枚岩になって行動する所は少ないらしく、さらに、全国の党員票の占める比率が議員票と半々になっているため、事前予測がいっそう難しくなっているようです。

今回の総裁選挙では、候補者や周辺の声ばかりでなく、いわゆる外野席からも、旧来路線からの決別とか、古い体制の打破などといった意見がよく聞かれます。旧来路線とは、安倍・菅内閣による長期政権や、それを支えた勢力などを指すのでしょうが、その真意はどの辺りにあるのでしょうか。
選挙で戦う場合、戦う相手との差別化を図ったり、欠点を指摘したり、旧来路線を否定することで斬新さを示そうとすることなどは常套手段ですが、多くの場合、力が入りすぎることが多いようです。
今回の場合でも、安部・菅長期政権には、いくつかの問題事項も発生しましたし、現在も後を引いておりますが、毎年のように首相が替わっていたのを安定化させたのには、それなりの善政があったからだと思うのですが、ほとんどの意見は、問題点を指摘するばかりで、守るべき政策を協調することは少ないようです。今回の場合、経済政策を継承すると強烈にアピールしている人はいますが。

これは何故かと考えてみますと、一番大きな理由は、これまでの政権でうまくいっている施策を継続すると主張しても、あまり受けず、支持者の獲得に役立たないからだと思われます。同時に、すでに成功している政策を見習うということは、至難であることにも原因しているように思われます。うまくいっても当たり前、少しでもミスれば能力不足を指摘されそうですから、ワリに合わないわけです。
かつて、ある先輩からこういうアドバイスを受けたことがあります。
「先輩の一番良い所を見習おうなどと考えるな。ある人の一番良い所など、簡単に自分の物になど出来るはずがない。それよりも、先輩の嫌な所をしっかり見極め、絶対にそうした事だけはしないことを身につけていけ」というものです。
この言葉は、誤解を生む面もあると思うのですが、私にとっては大切なアドバイスになりました。
もしかすると、政治家の多くの方もこうしたアドバイスを受けているのかと疑ってしまうのですが、その割には、嫌なこと、良くないことは、比較的スムーズに引き継がれているようにも感じるのですが、気のせいでしょうか。

「猿の人真似」という言葉もありますが、私たちの知恵のほとんどは、誰かに教えられたり真似をしたりしたものです。他人の一番良い部分を学び取ることは困難ですか、そのごく一部分でも学ぶことが出来れば、大変意味のあることです。
しかし、残念ながら、私たちの多くは、一番良い所を学ぶより、少しぐらいは悪くても楽で美味しい部分に目が向くようです。しかも、そうした生き方こそが、平穏な生活を保障しているらしい面があることも、否定しきれないのも経験するところです。
聖人君子でもない者が、聖人君子然として生きることはしんどいことですが、面の厚さを自慢するような生き方もさすがに憚れます。
右にうろうろ、左にうろうろしながらが我が人生かと、卑下してしまうところもあるのですが、せめて、自民党総裁選挙、そしてそう遠くない総選挙においては、聖人君子的な立場で関心を持ちたいと考えています。

( 2021.09.16 )


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何が人を動かすのか ・ 小さな小さな物語 ( 1464 )

2022-01-14 11:36:21 | 小さな小さな物語 第二十五部

もうだいぶ時間が経ったような気もするのですが、自民党の総裁選挙は、ようやく立候補者が出そろい、有力議員の何人かの態度も明らかになってきたようです。派閥の多くは、特定候補への支援を固定させず、自主投票やそれに近い状態で選挙が実施されるようで、事前予想が難しくなっているようです。
自民党の派閥の存在意義については、その是非についての論争は相当長い歴史を有していますが、今もなお健在です。ただ、今回の総裁選挙においては、若手議員(年令が若いということではなく、当選回数が浅いという意味らしいですが。)を中心に、派閥の締め付けを行わないようにとの主張が強くなっていると報じられています。もっとも、それ以上に小選挙区制になって以来、鉄の団結を誇るといった派閥は希少価値になっているようです。

しかし、派閥は今も健在ですし、今後も消え去ることはないでしょう。わが国には、複数の政党が存在していますが、そうした存在が弾圧されるような国家でない限り、ある程度の人数を要する政党には、呼び方は違っても、派閥のようなグループは生まれることでしょう。
そもそも、人間は弱いものですから、ふつうの人間は孤立を恐れるものです。孤高を誇る人物もいるそうですが、その多くは仲間や支持してくれる人がいないだけのことでしょう。
今回の自民党総裁選挙においても、候補者として名乗り出たい人、出られない人、そうした人たちの悲喜こもごもは、個々の人物の資質が第一であることは当然ですが、支えようとする人物の多寡が大きな意味を持つわけです。
そのベースになるのが、自民党においては派閥であり、無所属という名を冠したグループであり、何々会という名の集まりなのでしょうが、何々グループや何々会と派閥に、習熟度の差以外にどれほどの差があるのでしょうか。

残念ながら、私には自民党総裁選挙にはまったく絡むことは出来ませんが、興味を持つことは勝手ですし、新総裁イコール新首相ということですから、是非を語るくらいの権利はあるような気がします。
立候補した四人の方々は、いずれも大臣経験もある著名な政治家ばかりです。男性二人に女性が二人、衆議院の当選回数が八回の人が二人に九回の人が二人、年令も五十八歳・六十歳・六十一歳・六十四歳と近似しています。政治信条も、いわゆる右寄りから左寄りまで分かれているように感じられます。
まさか、そのようなことはないのでしょうが、自民党の信条の幅広さを示しているように感じられ、まるで作為的に選ばれたメンバーのように感じてしまいます。立候補者の方々が、真剣で有意義な討議を展開するとすれば、選挙結果はともかく、それを上回るような宣伝効果が生まれるような気がしてしまいます。

主義主張や政治的な信条などは、横に置いておくことにして(もちろん、直接利害が関係する人は別ですが。)、「人はこれほど真剣になれるのだ」という姿と「何が人を動かすのか」ということを学ばせていただきたいものです。
グループや組織力のあり方や育て方、何が人を動かし支援者となるのか。それは、「人徳なのか、好き嫌いなのか、圧力なのか、お金なのか、ポストなのか」、他にも要因があるのでしょうが、それらがどのように絡んで、投票行動に至ったのか・・・。
まあ、そうしたことがある程度推定できたとしても、私たちの日常生活にどれだけの役に立つかはあまり期待できませんが、人間というものの本質のごくごく一端を垣間見ることが出来るかもしれません。
少々、横柄な気もしますが・・・。

( 2021.09.19 )

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それぞれの境界線 ・ 小さな小さな物語 ( 1465 )

2022-01-14 11:35:12 | 小さな小さな物語 第二十五部

自民党総裁選挙が熱を帯びていますが、その内容はともかく、世間の目がここに集中されてはたまらないと野党も声をあげていますが、そもそも土俵が違うわけですから、まったく噛み合わないように感じられます。
それぞれの議論や主張には防衛面のことも取り上げられていますし、かなり激しい意見を述べられている人もいるようです。しかし、一方からは政治空白だと主張がなされ、一方からは国家の体制は堅持されていると問題視していないようで、両者の間には越えがたい境界線が存在しているようです。同時に、両者ともに、明日にも我が国土が侵食されるという危機感は抱いていないようです。

有り難いことに、私たちの多くは、危険人物の入国や危険物資の不法持ち込みなどは当然あるだろうと認識していながら、我が国土そのものが明日にも奪われるといった危機感はほとんど抱いていないようです。
私たちの国土は、すべてが大陸から離れており、当然のことながら海に囲まれています。国境の定めがあり、領海などの定めがあり、何だか自然の要塞で守られているような気がしてしまいます。
しかし、現実の問題として、隣国と領土を巡る争いは複数存在しています。それぞれが国境線などを有しているのでしょうが、その境界があちらこちらでぶつかり合い、無断侵入という問題もあるわけですから、本当は国境を守ると言っても、海という自然の要塞だけに頼ることなど出来ないはずです。
国境に関するトラブルは、何も我が国固有の問題ではなく、世界各地でたくさん見られる現象であり、世界の紛争の原因の大きな比率を占めているのではないでしょうか。

国家間の境界線については、私などの出る幕ではありませんが、もっと身近な境界線がいくつも存在しています。
私たちが居住している場所は、市町村に属し、それらが集まって都道府県が定められています。それを基にして作られている住所については、使う機会は結構多いのですが、ふだん行動する時にそうしたことに興味を抱くことはあるとしても、制約を感じることなどありません。
ところが、この度のコロナ騒動の中で、「都道府県をまたぐな」とか、「市町村の保健所」などという言葉に接することが多く、なるほどこれも境界の一つなのだと認識させられました。

考えてみますと、私たちは、多くの境界線を有しています。目で見える境界線は多くはないでしょうが、目に見えない境界線は実にたくさんあるようです。他人はもちろん、家族や親族も含めた人間関係にはすべて境界線が存在しています。「一心同体」という言葉もありますが、そういう言葉が存在していること自体が、境界線が存在していることを証明しているようなものです。
そして、厄介なことは、各人が持っている境界線は、必ずしも相手が認知したものではなく、至る所で衝突しあいます。さらに困ったことは、自分自身の境界線も、その折々によって揺れ動くことです。
土足で相手の境界線内に踏み込むことはトラブルのもとですし、互いに相手と一線を画すことは生活の知恵かもしれませんが、そのさじ加減が実に難しいのですよねぇ。
まあ、とりあえずは、わが家の境界線をはみ出している植木の始末から始めますか・・・。

( 2021.09.22 )

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微妙な差 ・ 小さな小さな物語 ( 1466 )

2022-01-14 11:33:52 | 小さな小さな物語 第二十五部

いつしか秋分の日も過ぎてしまいました。
このところ、はっきりとした理由は分からないのですが、季節の変化を肌で感じることが少なくなっているような気がしてならないのです。まあ、あえて原因を探してみますと、コロナにより外出が減っていることと、残念ながら加齢により感覚が鈍くなっているのかもしれません。
コロナ対策のため行動制限を受けているのは、わが国の国民のほとんどですから仕方がないとしても、加齢が原因だとすれば、これは、大いに問題かもしれません。
そもそも、私たちが、本当の意味での「もののあわれ」のようなものを感じ取ることが出来るのは、酸いも甘いも、幸も不幸も、嫌というほど頭から被った後のことだと私は思っていますので、季節の変化をしっかり受け取る程度の能力は、少々年を重ねたくらいで衰えているようでは、生涯、「もののあわれ」をしみじみ味わうことなど出来ないことになってしまいます。

春と秋のお彼岸は、多くの人にとって先祖供養との認識が強いようですが、同時に、宗教的なもの、先祖供養といったものと共に、一つの生活の区切りになっているのではないでしょうか。
そう感じる一番の理由は、この日は昼と夜の時間が同じということにあると思うのです。秋分の日であれば、これを境に昼の時間と夜の時間の長さが逆転して、次第に夜の時間が長くなっていきます。当地の場合、このところ一日あたり二、三分ずつ夜が長くなっていますが、なかなかその実感を感じ取ることは出来ていません。似たような現象は、冬至や夏至でも起こるわけですが、一日一日の微妙な変化は日常生活の中で感じ取ることは出来ません。しかし、半月もすると、「ああ、日が短くなってきたな」と感じるのが毎年のことです。

今、テレビでは自民党総裁選挙に立候補している方々の政策論争が行われています。当然のことながら、根本的な主張に大きな差は無いわけですが、そうした中での微妙な差が人々に違う評価を与えることになるようです。
また、討論の裏では、それぞれの陣営の支援者は、懸命に票読みをしていることでしょう。大差がついているのであればともかく、どうやら一回目の投票での決着は難しいらしいので、二回目に対する対策が重要性を増しているようです。二回目は議員票の比重が大きくなるだけに、個別折衝が激しくなると思われますが、それも、二位以内にならなくては話にならないわけですから、総裁・総理への道は、なかなか厳しいようです。そして、それを決定するものは、各立候補者に対する評価やこれまでの付き合いや、さらには様々な利害も絡み合って、微妙な差の積み重ねによって結果が導かれるのでしょうねぇ。

私たちの日常生活において、微妙な差で競い合うことなどそうそうないように思われますが、実は、もしかすると、私たちは毎日毎日そうした環境をくぐり抜けているのかもしれません。
明らかに差のあることなどは、誰も注意を払いますし、身の程と比べることも簡単です。しかし、微妙な差は、簡単には察知することが出来ませんし、その時々の喜びやダメージもほとんど感じません。
けれども、秋分から半月も経てば、日の出日の入の変化が感じられるように、ある時、私たちは失ったものの大きさに愕然としたり、助けてくれていた人の恩をしみじみと思い知らされたりします。
何事につけ、微妙な差を感じ取ることは、ふつうの人間には難しいことです。変化に敏感すぎるのも困りますが、私たちはそうした環境の中に生きていて、知らず知らずのうちに人の好意を無視したり、さらには、誰かを傷つけていることも少なくないことを、たまには考えてみることも必要な気がするのです。

( 2021.09.25 )

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