ノガミの分布図を参照すれば、ほとんどが藤原京から下ッ道に沿って北に向かう平城京まで連なっている。
唯一、御所蛇穴の汁掛け・綱引きが見られるものの西方の葛城地域にはノガミ事例は皆無といっていいほどだ。
ただ、実家が香芝だったというご婦人の話では志都美(しずみ)」駅との間にあったそうだ。
聞き取りだけに実地調査が伴っていないので不確かなノガミ情報である。
ノガミは北部と中南部では様相が大きく異なる。
その境目はどこにあるのだろうか。
大和郡山は北部に位置する。
平城京でいう十条、十一条坊にノガミが分布している。
市内のノガミはほとんど消滅しているが中南部のノガミのような蛇綱は見られない。
蛇綱が出現するのは川西の下永、三宅の石見、田原本の矢部、今里・鍵、天理は新泉に平等坊、そして橿原北部の上品寺などの地域に集中している。
郡山と川西の境目は大和川だ。
平城京から南下するにつれ勾配は緩やかに下っていく。
佐保川、秋篠川の流れは大和川に流れ込む。
逆に飛鳥、藤原京から北上するにつれ緩やかに勾配が下がっていく。
初瀬を源流とする支流大和川、寺川は佐保川が合流する大和郡山と川西の間の本流大和川に集約して流れ込む。
いわば盆地部の最低部にあたる地域になるのだ。
支流も含めて古来より川は洪水などで氾濫を繰り返してきた。
大きな反乱で川の流れが大きく変わったと発掘調査で発見されている。
下ッ道の大道にもその痕跡があった。
大和郡山池ノ内は氾濫の結果、集落全体が移設せざるを得なかった。
蛇のように曲がりくねった河川。
大雨が降るたびに氾濫を繰り返してきた河川。
川は田んぼにとって必要不可欠な水を与えてくれる恵みの川だ。
盆地部ではそれを利用して溜池にしてきた。
水とともに生きる集落の環濠も生活の知恵として誕生したのであろう。
それはともかく、水神として崇めた雨を呼ぶ龍は荒れ狂い氾濫する川をもそれに例えたのでないだろうか。
荒ぶる神の野神は氾濫を繰り返す河川と考えられないだろうか。
その象徴は水神の龍。龍はいつしか古来より崇めている蛇に化身し、水害から集落を守ってほしいと願う信仰に繋がったのではないだろうか。
その蛇をワラで造って崇めた。
雨量が多くなる季節は梅雨から7月にかけて集中している。
適度な降水は田んぼにとって最適だが大雨となれば水害で農業の営にとって影響は大きい。
荒れ狂う河川の氾濫は大敵だ。
暴れる蛇を祀り豊作を祈ったのではないだろうか。
二毛作だったころは4月末から5月にかけてムギを収穫する。
それを五月秋と呼んでいた新泉の住民。
収穫したムギワラで造った蛇を祀り大雨にならないように豊作を祈願する。
稲作へと転化する畑地。
無事に稲苗が育ってくれるようにと豊作を祈願する。
そういうことではないだろうか。
ノガミとされる塚や一本木は集落の周辺に見られる。
ハッタハンと呼ぶ塚(あるいは樹木)もそういった位置にある。
集落の守り神と考えるのが妥当ではないだろうか。
蛇を担ぎ集落を練り歩いたあと塚や樹木に巻きつける。
巻きつける姿はミーサン信仰のあらわれであろう。
荒れる野神は水神の蛇の化身となって集落を守る神さんになった。
それがノガミ行事の目的ではないだろうか。
橿原の地黄では早朝に野神神社へ参ったあと「ノーガミサン オークッタ ジイジモ バアバモハヨオキヨ」と囃して集落に戻ってくる。
荒れ狂うノーガミさんは村外れに送った(もっていった)ので安心してや、これで村も安泰になったので起きて畑仕事に精出してやということではないだろうか。
奈良盆地には200あるいは300もあるとされている旧村の環濠集落。
その地域全てにノガミ行事があったわけではない。
前述したように下ッ道を中心に北は平城京、南は藤原京の間にあるのだ。
都は整備された都市空間。
荒れ狂う地ではない。
その間の地域は旧村が点在しているものの全体的には未開拓地だったのではないだろうか。
大雨が降って氾濫した河川の水が野を埋め尽くす大海原の原野のような様相が想像できる。
集落の外れにぽつんと立つ一本木。
一里塚のような目印でもあった一本木は神が宿るものとされてきたのではないだろうか。
氾濫が少なかったとされる北部地域には環濠がみられない。
地域的にみれば大和郡山北部、紀寺、京終、三条辺りは平城京都の外側に位置する。
その北部のノガミ行事は牛の絵馬の奉納が主立った行事だ。
中南部でも見られる牛の絵馬。
農耕に重要な役割をもつ役牛。
かつては牛ではなく馬だったとされる。
ところが馬は暴れる動物だ。
役牛も暴れるオスよりもメス牛が使われてきた。
その馬や牛が墨書された板絵が見つかった。
橿原市一町で平安時代のものと思われるヒノキの板絵(絵馬のような紐穴は見あたらない)が発掘された。
そこにはウシ、ウマ、ヒツジ、イヌ、オス鶏は人形代(ひとかたしろ)とともに発見されたことから厄祓いの祭具だと考えられている。
描かれた動物たちは生活の一助を担っていたのであろう。
つい最近までの農業にはウシを飼って家族のように生活を共にしてきた。
ヒツジはともかく動物たちは家族の一員であった。
その動物を大切にすることは当然の営みであったろう。
ウシを引き連れてノガミの塚へ参ったのは自然な行為だ。
池ノ内の牛の宮参りはそれを象徴する。
一町で今でも行われている牛滝参りはその名残ではないだろうか。
平城京ができるまでの北部も荒れた原野ではなかったろうか。
そこに都が建設されて追いやられた荒れた農地。
残された一本木をノガミとして祀り、いつしか大切にしてきた役牛を奉るようになったのではないだろうか。
ちなみに大和郡山の椎木のショウブデンボは本来的にはイノコの行事であろう。
それが一本木と呼ばれるノガミ信仰と被さってきたものと考えられる。
また、新泉は一本木のオンダと呼ばれるように元々はお田植え祭であろう。
そこにムカデとも呼ばれるジャが追加されるようになってノガミ信仰が加わった。
池ノ内の牛ノ宮参りはしんこ団子が登場することから矢田寺のお練りレンゾと合わさったものではないだろうか。
ノガミに子どもや節句がどう絡んでいるのか。
まだまだ考えを整理しなくてはならない事項がたくさんあります。
宮中行事が民衆へ。元服、村入り、村行事の村落共同体。
担い手を必要とした地域とそうでない地域。
そうでない地域が元々あったのか、なかったのか。
あったとしたら何故に消えたのか。
また、ワカメ汁がなぜに供されるのか。
子どもが登場しない北部の京終、芝辻、下三橋、南六条ではなぜにチマキがお下がりに供されるのか。
チマキは上品寺もありますし、節句とノガミってどうなの。
下永、都祁南之庄では節句の祭事でチマキがあるし、どういうこと?。
ショウブにヨモギもある南之庄と漢国神社。
そういえばショウブにヨモギを屋根に供える野依は節句オンダっていうし。
北部ではさらに牛参りが絡んでいる。角にショウブやヨモギを飾り付けてお参りしていた。
家族の一員ともいえる牛は大切な役牛で農生業にかかせなかった。
牛にチマキに農耕行事。ノガミ、調べなきゃならんこと多々あり、判らんこといっぱいあります。
(H21. 5.12 記)
唯一、御所蛇穴の汁掛け・綱引きが見られるものの西方の葛城地域にはノガミ事例は皆無といっていいほどだ。
ただ、実家が香芝だったというご婦人の話では志都美(しずみ)」駅との間にあったそうだ。
聞き取りだけに実地調査が伴っていないので不確かなノガミ情報である。
ノガミは北部と中南部では様相が大きく異なる。
その境目はどこにあるのだろうか。
大和郡山は北部に位置する。
平城京でいう十条、十一条坊にノガミが分布している。
市内のノガミはほとんど消滅しているが中南部のノガミのような蛇綱は見られない。
蛇綱が出現するのは川西の下永、三宅の石見、田原本の矢部、今里・鍵、天理は新泉に平等坊、そして橿原北部の上品寺などの地域に集中している。
郡山と川西の境目は大和川だ。
平城京から南下するにつれ勾配は緩やかに下っていく。
佐保川、秋篠川の流れは大和川に流れ込む。
逆に飛鳥、藤原京から北上するにつれ緩やかに勾配が下がっていく。
初瀬を源流とする支流大和川、寺川は佐保川が合流する大和郡山と川西の間の本流大和川に集約して流れ込む。
いわば盆地部の最低部にあたる地域になるのだ。
支流も含めて古来より川は洪水などで氾濫を繰り返してきた。
大きな反乱で川の流れが大きく変わったと発掘調査で発見されている。
下ッ道の大道にもその痕跡があった。
大和郡山池ノ内は氾濫の結果、集落全体が移設せざるを得なかった。
蛇のように曲がりくねった河川。
大雨が降るたびに氾濫を繰り返してきた河川。
川は田んぼにとって必要不可欠な水を与えてくれる恵みの川だ。
盆地部ではそれを利用して溜池にしてきた。
水とともに生きる集落の環濠も生活の知恵として誕生したのであろう。
それはともかく、水神として崇めた雨を呼ぶ龍は荒れ狂い氾濫する川をもそれに例えたのでないだろうか。
荒ぶる神の野神は氾濫を繰り返す河川と考えられないだろうか。
その象徴は水神の龍。龍はいつしか古来より崇めている蛇に化身し、水害から集落を守ってほしいと願う信仰に繋がったのではないだろうか。
その蛇をワラで造って崇めた。
雨量が多くなる季節は梅雨から7月にかけて集中している。
適度な降水は田んぼにとって最適だが大雨となれば水害で農業の営にとって影響は大きい。
荒れ狂う河川の氾濫は大敵だ。
暴れる蛇を祀り豊作を祈ったのではないだろうか。
二毛作だったころは4月末から5月にかけてムギを収穫する。
それを五月秋と呼んでいた新泉の住民。
収穫したムギワラで造った蛇を祀り大雨にならないように豊作を祈願する。
稲作へと転化する畑地。
無事に稲苗が育ってくれるようにと豊作を祈願する。
そういうことではないだろうか。
ノガミとされる塚や一本木は集落の周辺に見られる。
ハッタハンと呼ぶ塚(あるいは樹木)もそういった位置にある。
集落の守り神と考えるのが妥当ではないだろうか。
蛇を担ぎ集落を練り歩いたあと塚や樹木に巻きつける。
巻きつける姿はミーサン信仰のあらわれであろう。
荒れる野神は水神の蛇の化身となって集落を守る神さんになった。
それがノガミ行事の目的ではないだろうか。
橿原の地黄では早朝に野神神社へ参ったあと「ノーガミサン オークッタ ジイジモ バアバモハヨオキヨ」と囃して集落に戻ってくる。
荒れ狂うノーガミさんは村外れに送った(もっていった)ので安心してや、これで村も安泰になったので起きて畑仕事に精出してやということではないだろうか。
奈良盆地には200あるいは300もあるとされている旧村の環濠集落。
その地域全てにノガミ行事があったわけではない。
前述したように下ッ道を中心に北は平城京、南は藤原京の間にあるのだ。
都は整備された都市空間。
荒れ狂う地ではない。
その間の地域は旧村が点在しているものの全体的には未開拓地だったのではないだろうか。
大雨が降って氾濫した河川の水が野を埋め尽くす大海原の原野のような様相が想像できる。
集落の外れにぽつんと立つ一本木。
一里塚のような目印でもあった一本木は神が宿るものとされてきたのではないだろうか。
氾濫が少なかったとされる北部地域には環濠がみられない。
地域的にみれば大和郡山北部、紀寺、京終、三条辺りは平城京都の外側に位置する。
その北部のノガミ行事は牛の絵馬の奉納が主立った行事だ。
中南部でも見られる牛の絵馬。
農耕に重要な役割をもつ役牛。
かつては牛ではなく馬だったとされる。
ところが馬は暴れる動物だ。
役牛も暴れるオスよりもメス牛が使われてきた。
その馬や牛が墨書された板絵が見つかった。
橿原市一町で平安時代のものと思われるヒノキの板絵(絵馬のような紐穴は見あたらない)が発掘された。
そこにはウシ、ウマ、ヒツジ、イヌ、オス鶏は人形代(ひとかたしろ)とともに発見されたことから厄祓いの祭具だと考えられている。
描かれた動物たちは生活の一助を担っていたのであろう。
つい最近までの農業にはウシを飼って家族のように生活を共にしてきた。
ヒツジはともかく動物たちは家族の一員であった。
その動物を大切にすることは当然の営みであったろう。
ウシを引き連れてノガミの塚へ参ったのは自然な行為だ。
池ノ内の牛の宮参りはそれを象徴する。
一町で今でも行われている牛滝参りはその名残ではないだろうか。
平城京ができるまでの北部も荒れた原野ではなかったろうか。
そこに都が建設されて追いやられた荒れた農地。
残された一本木をノガミとして祀り、いつしか大切にしてきた役牛を奉るようになったのではないだろうか。
ちなみに大和郡山の椎木のショウブデンボは本来的にはイノコの行事であろう。
それが一本木と呼ばれるノガミ信仰と被さってきたものと考えられる。
また、新泉は一本木のオンダと呼ばれるように元々はお田植え祭であろう。
そこにムカデとも呼ばれるジャが追加されるようになってノガミ信仰が加わった。
池ノ内の牛ノ宮参りはしんこ団子が登場することから矢田寺のお練りレンゾと合わさったものではないだろうか。
ノガミに子どもや節句がどう絡んでいるのか。
まだまだ考えを整理しなくてはならない事項がたくさんあります。
宮中行事が民衆へ。元服、村入り、村行事の村落共同体。
担い手を必要とした地域とそうでない地域。
そうでない地域が元々あったのか、なかったのか。
あったとしたら何故に消えたのか。
また、ワカメ汁がなぜに供されるのか。
子どもが登場しない北部の京終、芝辻、下三橋、南六条ではなぜにチマキがお下がりに供されるのか。
チマキは上品寺もありますし、節句とノガミってどうなの。
下永、都祁南之庄では節句の祭事でチマキがあるし、どういうこと?。
ショウブにヨモギもある南之庄と漢国神社。
そういえばショウブにヨモギを屋根に供える野依は節句オンダっていうし。
北部ではさらに牛参りが絡んでいる。角にショウブやヨモギを飾り付けてお参りしていた。
家族の一員ともいえる牛は大切な役牛で農生業にかかせなかった。
牛にチマキに農耕行事。ノガミ、調べなきゃならんこと多々あり、判らんこといっぱいあります。
(H21. 5.12 記)