『 当地も梅雨入り 』
当地は朝から しとしとと 小雨が降ったり止んだり
予想通り 梅雨入りも発表された
ただ 比較的温度が低く 凌ぎやすい一日だった
庭の草花も 緑に輝きを増しているように見える
もっとも どちらかと言えば 雑草の方が優勢だが
彼らを見ていると 梅雨こそが
わが国を代表する季節のような 気もする
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『 禍だと思っている所に福が寄り添い、福だと思っている所に禍が伏せているものだ。 』
政治が悶々(モンモン・暗くてぼんやりしているさま。)としていて、為政者が何も為していないように見えるが、その時には、民は醇々(ジュンジュン・素朴で人情に厚いさま。)として満ち足りている。政治が察々(サツサツ・細かい所まで察知しているさま。)としていて為政者が細やかに民情を考えて施策を行っているように見えるときには、その時の民は、缼々(ケツケツ・破れ砕けるさま。)として貧しく純朴さは破れ砕けている。
世の中とは、禍だと思っている所に福が寄り添い、福だと思っている所に禍が伏せているものだ。その(何が禍で何が福か)究極の所は誰も知らない。つまり、絶対正しいというものなど無いのである。 ( 『老子』第五十八章より )
( 「ちょっぴり『老子』」 NO.64 より)
『 どうやら、「いろはカルタ」は、人生の過半を生き、何度かの失意や絶望を経験し、裏切ったり裏切られたりの泥を被ったあとで、しみじみと味わってみるもののようです。 』
(「犬も歩ければ棒にあたる」という言葉は、)二つの意味を持っているようです。
一つは、出しゃばると禍に合う、物事を行う人は時には禍に合うことがある、といった意味です。もう一つは、動けば思わぬ幸運に合うこともある、といった意味です。
( 中 略 )
私たちの日常は、自分の思いや苦労がうまく伝わらないことの繰り返しのように思う時があります。努力や誠意が報われないことに苛立つことも少なくありません。
しかし、私たちは、一人一人が異なった価値観を持って生きているのだとすれば、思いや願いがストーレートに伝わらないのが普通だということではないでしょうか。
犬が歩いている姿を見ても、受け取り方が二分されるのが人間というものなのですから。
どうやら、「いろはカルタ」は、人生の過半を生き、何度かの失意や絶望を経験し、裏切ったり裏切られたりの泥を被ったあとで、しみじみと味わってみるもののようです。
( 「言葉のティールーム」第三話 より )