新泉の里は和名抄の山辺郡穂積邑になるという頭屋さん。
昭和40年ごろまではムギ作の二毛作を営み五月にムギを刈り入れするから「五月秋」と称していた。
そのころまでは奈良市の田原から牛を借りて田んぼを耕していたという。
苣原を経由して借りた借り牛は、正暦寺の裏山道も抜けて田原から来た。
牛は秋が過ぎて田を荒起こしするときにもきたという。
耕運機に替わってからは牛が田んぼから消えた。
そんな牛を見たこともない子どもたちがワラの牛を巧みに操って小さな田んぼを耕していく。
子どもの健やかな成長や地区の五穀豊穣を願う祭りはお神酒をいただいて終える。
そのあとお神酒を田んぼや土俵に捧げてウシ、ウマ、ムカデを本殿に置かれて頭屋の家に戻っていった。
50年以上も前に経験された役員さんは昔の土俵は2倍ほどあった。
田んぼも大きかったと懐古されるが、そのときは子どもの目線だったのではっきりとしたことは言えないと仰った。
(H21. 5. 3 Kiss Digtal N撮影)
昭和40年ごろまではムギ作の二毛作を営み五月にムギを刈り入れするから「五月秋」と称していた。
そのころまでは奈良市の田原から牛を借りて田んぼを耕していたという。
苣原を経由して借りた借り牛は、正暦寺の裏山道も抜けて田原から来た。
牛は秋が過ぎて田を荒起こしするときにもきたという。
耕運機に替わってからは牛が田んぼから消えた。
そんな牛を見たこともない子どもたちがワラの牛を巧みに操って小さな田んぼを耕していく。
子どもの健やかな成長や地区の五穀豊穣を願う祭りはお神酒をいただいて終える。
そのあとお神酒を田んぼや土俵に捧げてウシ、ウマ、ムカデを本殿に置かれて頭屋の家に戻っていった。
50年以上も前に経験された役員さんは昔の土俵は2倍ほどあった。
田んぼも大きかったと懐古されるが、そのときは子どもの目線だったのではっきりとしたことは言えないと仰った。
(H21. 5. 3 Kiss Digtal N撮影)