雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

能登半島で強い地震が連続

2022-06-20 18:55:27 | 日々これ好日

      『 能登半島で強い地震が連続 』

     能登半島で 強い地震が続いている
     幸い 深刻な被害は発生していないが
     地域の方々は 不安なことだろう 
     お見舞い申し上げます
     この地域では 四年ほど前から 地震活動が活発で
     2020 年 12 月以降で 震度 1 以上だけで 150 回以上発生しているそうだ
     断層でも火山活動によるものでもなく 地殻変動の可能性もあるらしい
     いずれにしても しばらくの間は続きそうなので
     対応は限られるとしても 
     くれぐれも ご注意下さい

                    ☆☆☆

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山かくす春の霞

2022-06-20 08:20:17 | 古今和歌集の歌人たち

     『 山かくす春の霞 』
  

    東の方より京へまうでくとて、道にてよめる


 山かくす 春の霞ぞ うらめしき
        いづれ都の さかひなるらむ

             作者  おと

( 巻第九 羈旅歌  NO.413 )
         やまかくす はるのかすみぞ うらめしき
                  いづれみやこの さかひなるらむ


* 歌意は、「 山にかかってその姿を隠している 春の霞こそ 憎らしい どちらが都なのか 分からないでしょう 」といった、旅の途中で春ののどかな景色を詠んだものでしょう。
なお、「まうでく」は「上ってくる」。「さかひ」は「ここでは、『あたり』といった意味」です。

* 作者の おと(乙 ?)は、平安時代初期の女性ですが、その経歴等については、ほとんど調べることが出来ませんでした。
ただ、父は壬生益成(ミブノマスナリ)という人物なので、この人の情報を追ってみました。

* 益成は、甲斐国の巨摩郡を本貫地としていたようで、甲斐国造の氏族にあたるとの記録もあるようですが、はっきりしません。生没年は、( 830 - 897 )と伝えられています。
いつから朝廷に出仕したのかは分かりませんが、879 年に左近衛将曹(サコンエショウソウ・従七位相当)に就いています。五十歳の頃の事ですから、貴族とは縁のない下層の官人だったのでしょう。
それでも、その後も昇進しており、887 年には遠江の介についています。介は守に次ぐ役職ですから、次官に近い重職だったことでしょう。
そして、この間の 887 年に「外従五位下」に昇っています。「従五位下」といえば、殿上人への最低基準にあたる地位ですから、かなりな出世といえますが、「外」が付きますと、都出身の貴族や官人と区別されていて、地方出身の官人に与えられた地位で、四位以上に昇るということはなかったようです。そうとはいえ、地方出身の官人としては大出世だったのではないでしょうか。

* 益成は、882 年に、それまでの本貫地である甲斐国巨摩郡から山城国愛宕郡に移っています。当然、自分の都合だけで出来ることではないでしょうから、おそらくは、かねがね希望していたことだったのでしょう。
そしてこの時、七人の子供たちを引き連れて移ったとされています。益成が五十三歳の頃ですから、子供の何人かは、すでに成人に達していたことでしょう。もしかすると、本歌の作者である「おと」も、この時同道していて、この和歌を詠んだのではないかと想像するのです。当時の一般女性が、甲斐国から都に向かうことなど、そうそうなかったでしょうから、突飛な想像ではないと思うのですが、どうでしょうか。

* 「おと」に関する情報や、他の和歌などを見つけ出すのは、私などでは困難でした。それほど多くの情報は記録されていないということだと思うのですが、そうだとしたら、どういう経緯でこの和歌が古今和歌集に選ばれているのでしょうか。
考えられることは、古今和歌集の撰者の一人に、壬生忠岑という人物がいますが、この人も甲斐国出身で同族であることは確かなようです。不確かですが、忠岑は益成の孫という説もあるようです。おそらく、忠岑の推挙があったのではないかと考えられるのです。

* 壬生忠岑の歌人としての評価は極めて高いものですが、官人としての地位は、益成より低いものでした。
しかし、「おと」が生きた時代、華やかな宮廷とは縁のない場所でも、和歌の上手が学び合い披露し合うような場所があったのではないかと思うのです。「おと」も、掲題歌を越えるような和歌をたくさん詠んだのでしょうが、残念ながら、今日に伝えられていないだけなのでしょう。
そう考えると、当時の文化的な発展は、一握りの貴族層やその周辺の人々に限ったものではなく、現在私たちが考えるより遙かに広がっていたのではないかと想像できるのです。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする