私の家の近くにある「志木市本町三丁目交差点」、歩いて5分ほど。車で出かける時にはよくこの交差点を通るので見慣れた風景です。
ここの南西の一角に小さな緑地があり、そこに面した家の白梅がきれいに咲いているので写真に撮ることにしました。
緑地には
水車のモニュメントがあります。単なる飾りにすぎないと思っていましたが、近寄ってみると
「上の水車・・・このモニュメントは、大正初期頃までこの地にあった水車をしのんで製作されたものです」との解説版がありました。
「川も水路もない、こんなところになぜ水車が?」とほとんどの市民がそう思うでしょう。
実は私の子供の頃くまで、
「野火止用水」という石造りの立派な水路があったのです。
それが、昭和30年から40年代の高度成長時代に人口が急増して悪臭のする排水路となり、下水道となってしまいました。
大正時代にはきれいな水が流れ、のどかな風景が見られたことでしょう。この少し下流は新河岸川、その上を「いろは樋」
と呼ばれる樋でまたぎで宗岡と呼ばれる稲田が多い地域まで流れていたのです。
また、志木市の市場、上町と呼ばれる地域は江戸、東京まで流れる新河岸川(下流は隅田川)の舟運により、
埼玉県南の有数の街として栄えていました。
「野火止用水」は江戸時代、川越藩が新田開発のために造った用水路で、玉川上水(立川市小平監視所)から新座市を経て
志木市の新河岸川まで流れていました。現在、東京都の「清流復活事業」により、新座市の平林寺付近では、
今も立派な水路が保存されています。
さらに「上の水車という以上、下流には下の水車があったのでないか?」との考えがおきてきます。
その位置は?、と推理していくと多分あの辺りかなと思うのですが、それはあくまで私の考えになってしまうので止めにします。
いずれにしても水車はモーターがない時代の貴重な動力源だったに違いありません。
この地域にまつわる歴史を思い起こさせてくれました。
もう一つ、その右側に背の高い石碑が目に付きました。「一体何?」と近寄ってみると
古い道標でした。
ずっと昔からあったものらしい。50年以上もこの地に住んでいるので、きっと目にしていたはずなのですが、
初めて気がつきました。
南北の道路は志木の古い街道なのですが、東西の道路は「昭和新道」と呼ばれているので、
おそらく戦前の昭和初期に造られた道路と思われます。
したがって、私の想像では、この交差点の道標もおそらく昭和の初期に造られたものではないか。
よく見ると「白子村(現在の和光市)ヲ経テ東京市板橋町(現在の東京都板橋区)ニ至ル」などと書いてあります。
他にも、浦和市(現在のさいたま市)、立川 府中、川越市などの名前が。
ただ、この頃は現在のように自動車や自転車などはほとんど使われていなかった時代。
周辺のすべての道には舗装などしてありませんでした。
鉄道も東武東上線は近くに開通していましたが、まだまだ未発達の時代だと思われ、荷車や徒歩の人のために
建てられたものであることは明らかです。
この道標も古い歴史に思いをはせることが出来ました。
PENTAX K20D +TAMRON 17-50mm f2.8で撮影
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