『 落ち着いて 二日目を 』
大学入学共通テスト
残念ながら 事件が起きてしまった
一日目は ほぼ無難に修了したようだが
精神的な動揺を受けた人も いるかもしれない
被害を受けた方の 回復を祈りつつ
受験生の方々には くれぐれも冷静に
落ち着いて ふだんの力を発揮していただきたい
☆☆☆
『 散らば散らなむ 』
僧正遍昭によみておくりける 作者 惟喬親王
桜花 散らば散らなむ 散らずとて
ふるさと人の 来ても見なくに
( 巻第二 春歌下 NO.74 )
さくらばな ちらばちらなむ ちらずとて
ふるさとびとの きてもみなくに
* 歌意は、「 美しく咲いた桜花よ 散りたければさっさと散るがよい たとえ頑張って散らなくても 昔なじみの人は 見に来てもくれないんだよ 」といったもので、ユーモアとも、投げやりとも受け取れるように思われます。
なお、歌の送り先の僧正遍昭は、六歌仙の一人で著名な歌人です。
* 作者の惟喬親王(コレタカノミコ)は、第五十五代文徳天皇の第一皇子として誕生しました。当然次期天皇の有力候補の一人であるはずですが、皇太子の地位に就いたのは、六歳下の惟仁親王(後の清和天皇)でした。
惟喬親王は父である天皇に可愛がられていたとされますが、惟仁親王の生母は、右大臣藤原良房の娘の女御明子でした。惟喬親王の生母は、紀名寅の娘静子です。静子の後宮での地位は更衣(コウイ)でした。更衣というのは、もともとは、天皇の身の回りの世話をする女官のうち、天皇の居間や寝室への出入りを認められた女性を指しますが、後宮に入った後は、女御より下位の身分で、更衣を母とする皇子は臣籍に入るのがふつうでした。
しかし、惟喬親王の場合は、明らかに生母の出自の差であったと考えられます。
* それでも、惟喬親王は、857年に元服すると、858 年には大宰権帥を経て大宰帥に就いています。まだ、十五歳の時ですから、名目だけの地位でしょうが、見合うだけの収入や待遇は与えられていたことでしょう。
その後も、常陸国太守などの重職を歴任し、872 年には上野国太守に就きましたが、その年の 11 月に出家しています。まだ、二十九歳の頃のことでした。
* 惟喬親王が太守となった常陸国と上野国は、上総国を加えて、親王の任国と定められていて、守護職とはいえ実務にあたることなどほとんどなく、親王の地位と所得を保障するものといえます。
その地位や待遇は、並の貴族などでは到底及ばないものであったでしょうが、天皇の第一皇子として誕生した身としては、鬱々たるものがあったのかもしれません。
* 出家後は、小野里に隠棲し、小野宮と称されました。この小野里は、洛北の地のようですが、住処は何度か移っているようです。
掲題の和歌に見るように、僧正遍昭や在原業平らとの親交は続いていたようですが、それにしても、出家後、当地で没するまでの二十五年は、さすがに短いものではありません。鬱々と歌を詠み、都の地を棄てながら、時にはそれを懐かしむ日々だったのでしょうか。また、出家を決意した原因は、病のためと伝えられているものが主流ですが、藤原良房らの圧迫から逃れるためとされるものもあるようです。
* 一方で、この期間の惟喬親王に関する逸話は、簡単に目にすることが出来るものだけでも興味深いものがあります。その中から二つ、紹介させていただきます。
一つは、小野里に隠棲中、何度か住まいを変えたらしいのですが、一度は、山中深くに移り住み、杣人たちに木地技術の習得を勧め、広い地域で木地師の祖神とされているというものです。
今一つは、わが国の国家「君が代」の元歌は古今和歌集の NO.343 にある、『 わが君は千代に八千代に細れ石の 巌と成りて苔のむすまで 』であることは定説ですが、作者は「読人しらず」となっています。実は、この作者は、藤原朝臣石位左衛門と名付けられた木地師で、この奉った相手は惟喬親王だというものです。
* 惟喬親王の生涯を、皇位を継げなかった悲劇の人と考えるのか、それ故に、それらのことを超越した悠々たるものであったと考えるのかによって、掲題の和歌の意味も、かなり違ったものになってくるように思うのです。実に魅力的な歴史上の人物といえるのではないでしょうか。
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