『 エンゼルス マドン監督解任 』
米大リーグ エンゼルスのマドン監督が 電撃解任された
12連敗中という成績が 直接の原因だと思われるが
大谷翔平選手の よき理解者だっただけに 影響が心配だ
業績評価が厳しい国だけに わが国とは違うようだ
今季終了までは フィル・ネビン・コーチが指揮を執る
因みに今日の成績は 接戦の末 やはり負け
とうとう 13連敗で 球団ワースト記録だそうだ・・・
☆☆☆
『 人目も草も 』
冬の歌とてよめる
山里は 冬ぞさびしさ まさりける
人目も草も かれぬとおもへば
作者 源宗于朝臣
( 巻第六 冬歌 NO.315 )
やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける
ひとめもくさも かれぬとおもへば
* 歌意は、「 山里の生活は 冬こそ寂しさが 一段と感じられる 人の訪れは途絶え 草木も枯れてしまうと思えば 」といった、ごく分かりやすい内容でしょう。この歌は、小倉百人一首にも入っていますので、よく知られている和歌の一つです。
* 作者の源宗于朝臣(ミナモトノムネユキアソン)は、平安時代中期の頃の貴族・歌人です。( 生年未詳-没年 940 )行年は、全くの推定ですが、六十歳は過ぎていたと考えられます。
宗于の父は是忠親王ですが、その父は光孝天皇ですので、宗于は皇孫という出自です。ただ、この是忠親王という方は、複雑な経歴の持ち主なのです。
是忠親王は、はじめ二世王として是忠王を名乗っていましたが、870 年に源氏姓を賜って臣籍降下しました。一般貴族として従五位下から順次昇進し、やがて同母弟が宇多天皇として即位したこともあって、従三位中納言にまで昇りました。そして、それとほぼ同時に、宇多天皇の同母兄弟姉妹が皇籍に復帰し親王宣下がなされました。891 年のことで、これにより是忠親王となり三品に叙され、最終的には一品式部卿に就いています。官位だけをみても、余り例のない経歴と言えます。
* 宗于の生年は未詳ですが、おそらく父が源氏姓の時と考えられます。
894 年に源朝臣姓を賜って臣籍降下し、従四位下に叙されていますので、宗于も一端は親王家に戻っていたのでしょう。
その後、兵部大輔等の武官を歴任しましたが、それからは、三河権守、相模守等の地方官に就くことが多かったようです。939 年に正四位下に昇っていますが、四十五年の官職経験を考えれば、不本意な貴族生活であったのかも知れません。
* 宗于は、940 年 11 月に生涯を終えていますが、最終官位は正四位下右京大夫でした。
歌人としては、古今和歌集に6首入集しており、勅撰和歌集全体では15首選ばれており、三十六歌仙にも入っていますので、歌人としてはそれなりの評価を得ていたのでしょう。
ただ、貴族としての身分は、皇孫という事を考えれば不満も大きかったようで、叔父にあたる宇多天皇に官位が上がらない事への不満を訴えた、といった逸話も残されています。また、宗于の生母も妻女も、その名前さえ伝えられていないことも考え合わせますと、官邸においては、多くを為すことが出来なかったのかもしれません。
* そう考えますと、掲題の和歌も、おそらく歌会などで披露されたものなのでしょうが、ごく分かりやすい歌と受け取りましたが、その生涯と重ね合わせますと、少し違う姿が見えてくるのかも知れません。
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