雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

本音と建前 ・ 小さな小さな物語 ( 1448 )

2022-01-14 13:17:22 | 小さな小さな物語 第二十五部

「本音と建前」。
この言葉、あまり良い意味で使われることは少ないようですが、耳にすることは多く、その現象を目にすることは多すぎるほどあるように思われます。
例えば、と言って例示すること自体が無駄なような気がしますが、あえて挙げさせていただくとすれば、公職のしかるべき立場にある人の会見やコメントのほとんどは、建前であって本音とは、大きくか小さくかはともかく、乖離している部分があることは確かでしょう。

しかし、私たちも、少し公式な場面で意見を述べるときのことを考えますと、さて、すべて本音を述べているのでしょうか。やはり、少しばかり装飾があり、少しばかり背伸びをしていて、自分のことをそれほど良い人と思ってもらおうとまでは考えないとしても、まるで我利我利亡者のようだとまでは思われたくないという気持ちが、ほんの少しだとしても、本音部分に加味されているのではないでしょうか。
実は、こうした考えが働く背景には、「本音と建前」と二つの言葉を対にした場合、どうも私たちには、「建前=嘘、あるいは悪」といった先入観が植え付けられているからではないでしょうか。

そこで、もともとの意味はどういうものであったのかを考えてみました。
「本音」を辞書で調べてみますと、「①まことの音色( ネイロ )。 ②本心から出たことば。たてまえを取り除いた本当の気持。」とありました。この辞書の説明はなかなか微妙で、①はともかく②の説明では、本音は本心からのもので、たてまえが加わると、本音つまり本心を歪めてしまっている、と説明されているような気がします。
一方、「建前」の方は、「『立前・建前』の両方が掲示されていて、①振売りや大道商人が、物を売る時の口上。売り声。 ②表向きの方針。」とあります。また、「建前」の別項には、「むねあげ。上棟式。」と説明されていますが、「本音と建前」の建前はこれではないようです。おそらく、①は「立前」にあたり、転じて②の意味が強まるにつけて、「羊頭狗肉」とまでは言わないとしても、物売りの調子の良すぎる説明を薄める意味で「建前」という文字に転じてきたのではないかと思うのです。まったく個人的な勝手な解釈ですが。

わが国は、目下オリンピック開催中です。わが国選手の大活躍が目立ちますが、一方で新型コロナウイルス感染者の急拡大という難題が重さを増しています。
各界の、さまざまな方々がさまざまな意見述べられています。官邸や各首長などからの指示や要請も出されています。
それらのすべてに、おそらく「本音と建前」というものが複雑な形でちりばめられているのでしょう。
しかし、私たちが誤ってはならないことは、「建前」には、制度や方針などからくる制約から、好き勝手を述べるわけにはいかないということも厳然たる事実なのです。一概に「建前だろう」と軽視してしまうことは社会秩序を混乱させる懸念を秘めています。
「本音と建前」という命題は、なかなか厄介な性格を持っていますが、結局の所、送り手と受け手との信頼関係の軽重によって揺れ動く部分が大きいように思われるのです。

( 2021.07.30 )

 

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「時間」を俯瞰する ・ 小さな小さな物語 ( 1449 )

2022-01-14 13:16:11 | 小さな小さな物語 第二十五部

オリンピックを楽しんでいます。
何かとトラブル続きの上に、新型コロナウイルスの世界的な大流行という難題と戦いながらの開催だけに、開幕後にも開催反対とか中断などといった意見が聞かれる苦しい大会となってしまいました。
しかし、すでに当ブログでも書かせていただきましたが、おそらく「東京2020大会」は、今後のオリンピック大会のあり方について、いくつかの転換を促せる大会になるのではないでしょうか。

そうした問題は今後の課題として、今行われている競技は、無観客であることが障害になっている状況は感じられず、テレビ観戦者である私などは大いに楽しませていただいております。
このブログを書いている時点は、大会のちょうど中間辺りです。
ここまでは、わが国選手団の活躍が目立ち、競技数が違うとはいえ、獲得した金メダルの数はすでに史上最高に至っています。
オリンピックに限らないことでしょうが、次から次へと種類の違う競技を見せていただくと、まるで自分がその道の達人かのような心地よい錯覚に導いてくれます。
数多くある競技のうち、たとえ真似事のような形ででも体験したことのあるものを数えてみますと、その少なさに驚きます。それが、公園のボートしか乗ったことがないくせに、急流に挑んでいる選手にダメ出しをするのですから、これほど結構な錯覚はそうそう出来るものではありません。
そして、もう一つ、激しい国内予選を勝ち抜いて出場してきている選手たちを通して、『もしかすると時間を俯瞰(フカン)することが出来るかもしれない』と夢想させていただいています。

例えば、スケートボードの女子アスリートでは、わが国の13歳の西矢椛さんが金メダルを獲得しました。その一方で、卓球女子シングルス二回戦では、ルクセンブルクのニー・シャーリエンさんは58歳で、韓国の17歳の選手に接戦のうえ敗れました。このお二人にとっての東京オリンピックは、どういう時間であったのか、まことに勝手ながら、俯瞰するようにその心境を想像させていただいています。
さらに、ニー・シャーリエンさんは、かつては中国のトップクラスの選手でしたが、彼女の全盛期には卓球はまだオリンピック種目に入っていなかったのです。その後、ドイツ、ルクセンブルクと移りトップ選手として活躍し、オリンピック出場は今回が五回目ですが、初出場が37歳の時のシドニーだそうですから驚きです。中国からもルクセンブルクとの架け橋となる選手だと評価されているようですから、その生き様を俯瞰してみたい気持ちが高まります。

『時間』をテーマにしますと、とても歯が立たない部分が大きくなってしまいます。
ただ、ごくふつうに私たちが体験する時間が持つ不思議には、強く惹かれます。同じ10分という時間でも、楽しいおしゃべりの時間と、恐怖に包まれている時間とでは、私たちが受け取る時間の長さは全く違ってきます。その場合、この二つの時間を俯瞰することが出来た場合、さて、本当はどうなっているのでしょうか。
残念ながら、私たちは、自分の時間を俯瞰することは簡単なことではないようです。せめて、他人様の時間を垣間見させてもらいたいと思うのですが、オリンピックは、独特な時間、つまり生き様のようなものを俯瞰させていただけるように感じています。

( 2021.08.02 )

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夢の舞台 ・ 小さな小さな物語 ( 1450 )

2022-01-14 13:15:17 | 小さな小さな物語 第二十五部

そこは、間違いなく夢の舞台だと思う。
一年遅れの「東京2020オリンピック大会」は、多くの難題に襲われ、あるいは多くの欠陥が表面化しながらも、ともかく開催に漕ぎ着くことが出来ました。特に、新型コロナウイルスとの戦いは、収束はおろか小康にさえ持って行くことが出来ず、開催都市東京が緊急事態宣言が出されている中での強行だけに、国民世論はむしろ開催に消極的な声の方が大きかったかに思われました。
そうした背景を背負っていただけに、組織委員会はじめ開催関係者のご苦労は大変なものであったと推察されます。

しかし、大会は、このコラムを書いている八月四日時点では、わが国選手の大活躍もあって、まずまず無難に進行していると思われます。
新型コロナウイルスの新規感染者数は、大会が開かれる以前から増加傾向を示していて、ここ数日は、爆発的な拡大と表現すべき状況であることは否定できないでしょう。しかし、その原因の多くをオリンピック開催に結びつけるのは少々乱暴で、世界各国の動向を見れば、もっと他の要因が大きいと考えるべきに思われます。
ただ、この事に関しては、大会終了後には、様々な意見や検証も出されることでしょうが、その多くが、政治的な思惑や、専門家と称される方々の限られた視野からの意見が氾濫することが懸念されます。
それはともかくとして、この大会を開催することによって、多くの人に夢の舞台を提供したことだけは、評価されるべきでしょう。

オリンピック出場を夢見てきた人にとっては、出場選手に限らず、開催に関わる人々も含めて、そこは、まさに夢の舞台と言えましょう。
しかし夢の舞台というものは、すべてがバラ色というものではないようです。出場選手にとっては、すでに勝者と敗者があり、一つの種目には金メダルは一つしかないのですから、勝者だけが称えられるとすれば、この夢の舞台は、多くの失望者を生み出す場所ということになってしまいます。
銀メダルには銀メダルの誉れがあり、銅メダルには銅メダルの喜びがあり、たとえメダルを逃しても、それぞれが掲げた目標に達していれば、それはそれで夢の実現と言えるはずです。さらに、たとえ、そのどれにも達することのない惨めな結果であっても、その夢の舞台に立つための課程を考えれば、「参加することが出来たことにこそ価値がある」とも言えますから、むしろオリンピック精神に近いのかもしれません。
しかし、近年のオリンピックには、「プロ」や「プロを目指している」「プロもどき」と言った選手が多くなっている現実を考えれば、先の意見など現実味がなくなってしまいます。

残念ながら、私には夢の舞台に立った経験がありません。それどころか、夢の舞台を懸命になって目指した経験すらありません。それでも、振り返ってみれば、夢の舞台らしきものを夢見たときがあったような気もします。少々スケールの小さな夢の舞台ですが。
そして、私のような人間が特別異例ということではなく、同様の人生を送っている人も少なくないとすれば、夢の舞台に立ったと認識できる人は、そこでの活躍もさることながら、その経験は、その人にとって掛け替えのないものとなるのではないでしょか。
いわんや、オリンピックという夢の舞台は、並の経験ではないはずです。
ただ、夢の舞台は、時には、その舞台に立つ人に残酷な現実を突きつけることがあります。本当はそうではないのですが、「目的は勝利」に固まっている人にとっては、衝撃を与えられることになりかねません。けれども、時が流れ、いつか自分の来し方を見つめるときが来たとき、夢の舞台に立った経験は、きっと、鮮やかな輝きを見せてくれるのではないでしょうか。
私たちも、夢の舞台で活躍するすべての選手に、敬意と大きな拍手を送ろうではありませんか。

( 2021.08.05 )
 

 

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疑似戦争 ・ 小さな小さな物語 ( 1451 )

2022-01-14 13:14:19 | 小さな小さな物語 第二十五部

多くの問題を抱えながらも開催に漕ぎ着けた「東京2020オリンピック大会」は、間もなく閉会を迎えようとしています。
当ブログにおいても、何度か書かせていただきましたが、今大会は、今後のオリンピック大会のあり方について、かなり抜本的な検討が行われる契機となる大会との予感を抱いています。
そのことについては、また別の機会に考えてみたいと思っていますが、大会そのものは、いくつかの問題も発生しているようですが、全体としては成功裏に終ろうとしているのではないでしょうか。特に、競技面では、好記録や好試合も多く、テレビ観戦者の一人としましては、開催して良かったと思っています。特に、わが国のスポーツファンは、好成績にかなり満足しているのではないでしょうか。

ただ、やはり、金メダルが幾つ取れたとか、国別のメダル数がどうだとか、といった報道は根強く行われており、私自身も、その数字に興味を示してしまいます。
そもそも、スポーツには、競い合うという面が強くあります。特に、オリンピックに採用されている競技は、それぞれに金銀銅のメダルが設定されているわけですから、競い合うものばかりと言えます。
つまり、それぞれのゲームは戦いであり、個人競技か団体競技かの差はあるとしても、勝ち負けや順位を競い合い、勝者や敗者への評価は、単に競技者ということではなく、国や地域に対する評価につながっているようです。
オリンピックに限りませんが、国際的なスポーツになると、日頃は国家などあまり意識しない私のような者でも、わが国選手の活躍に一喜一憂し、日の丸国旗や国歌君が代に感動するのは確かで、もしかすると、他国と戦っているつもりになっているのかもしれません。
「スポーツは疑似戦争の一つだ」といった意見を聞いたことがありますが、まったく否定することが出来ないような気がします。

歴史上の出来事として、「疑似戦争」というものが、実際に存在しているそうです。
1798年から1800年にかけて、アメリカとフランスが戦った戦争のことを指します。その時期は、アメリカの独立直後であり、フランスもフランス革命の混乱期にあたります。
その戦争は、宣戦布告がないままに、すべて海上で行われものです。戦争の経緯などは割愛させていただきますが、アメリカでは「フランスとの宣戦布告なき戦い」と呼び、フランスでは「海賊戦争、半戦争」などと呼ばれたそうです。
歴史上に、このような事実があるとすれば、スポーツを安易に疑似戦争などと呼ぶのは不謹慎な気がします。

スポーツが、いくら激しい競争を伴うものだとしても、「戦争」などという言葉と安易に結びつけるべきではないのは当然のことです。スポーツが、それぞれの国威掲揚に利用される面が強いとしても同様です。
しかし、同時に、スポーツが平和の使者かのように伝えたり、オリンピックを平和の祭典と強調するのも、少々注意が必要な気がします。
確かに、スポーツが友情を育み、国家間の緊張さえ緩和してくれるような気がすることがあるのは事実です。けれどもそれは、単にスポーツで競い合えば良いというものではなく、その背景にある多くの条件を加味した上でのものであることを忘れてはならないと思うのです。
今夕、「東京2020オリンピック大会」は閉会式を迎える予定になっています。制約の多かった大会の、制約の多い中での閉会式を、しっかりと噛みしめて、この大会の意義を考えてみたいと思っています。

( 2021.08.08 )

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価値観の幅 ・ 小さな小さな物語 ( 1452 )

2022-01-14 13:12:54 | 小さな小さな物語 第二十五部

多くの問題を抱えながらも、「東京2020オリンピック大会」は閉会することが出来ました。
ふつうの文章としては、「無事」という言葉を加えるべきなのでしょうが、どうも躊躇してしまう気持ちがあります。
この大会を開催したことに対する是非を問うのは、「今更意味があるのか」という考え方もありますし、「もう少し待って、歴史の判断に委ねるべきだ」という考え方もあるかもしれません。
また、現時点での評価についての意見についても、「世界中が感染症に苦しんでいる中で、曲がりなりにも開催できたことは、それなりに意義がある」とするものがある一方で、「無謀と言える強硬開催は、これから、爆発しつつある感染症による犠牲者の命で償うことになるだろう」とするものもあります。

上に挙げました意見の相違は、それぞれの立場によることからくる相違かもしれませんが、私たちの判断基準や、価値観に対する相違は、相当幅が広く、その反面、個々の人が持っている価値観の幅は、極めて狭いように思われてなりません。
乱暴な表現かもしれませんが、国際的な紛争の多くも、そのほとんどには「価値観の差」が絡んでいるように思われるのです。主義主張の相違、学問や芸術的な立場の差、あるいは宗教上の問題、もっと単純な意地の張り合い、といった理由から敵と味方に分かれることになり、そこまで行かないまでも、相容れることの出来ない関係が誕生してしまうようです。

この度のオリンピックは、かなりの種目をテレビ観戦させていただきました。
個々の成績や感動はともかくとしまして、つくづくと「私たちの価値観は幅広いものだ」と感じさせられました。
例えば、銀メダルを取って感激する人がいれば、悔し涙で号泣する人がいます。
格闘技系の種目とスケートボードなどとの雰囲気の違いは、同じ大会で行われていることに不思議な感じさえします。
同じ陸上といっても、100m競争と50km競歩とでは、選手の準備方法や戦略もずいぶん違うのではないでしょうか。
もちろん、個々の種目には特徴があるのは当然のことで、それらに差異があることを挙げていっても意味ないことかもしれませんが、私たちの社会生活や国際社会での軋轢は、オリンピック種目間の差程度ではないはずです。

私たちが、日頃見聞きしたり実際に遭遇する軋轢を、すべて価値観の違いで片付けようというのは無理があることは確かでしょう。
同時に、軋轢の原因になる要員の多くが価値観の差にあることも否定できないと思います。
オリンピックをテレビ観戦しながら感じた与太話が、さすがに、国際社会の緊張緩和に役立つとまでは思いませんが、私たちの日常生活という限られた社会においては、互いの価値観を認め合うことが、様々なトラブル回避に役立つこともあるような気がするのです。
私たちの多くは、こうしたことに関して寛大です。それでも、どうしても譲れない一線というものがあります。問題は、その一線をお互いにどう認め合うかということなのでしょうが、残念ながら私は答を得ることが出来ていません。
ただ、私たちが持っている価値観の幅をほんの少しばかり広げることによって、無謀と思われる相手の要求を、少しは冷静に聞くことは出来るものと思っています。

( 2021.08.11 )

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騏驎も老いては駑馬に劣る ・ 小さな小さな物語 ( 1453 )

2022-01-14 13:11:41 | 小さな小さな物語 第二十五部

昨年来の新型コロナウイルスの感染拡大は、残念ながら、未だ収束はおろか拡大傾向が続いている有様です。
冷静に考えれば、例えば、G7加盟国の状況を比べてみれば、わが国の感染状況が特別深刻というわけではなく、感染者数などのデーターを見る限り、むしろ軽微と言える状況だと思うのです。
しかし、現実は、海外から伝えられるニュースよりもわが国の状況の方が厳しく感じられ、実際に経済活動の回復状況はわが国が飛び抜けて遅れている数値が伝えられています。さらには、医療体制に至れば、すでに一部では崩壊状態にあることは否定できないと思われます。
さらに、我国固有の事情として、オリンピック・パラリンピックの開催という何とも悩ましい問題がつきまとい、コロナ対策ばかりでなく、オリンピックに関する問題でも、よくもこれほどまでと言うほどトラブルが表面化してしまいました。

明らかに問題発言と思われるようなものや行動などの中に、そこそこの年令を重ね、社会的にもそれなりの立場にある人の、情けなくなってしまうような発言や行動を見せつけられてしまいました。
残念ながら、「騏驎も老いては駑馬に劣る」という言葉が、連想されてしまいました。高齢化社会と言われ始めてから久しい今日、年令をもって能力や判断力を云々するのはどうかとは思いますが、明らかに「老害」を感じさせられてしまった事例も一つや二つではありませんでした。
「騏驎も老いては駑馬に劣る」という言葉は、中国の古典「戦国策」に記されているものです。
騏驎(キリン・一日に千里を走るという駿馬。名馬。)も年を取ると、駑馬(ドバ・駄馬に同じ。のろまな馬。)にさえ劣ってしまう、といった意味でしょう。
この「戦国策」は、中国の戦国時代(紀元前5世紀頃から紀元前221年までの間。)に活動した遊説の士の言説などを編集したもので、紀元前の終わり頃に完成したようです。

なお、「騏驎」というのは駿馬のことを指しているので、「麒麟」の文字を使うのは間違いのようです。「麒麟」というのは、中国で聖人が出る前に現れるとされる想像上の動物で、麒はオスで麟はメスのことらしいです。ただ、この二つの言葉を混同して使われている例も多いようです。
わが国にも、この言葉を引用している有名な古典があります。
15世紀初め頃に書かれた「風姿花伝」がそれです。世阿弥が記した能の理論書ですが、少しばかり引用させていただきます。
『 五十有余  この此よりは せぬならでは手立あるまじ 「麒麟も老いては駑馬に劣る」と申すことあり。さりながら 真に得たらん能者ならば 物数は皆々失せて 善悪見所はすくなしとも 花は残るべし ・・・ 』 

残念ながら、生きとし生けるものは年老いていきます。少なくとも人間は、今生の命には限りがあり、高齢化とともに肉体能力を中心に衰えを防ぎきることは出来ません。精神面や知能面などでも似た状況になるのがふつうです。
ただ、悲しいかな、私たちは自分の衰えを認識することはなかなか難しいようです。最近、醜態をさらしてしまった高齢の人を見ていますと、つくづくと思い知らされてしまいます。
世阿弥は、「五十を過ぎれば 止めるに越したことはない」と言っているように受け取れます。もちろん、現代と年齢の基準は違うでしょうが、能役者としては衰えを避けることは出来ないと言っているように思われます。
同時に、「真に得たらん能者ならば 能力は衰えてしまっても 花は残る」と教えているように思われます。
ある年令になれば、「真に得たらん能者」にあたる自分の本当の能力はどの程度なのか、そして何もかもが衰えきったあとにも残る花とは何なのか、といったことも考えたいものだと、ずいぶんと教えてもらえました。
ただ、それらのどれもこれもが、他人様の事はそこそこ見えるのですが、自分のこととなりますとねぇ・・・、そこが辛いところです。

( 2021.08.14 )

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五十年に一度 ・ 小さな小さな物語 ( 1454 )

2022-01-14 13:09:30 | 小さな小さな物語 第二十五部

オリンピックの閉会を待っていたわけではないのでしょうが、広い地域で豪雨に見舞われています。一週間を過ぎた今も、豪雨をもたらす雨雲が次々に発生しており、九州や中国や北陸などを中心に、各所で土砂崩れや水害が多発しており、残念ながら、すでに亡くなられた方も出ています。
しかも、なお数日は、大雨が降る可能性の高い気圧配置が続いているようですから、豪雨が予想されている地域のお方は、十分な注意をお願いするばかりです。

それにしても、毎年のように繰り返される自然災害は、現在の対応以上のことは出来ないものなのでしょうか。わが国では、一年間に、どの程度の被害を受ける人がいるのかは知らないのですが、大きく報道されるほどの災害でなくても、個々の人にとっては、生活基盤が壊滅的な状態になってしまうような被災は、公的支援も薄く、より深刻なのだということを聞いたことがあります。
今日現在、多くの地点で豪雨災害や土砂災害が懸念されている状況で、のんびりと今後の対策を考えるのは不謹慎かもしれません。しかし、大きな災害がある程度回復の見通しが立った頃、「二度とこのような災害を発生させない・・・」といった言葉を何度聞いたことでしょうか。そして、その言葉が守られている状況はどの程度あるのでしょうか。
現在発生しつつあるものも含めた今回の豪雨災害は、コロナ対策に薄められるのではないかとの懸念を感じています。再発防止対策は、是非とも、一日でも早く骨子だけでも構築させるべきだと思うのです。

豪雨の警報が発令される場合、「五十年に一度の豪雨」という言葉をよく聞いていましたが、毎年のように「五十年に一度」という言葉を聞きますと、さすがに説得力が無くなり、最近は言葉を選んでいるようです。
しかし、統計的に五十年に一度しか発生しないような豪雨だとすれば、一生に一、二度しか経験しない豪雨ということになりますから、遭遇すれば、ほとんど為す術が無いということになります。さらに、その「五十年に一度」クラスの豪雨が、毎年どころか、一年に複数回も発生するとなれば、災害対策は根本的に考え直す必要があるのではないでしょうか。

地球全体の温暖化が懸念されている今日、海面の上昇によって国土の相当部分が水没する危険に迫られている国があるようです。
わが国の年々激しくなる豪雨被害が、地球温暖化の影響かどうかはともかく、ここ十年間の傾向からだけでも、少なくともこの先の十年や二十年は豪雨が激しさを増すと考えるべきだと思われます。そう仮定するならば、水没する危険がある国家と同様の危機感を持つべきではないでしょうか。つまり、住宅を建てるなど、国民が生活基盤を置く地域の厳格化が必要な気がするのです。ダムを造り、河川の土手を強化し、傾斜地の補強も有効なのでしょうが、そのいずれにも限界があるはずで、自然にお返しする地域を設ける必要があると思うのです。
私たちは、四季があり、豊かな水源があり、四方を海に囲まれた豊かな国土に生かさせていただいております。同時に、地震が多く、火山が多く、津波もあり、台風の通り道でもある位置で生活しています。そのために受けざるを得ない自然災害に対して、それらを肩肘張って押し戻そうとする対策には限界があることを、私たちは学習すべきだと思うのです。

( 2021.08.17 )

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崩れるのは早い ・ 小さな小さな物語 ( 1455 )

2022-01-14 13:08:22 | 小さな小さな物語 第二十五部

アフガニスタンのガニ政権があっという間に崩壊し、タリバン勢力が首都カブールを制圧しました。
これからのアフガニスタンがどのような国家になっていくのか、今の段階では確たる見通しを発表している国家や研究所はいないようです。
アメリカが軍隊を全面撤退すると決定した段階で、やがてはこのような状態に陥る可能性はかなり高いとする評論家の方も多かったようですが、まだアメリカの軍隊が撤退しきっていない段階で、これほど早く、これほど簡単に事が進むとは、予想していなかった方がほとんどだったのではないでしょうか。
それにしても、政権が崩れるときはこれほど簡単なものなのかと教えられました。

「信用を築くのには長い年月を必要とするが、その信用が崩れるのは、あっという間だ」といった言葉は、古来、商家などで伝えられてきたことのようです。
老舗と呼ばれる伝統を背負った商家などの人たちが、何よりも『のれん』を大切にし、それを守り続けるために、堪えられぬほどの事にさえ堪え、命を懸けるまでするのは、長い伝統により築いてきた信用というものが、一瞬の油断により、あっという間に崩壊してしまうことを認識しているからなのでしょう。

昨年来の新型コロナウイルスの感染拡大は、現在時点でも収束への道筋は見えておらず、むしろ拡大の勢いが増してきている感があります。ワクチン投与とウイルスの変異とが争っているかに見えしまいますが、予断を許さない状態のようです。
そうした状況の中で、わが国の医療体制は崩壊の危機に面しています。というより、少なくとも一部においては、崩壊してしまっています。一日に二万人を越える新規感染者が続く状態の中で、当初目指したような全員入院させることなど出来るはずもなく、すべての感染者を保健所に対応させることなど出来ないことは、誰にでも分かるはずです。それを小手先で乗り切ろうとしたり、現場に「ガンバレ、ガンバレ」と言うだけで責任を果たしていると考えているのではないかと思えたり、こうした状態は、「崩壊している」とは言わないまでも、「崩壊状態にある」と考えるべきだと思うのです。
さらに深刻なことは、コロナ対策を優先するため、その他の疾病者にしわ寄せがいっており、救急車が機能不全に陥りかけていることを、もっと深刻に考えるべきではないでしょうか。
わが国の医療体制は、上から下までを含めて、崩れようとしているように思えてならないのです。

医療体制に限らず、老舗の信用に限らず、あるいは政権崩壊に限らず、築き上げるのには時間を要しますが、崩れるときは一瞬です。
こうしたことは、ごく限られた場面でのみ発生する現象ではなく、大きな事から小さな事まで含めると、数限りなく起こっています。
私たちは、「一瞬で崩壊」という、極めてもろい様々な条件の上に乗っかって生活しているのかもしれません。
私たちの社会には、そうした「崩れやすいもの」に対する準備や対策や保険などを工夫して運営されているものと信じたいのですが、個々の人にとっては、小さな一つの崩れが、生活基盤を大きく傷つける可能性があります。
「自分の命は自分で守る」という言葉は冷たいようですが、やはり、肝に銘じておく必要があるようです。

( 2021.08.20 )


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彼らが見た景色 ・ 小さな小さな物語 ( 1456 )

2022-01-14 13:06:43 | 小さな小さな物語 第二十五部

今、古今和歌集を少々勉強しています。
当ブログでは新古今和歌集をテーマにした拙い作品を連載させていただいておりますが、その後を継ぐ形で、古今和歌集をテーマにした物を考えたいと思ったからです。
古今和歌集そのものの存在を知ったのは、おそらく、小学生の高学年の頃か、中学生の時だと思います。もっとも、教科書の中でお目にかかっただけのことですが。

その後、長い長い年月を経て、このブログを立ち上げてからも、テーマに出来ないか何度か取り組んだことがありました。しかし、短歌そのものが私には敷居が高く、正面から取り組むのは無理でした。その代わりと言えば申し訳ないのですが、新古今和歌集の方を親しみやすく感じて選びましたが、それも、少し斜めに取り組んでいることは、自分でも認識しています。
古今和歌集をテーマに考えている今も同様で、和歌そのものを勉強しようという物にはなりそうもありません。それでもなお、古今和歌集に興味を持った切っ掛けは、「六歌仙」という言葉でした。

「六歌仙」などについて研究なさっているお方はともかく、ごく一般の人にとっては、六歌仙というのは「六人の和歌の上手」という認識ではないでしょうか。私自身もそうでした。
「六歌仙」とは、古今集の序文の中で、紀貫之が名前を挙げている六人のことを指します。六歌仙という言葉そのものは、貫之が命名したものではなく、後世(鎌倉時代初期より以前)の人によって付けられたようですが、貫之一人の考えで歌の上手が決められるわけでもなく、それに、挙げている六人に対してかなり厳しい評価をしているのに、歌の上手とはどうしてだろうという疑問がありました。
そこからの連想として、貫之が当時の歌壇の一人者だとしても、彼が知っている歌人は限られていて、少し後の世で高い評価を受けている歌人、例えば、西行や和泉式部といった人物は、当然のことながら知らないわけです。つまり、貫之には、西行や和泉式部の歌の凄さは理解しようもないわけです。

紀貫之に限らず、古今集に登場してくる歌人たちは、「どういう景色を見ていたのだろう」といったことをテーマにしてしてみたいと考えたのです。
現在に生きる私たちにとっては、ごく当然の歴史の流れであっても、彼らには知る由もない出来事が多くあります。同時に、「彼らが生きていた時代に身を置いていたからこそ見えた景色」といったものがあるのかもしれません。
今、私たちは、これまでに経験したことのない「感染症の恐怖」の真っ只中にあります。よく似た現象は、つい100年ばかり前に、いわゆるスペイン風邪というもので経験しているのですが、多くの人が知識としては持っていても、今回の新型コロナウイルスの感染拡大に関して、何の役にも立っていないのです。
私たちが今見ている景色は、今生きている私たちにしか見えない景色であります。過去の経験をいくら参考にするとしても、その過去は、今の現象を見ていないのです。
それは、何も感染症に限ったことではなく、私たちの社会で、あるいは世界全体の問題として浮上している懸案事項の多くは、今現実に見ている私たちの知恵なり決断力によってのみ解決することが出来るのではないでしょうか。
そして、その知恵の中には、「謙虚さ」ということも含まれているように思えてならないのです。

( 2019.08.23 )

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どん底と向き合う ・ 小さな小さな物語 ( 1457 )

2022-01-14 13:05:36 | 小さな小さな物語 第二十五部

横浜市長選挙の結果を経て、政界が騒がしくなってきた感じがします。
首相のお膝元での推薦候補の惨敗だけに、たとえ市長選挙に過ぎないといっても、間もなく行わざるを得ない総選挙にもかなりの影響を与えるということらしいです。
まあ、政治のことはよく分かりませんし、当ブログで論じる気持ちもありませんが、菅首相就任以来のことを思い返してみますと、気の毒なほど慌ただしいことばかりです。所属党の議員のトラブルや、自身や閣僚への非難などは、当然評価される要因ですが、オリンピック・パラリンピックの開催と、新型コロナウイルスの感染対策は、平常時であれば存在しない要因だけに、この二つに関しては、なかなか評価が難しいところです。

そうした中で、これは、間接的な話をある人が紹介していたことなので、事実かどうかは責任が持てませんが、自民党の若手議員の中には、「わが党への支持はどん底状態だ。このままでは次の選挙は戦えない」と言っているというのです。
これに似た意見は、選挙が近くなると時々耳にすることがありますが、こうした声に私はいつも二つのことを考えます。一つは「政党間の争いなので党の顔は大切でしょうし、頭数さえそろえば、議員なんて誰でも良いのか」という疑問と、もう一つは「人物を見ないで投票した結果だとは言わないまでも、これまで、毎回のようにとんでもない議員を選んできたことを私たちも反省が必要なのではないか」という、反省と言うより諦めのような気持ちです。
議員の方々の多くは、すでに選挙モードに入っているそうですが、私たちも、次の選挙では、しっかりと人物を観察する覚悟を固めていきたいものです。

それはともかく、実は、本稿は「どん底」という言葉について考えたかったのですが、道草を食ってしまいました。
それにしても、「どん底」という言葉は、面白い言葉ですねぇ。
この言葉がいつ頃登場してきたものかは知らないのですが、ゴーリキーの戯曲や著名な居酒屋などがあるものですから、何だか意味深げな言葉のような気もしますが、おそらく、「底」であることを強調する為に「ドン」という言葉が付けられたのでしょう。「どん尻」なども同様のはずです。
本来は、「どん底の生活」とか、「どん底まで落ちてしまった」と言ったように、悲壮感漂う言葉だと思うのですが、私の個人的な感覚だけなのかもしれませんが、どこか、先々の明かりを暗示しているような、あるいは期待を抱いているような気がしてならないのです。

今、私たちの社会は、新型コロナウイルスに痛めつけられています。ただ今現在でも終息の見通しさえ立っておらず、政府の対策に対して不満も高まっているとも伝えられています。
しかし、だからといって、現在の状態は、「どん底」の状態なのでしょうか。感染し、亡くなられた方も一万五千人を超えています。その家族の方々にとっては最悪の状態でしょうし、仕事などで大きな影響を受けている方も少なくないと報じられています。コロナに絡んで、家庭が崩壊してしまったという話も伝えられています。そうした方々のことから目をそらすわけではありませんが、わが国全体としては、まだこの社会は「どん底」には至っていないはずです。
「だから大丈夫」ということではなく、まだ「どん底」に向かっている途中なのかもしれないのです。
それぞれにはそれぞれの主義主張が有り、価値観にも差があることはどうすることも出来ません。しかし、ここまで来れば、少々の不満は懐に抱き込んで、感染拡大の沈静化に、出来るだけのことをしようではありませんか。「十分やっている」という声もあるでしょうが、収束の気配さえ見えていないことも現実です。
今一度、初心に返って、一人一人がこのウイルスと真摯に向き合う必要があると思うのです。

( 2021.08.26 )

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