「本音と建前」。
この言葉、あまり良い意味で使われることは少ないようですが、耳にすることは多く、その現象を目にすることは多すぎるほどあるように思われます。
例えば、と言って例示すること自体が無駄なような気がしますが、あえて挙げさせていただくとすれば、公職のしかるべき立場にある人の会見やコメントのほとんどは、建前であって本音とは、大きくか小さくかはともかく、乖離している部分があることは確かでしょう。
しかし、私たちも、少し公式な場面で意見を述べるときのことを考えますと、さて、すべて本音を述べているのでしょうか。やはり、少しばかり装飾があり、少しばかり背伸びをしていて、自分のことをそれほど良い人と思ってもらおうとまでは考えないとしても、まるで我利我利亡者のようだとまでは思われたくないという気持ちが、ほんの少しだとしても、本音部分に加味されているのではないでしょうか。
実は、こうした考えが働く背景には、「本音と建前」と二つの言葉を対にした場合、どうも私たちには、「建前=嘘、あるいは悪」といった先入観が植え付けられているからではないでしょうか。
そこで、もともとの意味はどういうものであったのかを考えてみました。
「本音」を辞書で調べてみますと、「①まことの音色( ネイロ )。 ②本心から出たことば。たてまえを取り除いた本当の気持。」とありました。この辞書の説明はなかなか微妙で、①はともかく②の説明では、本音は本心からのもので、たてまえが加わると、本音つまり本心を歪めてしまっている、と説明されているような気がします。
一方、「建前」の方は、「『立前・建前』の両方が掲示されていて、①振売りや大道商人が、物を売る時の口上。売り声。 ②表向きの方針。」とあります。また、「建前」の別項には、「むねあげ。上棟式。」と説明されていますが、「本音と建前」の建前はこれではないようです。おそらく、①は「立前」にあたり、転じて②の意味が強まるにつけて、「羊頭狗肉」とまでは言わないとしても、物売りの調子の良すぎる説明を薄める意味で「建前」という文字に転じてきたのではないかと思うのです。まったく個人的な勝手な解釈ですが。
わが国は、目下オリンピック開催中です。わが国選手の大活躍が目立ちますが、一方で新型コロナウイルス感染者の急拡大という難題が重さを増しています。
各界の、さまざまな方々がさまざまな意見述べられています。官邸や各首長などからの指示や要請も出されています。
それらのすべてに、おそらく「本音と建前」というものが複雑な形でちりばめられているのでしょう。
しかし、私たちが誤ってはならないことは、「建前」には、制度や方針などからくる制約から、好き勝手を述べるわけにはいかないということも厳然たる事実なのです。一概に「建前だろう」と軽視してしまうことは社会秩序を混乱させる懸念を秘めています。
「本音と建前」という命題は、なかなか厄介な性格を持っていますが、結局の所、送り手と受け手との信頼関係の軽重によって揺れ動く部分が大きいように思われるのです。
( 2021.07.30 )