マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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続、五百井の三里八講を探して

2009年05月23日 08時32分45秒 | 楽しみにしておこうっと
服部町には素盞嗚神社が鎮座している。

真新しい注連縄が鳥居と拝殿に掲げられている。

本殿の前にも鳥居がありそこには須佐男神社と銘記されている。

どちらが正しいのだろうか。

両町に挟まれた区域は素晴らしい景観の田園佇まい。

周囲は新興住宅が多く建てられており旧村の状況が掴みにくくなっている。

畑地を行けば農作業をされている方がおられる。

お聞きすると服部町の旧村の方だった。

三里八講は聞いたことがないという。

たぶん「みさと」と呼んで八軒が営む講ではないだろうかと仰る。

素盞嗚神社では正月と秋祭りぐらいやし、信仰が薄れてきている。

生活文化の変化で祭礼に参加する人も少なくなっているという。

講なら「血縁講」があると仰った。

今年の集まりには参加できなかったご自身。

昔は40軒あった講も27軒に減って、今じゃたったの7軒。

一年にいっぺんの集まりで酒を飲む場になっているそうだ。

何年か前までは当番の家で酒宴をしていたが会費から考えたら外でもいいんじゃないかと今は信貴山の(みよし)料理旅館で宴会しているそうだ。

かってはデンジ(講の田)があったが、田んぼもせんようになってそれを売却した。

お金が入ってやめたところが多くなり今に至っているという。

おそらく三里八講もなんらかの理由で随分前にやめてしまったのであろう。

3,40年前のことを知っている人が生存していること事態はとても難しいがもう少し調べてみたい。

(H21. 4. 1 SB912SH撮影)

五百井の三里八講を探して

2009年05月23日 08時30分48秒 | 楽しみにしておこうっと
1978年(昭和53年)12月発刊の『日本史研究196号』に五百井の三里八講についての記述があった。

五百井惣については朝倉引「戦国期惣結合の動向について-大和平群五百井惣を中心とする」(日本歴史206 1965年(昭和40年)参照)。

中世末惣村を経験した五百井村は、庄屋を中心とした村算用を容易には庄屋要断に陥らせなかった。

年度末の免割算用はかっての在所の年寄衆の承認を必要としたのである。

彼らは中世末惣結合の精神的紐帯の核であった三里八講の頭役を勤める存在であった。

三里八講は五百井村を服部村の農民によって構成された宮座である。

頭役は宮座の神事(毎年4月1日)を取り仕切るもので、両村の有力農民が一人ずつ年番で勤めた。

その頭役を勤める農民は極めて限定されており、戦国末惣村の精神的紐帯の中核であった宮座の性格から、頭役経験者はいわば在所の年寄衆と考えることができる。

記述されている三里八講が現在でも行われているのかどうか前々から気になっていた。

宮座の神事とされることから五百井町の伊弉冊神社(隣の福安寺は尼寺)を訪ねてみた。

そこには一人のご婦人(神社氏子)が参拝に来られていた。

毎月1日と15日は参拝が欠かせないという。

祭礼のことをお聞きすればそのような件は聞いたことがないという。

南に百メートルほど歩くと服部町だ。

そこにも神社があるので訪ねてみよう。