マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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宮堂町の祭礼

2009年07月18日 07時47分17秒 | 楽しみにしておこうっと
大和郡山市宮堂町の営みは八王子神社の宮座七人衆が執行している。

神主は座衆の長老があたる一年神主。

当家は兄(アニキブン当人)が勤め、服忌などで祭事が滞る場合に備えて当家を代行する弟当家(オトウトブン当人)が定められている。

祭事の進行役はアニキブンが指名した座奉行が勤める。

さらに三献の儀でお神酒を注ぐ三人の給士人らの宮座組織体で行われている。

祭礼は9月に行われる昔宵宮と10月の祭当家と呼ぶ本宮祭の二つがある。

ひとつは八王子神社の祭礼でもうひとつは勧請された春日神社の祭りだ。

祭当家では当人が白装束を着て雪駄(せきだという)を履いてお渡りをする。

そのお渡りには「八王子神社 敬神講 祭事をはじめるにあたりー」と口上を延べて「トーニン トーニン オ立チー」と言って出幸する。

講の田んぼで穫れた穂付き稲は節を綺麗に磨いた竹筒に入れ、高さ30cmほどの竹製の酒樽などを担いでお渡りをする。

村のある箇所でオトウトブン当人と落ち合って、道中は気勢をあげながら練り歩くそうだ。

堂塚さんへの参拝など祭礼を終えるとカマボコで直会が始まる。

朱塗りの椀で酒を注ぐ一献の儀、巫女神楽を終えて三献の儀式。

爪楊枝でカマボコをいただく。

かつて祭りを終えた翌11月末にはコモで覆った銅板でできた分霊遷しましされた館を引き渡す当家揚げがある。

引き渡しのあとは、毎日、生御膳とおコメを供えて一年間分霊を祀っていたといい、現在は館だけを引き渡す形式になった。

宮堂町の祭礼も改革を余儀なくされている。

過渡期の現在、祭礼の形式だけでも代を繋いで継承していきたいと前当人は仰る。

その前当人の家では数十年前まで手で田植えをしていた。

三本クワで田起こしするなど昔ながらの稲作をしていたとい、当時の名残となった荘厳さんの牛玉宝印は大切に保管されていた。

(H21. 5.10 SB912SH撮影)

宮堂町の苗代お札

2009年07月18日 07時45分04秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の最南に位置する宮堂町。

近鉄ファミリー公園駅から南は川西町で集落東は天理市になる。

丁度その真上は京奈和道路の高架が通過している。

北東にある古池から西は田園が広がり、集落の南側の田園よりも微高地になっている。

その田園の一角の苗代にはお花飾りとともにお札が挿されている。

これは2月11日に観音寺で営まれた荘厳講(ショウゴンサンと呼ぶ)でたばった牛玉宝印書だ。

ショウゴンサンで祈祷されたお札は二股枝の間にモチを挟んだカワヤナギの木に、先端を三つに割いて巻きつけている。

お札は戸数の六十枚で小杉原紙と決まっている。

修二会のお勤めは住職をはじめ八王子神社宮座の七人衆を卒業した長老五人衆と兄、弟当人らによって行われている。

それを終えてから兄、弟当人が各戸に配る。

それから3ヶ月後のGW時期は苗代作りが始まっている。

(H21. 5.10 Kiss Digtal N撮影)