もしかとしてこの日にトウヤ(戸座)送りが行われるのではと思って出かけた奈良市矢田原町の春日宮神社。
着いた時間は午前10時。
境内にはどなたもおられなかったが、ガラス越しに見えた社務所に人影が。
近づけば男性が声をかけられる。
事情を伝えたら、トウヤ送りは六軒それぞれが個々にしていたという。
トウヤを充てる漢字は戸座。
六軒あるから六戸座。
これまで一年間も担った6人のトウヤはそれぞれにあたる次のトウヤに送る。
送るのは話の内容から想定して、箱のように思える。箱にはトウヤ勤めの素襖衣装や烏帽子などを納めてあるように思った。
送りの箱を受け取った家がこれから一年間を勤める。
いわゆる引き渡しであるが、儀式らしきものはないという。
「今日のトウヤ送り、お願いします」と云ってそれぞれが引き渡す。
すべての引き渡しが終わればトウヤ長と呼ばれる六戸座の代表が幣をもって神社で祓うらしい。
生憎、拝見できていないので想像をかきたてる。
今年は朝早くに行われたが、その時間帯を決めるのもトウヤ長の役目。
金を集めて決めるようだ。
戸座は籤で決めるわけではなく、家の廻り。
集落の垣内戸数の関係もあるが、だいたいが10~12年の廻りになるらしい。
戸座の出番は10月のヨミヤとマツリ。
ヨミヤの朝は御供餅搗きから始まる。
六戸座、それぞれの家で餅を搗く。
一戸座当たりの餅米の量は決まっている。
三升に一臼。
餅を盛るのは半切り若しくはフゴ。
いずれであってもオーコを担いで神社まで運ぶそうだが、時間帯は特に決まっていない。
御供を運んでからの夕刻。
というよりも夜時間になるころになれば六戸座それぞれのお渡りがあるらしい。
家を出発した戸座の人たちは烏帽子被りに白装束。
装束は素襖(裃かも)のように思える。
戸座だけなのか、他の人ももつのか、聞きそびれたが何人かが松明を持って神社まで向かうようだ。
神事後を終えたらゴクマキをすると話していた。
また、翌日のマツリに供える神饌にザクロやショウガ、ドロイモ、ユバにコブもあるという六人衆。
88歳の一老から82歳の六老までの長老は年齢を感じさせないお顔だ。
一同が揃っているので撮ってほしいと願われてシャッターを押す。
その中におられる一老のKさん。
本日の朝8時にトウヤ送りされた衣装箱を受け取ったそうだ。
ところでこの場におられる白い服を着た男性がおられる。
どこかで見たことがあるご仁である。
男性はこの日の神社行事の月次祭を斎主された宮司さん。
「何年か前に連載してはった産経新聞の記事を保存している」というのである。
産経新聞といえばたしかに、執筆・連載していた。
「やまと彩祭」のシリーズ名で奈良県内の伝統行事を紹介してきた。
平成22年の1月初めより、あしかけ1年間の毎週、48回に亘って紹介してきた新聞を保存しているという人はこれまで何人かおられることは知っている。
まさか、この場で遭遇するとは・・・。
そこで思いだしたのが男性のお顔。
平成22年3月24日に新聞紙上で発表した「奈良市田原の祭文語り・おかげ踊り」に登場されていた錫杖振りのMさんだった。
Mさんが神職であったことはまったく知らなかった。
矢田原町でお会いするとはまさに奇遇である。
この場でお聞きする戸座のことやマツリ行事などの他に村行事も教えていただいた。
六人衆が立ち会う行事に正月初めの初祈祷がある。
念仏があるのか、所作はどうなのか聞きそびれたが、愛宕さんやお伊勢さんに参る代表者を決めるフリアゲがある。
いわゆる代参決めである。
愛宕さんやお伊勢さんに出かけてお札を拝受されて村に持ち帰る人はそれぞれ2人。
籤を入れて茶碗でフリアゲする茶碗籤は是非とも取材したいと思った。
ちなみに今年の代参が授かってきた火迺要慎(ひのようじん)の護符がある。
3月20日に行われたこども涅槃の会場になる集会所の炊事場でも拝見した護符は神社社務所の炊事場にも貼ってあった。
炊事場は火を使う場所。
防火のために拝受した火迺要鎮の護符は京都の愛宕さんでもらってきたもの。
火伏の神さんの愛宕さんは「阿多古祀符(あたごしふ)」。
一度見れば目に焼き付くお札の文字である。
ちなみにこの一枚は、平成28年10月29日から12月11日まで行われた奈良県立民俗博物館の企画写真展の「わたしがとらえた大和の民俗―住―」に展示させてもらった。
春日宮神社は20年に一度のゾーク(造営)がある。
前回のゾークは平成18年3月25日。
記念の写真を掲げていた。
それより以前のゾーク祭典には獅子舞も登場した。
獅子舞の組は天理市櫟本に住んでいたとされる「タダケンジ組」。
30年前のことであるが、現在は解散されたのか来ることはないようだ。
「タダケンジ組」の名は他村でも聞いたことがある。
平成24年4月に訪れた奈良市誓多林町の住民が話していた組の名は伊勢の大神楽と云わずに「多田ケンジ」だった。
おそらく同一人物の組であったであろう。
(H28. 6. 1 EOS40D撮影)
着いた時間は午前10時。
境内にはどなたもおられなかったが、ガラス越しに見えた社務所に人影が。
近づけば男性が声をかけられる。
事情を伝えたら、トウヤ送りは六軒それぞれが個々にしていたという。
トウヤを充てる漢字は戸座。
六軒あるから六戸座。
これまで一年間も担った6人のトウヤはそれぞれにあたる次のトウヤに送る。
送るのは話の内容から想定して、箱のように思える。箱にはトウヤ勤めの素襖衣装や烏帽子などを納めてあるように思った。
送りの箱を受け取った家がこれから一年間を勤める。
いわゆる引き渡しであるが、儀式らしきものはないという。
「今日のトウヤ送り、お願いします」と云ってそれぞれが引き渡す。
すべての引き渡しが終わればトウヤ長と呼ばれる六戸座の代表が幣をもって神社で祓うらしい。
生憎、拝見できていないので想像をかきたてる。
今年は朝早くに行われたが、その時間帯を決めるのもトウヤ長の役目。
金を集めて決めるようだ。
戸座は籤で決めるわけではなく、家の廻り。
集落の垣内戸数の関係もあるが、だいたいが10~12年の廻りになるらしい。
戸座の出番は10月のヨミヤとマツリ。
ヨミヤの朝は御供餅搗きから始まる。
六戸座、それぞれの家で餅を搗く。
一戸座当たりの餅米の量は決まっている。
三升に一臼。
餅を盛るのは半切り若しくはフゴ。
いずれであってもオーコを担いで神社まで運ぶそうだが、時間帯は特に決まっていない。
御供を運んでからの夕刻。
というよりも夜時間になるころになれば六戸座それぞれのお渡りがあるらしい。
家を出発した戸座の人たちは烏帽子被りに白装束。
装束は素襖(裃かも)のように思える。
戸座だけなのか、他の人ももつのか、聞きそびれたが何人かが松明を持って神社まで向かうようだ。
神事後を終えたらゴクマキをすると話していた。
また、翌日のマツリに供える神饌にザクロやショウガ、ドロイモ、ユバにコブもあるという六人衆。
88歳の一老から82歳の六老までの長老は年齢を感じさせないお顔だ。
一同が揃っているので撮ってほしいと願われてシャッターを押す。
その中におられる一老のKさん。
本日の朝8時にトウヤ送りされた衣装箱を受け取ったそうだ。
ところでこの場におられる白い服を着た男性がおられる。
どこかで見たことがあるご仁である。
男性はこの日の神社行事の月次祭を斎主された宮司さん。
「何年か前に連載してはった産経新聞の記事を保存している」というのである。
産経新聞といえばたしかに、執筆・連載していた。
「やまと彩祭」のシリーズ名で奈良県内の伝統行事を紹介してきた。
平成22年の1月初めより、あしかけ1年間の毎週、48回に亘って紹介してきた新聞を保存しているという人はこれまで何人かおられることは知っている。
まさか、この場で遭遇するとは・・・。
そこで思いだしたのが男性のお顔。
平成22年3月24日に新聞紙上で発表した「奈良市田原の祭文語り・おかげ踊り」に登場されていた錫杖振りのMさんだった。
Mさんが神職であったことはまったく知らなかった。
矢田原町でお会いするとはまさに奇遇である。
この場でお聞きする戸座のことやマツリ行事などの他に村行事も教えていただいた。
六人衆が立ち会う行事に正月初めの初祈祷がある。
念仏があるのか、所作はどうなのか聞きそびれたが、愛宕さんやお伊勢さんに参る代表者を決めるフリアゲがある。
いわゆる代参決めである。
愛宕さんやお伊勢さんに出かけてお札を拝受されて村に持ち帰る人はそれぞれ2人。
籤を入れて茶碗でフリアゲする茶碗籤は是非とも取材したいと思った。
ちなみに今年の代参が授かってきた火迺要慎(ひのようじん)の護符がある。
3月20日に行われたこども涅槃の会場になる集会所の炊事場でも拝見した護符は神社社務所の炊事場にも貼ってあった。
炊事場は火を使う場所。
防火のために拝受した火迺要鎮の護符は京都の愛宕さんでもらってきたもの。
火伏の神さんの愛宕さんは「阿多古祀符(あたごしふ)」。
一度見れば目に焼き付くお札の文字である。
ちなみにこの一枚は、平成28年10月29日から12月11日まで行われた奈良県立民俗博物館の企画写真展の「わたしがとらえた大和の民俗―住―」に展示させてもらった。
春日宮神社は20年に一度のゾーク(造営)がある。
前回のゾークは平成18年3月25日。
記念の写真を掲げていた。
それより以前のゾーク祭典には獅子舞も登場した。
獅子舞の組は天理市櫟本に住んでいたとされる「タダケンジ組」。
30年前のことであるが、現在は解散されたのか来ることはないようだ。
「タダケンジ組」の名は他村でも聞いたことがある。
平成24年4月に訪れた奈良市誓多林町の住民が話していた組の名は伊勢の大神楽と云わずに「多田ケンジ」だった。
おそらく同一人物の組であったであろう。
(H28. 6. 1 EOS40D撮影)