大阪生まれの大阪育ち。
多感なころを生きてきた。
小学校は生まれ育った地元。
中学生ともなれば範囲は広がるが、エリア的には数キロメートルの範囲内。
それぞれの地区出身の小学生が集まっている中学校生徒になる。
高校生ともなれば大坂府下全域。
校区がなければそうなるが、そうはいかない。
中学校の時に目覚めた設計技師になりたくて工業高校を選んだ。
入学した高等学校は大阪府立東住吉工業高等学校。
設立・開校は昭和38年4月1日。
私の入学年は昭和41年になる。
東住吉工業高校の学科は四つ。
機械科は第一と第二がある。
学科は他に電気科に設備工業科があった。
機械、電気はどこの工業高校もあったと思うが、設備工業科は当校だけだったと思う。
第一機械科と第二機械科の大きな違いは何だ。
はっきりと認識していなかったが、たしか第一が鋳物で第二は旋盤。
大きく分けての話しである。
クラス数は第一機械科が2クラス。
第二機械科が4クラス。
電気科は3クラスで設備工業科は2クラスだった。
企業というか、国の発展や経済を考えたクラス数だったのかも知れない。
入学、在校のころなんかはなんの考えもなく手に技術を身につけたかった。
仕事先にわが身で貢献したい。
そう思っていただけの3年間の学びにクラスメートは40人。
入学したときは40人だったが、卒業するときには一人増えて41人になっていた。
だいたいが卒業するときには入学した時よりも減っているのが当たり前だった。
それが顔ぶれがまったく変わらずに、しかも一人増えて卒業するクラスは創立以来初めてだと先生が云っていたことを覚えている。
二年生に繰り上がった時だったと思う。
もしかとすれば、三年生に繰り上がったときかもしれないが、先輩の二人が留年されて繰り下がり。
そこで42人になった。
次の年にはそのときに一緒になった年上先輩の一人はまたもや留年。
そして、最後の卒業は一年先輩のHも一緒になって卒業した。
昭和54年に発刊された『陽友会名簿(1979)』が手元にある。
それにはきっちり41人の名が連なっている。
氏名を見るだけで、当時の顔ぶれを思いだす。
その名簿事件があった。
自宅に何かの商品を売りつけようとする勧誘電話だ。
電話口から聞こえる声は女性だった。
なんの商品か、さっぱり覚えてないが、自宅に架かってきた電話に不信を覚えた。
もしかとしてと思ってこう云った。
「手元にあるリストに電話番号があって、私のところに電話をされたのですね」と問えば「そうです」と答える。
「では、住所はどちらになっていますか」と問えば、現在住居のアドレスだった。
これはと思って聞いた。
「それは名簿のようなものですか」と問えば「そうです」と答える。
女性勧誘者は素直に答えてくださる。
ここまで来れば誰しも、ふーんと思うだろう。
卒業したときは実家住まいだった。
現住所ではない。
現住所の前は生まれた故郷だが、団地住まいになっていた。
番地は当然ながら変わっているし、電話番号も新設だったので実家の番号とは異なる。
住所に電話番号から推定。
名簿は卒業名簿だと確信した。
ついでに「名簿に本の名前がありますか、あれば何て書いていますか」と問えば『陽友会名簿』であった。
名簿はどういう具合に入手したか。
勧誘する女性は応えられないが、勘ぐってみれば盗難品でもなく、どこかに売られた名簿であろう。
古本屋であるかも知れないし、そうでないかも・・である。
いつだったか忘れたが、ある古本屋の棚に卒業名簿が陳列してあったから、あるところにはある、と思っている。
その名簿はいつごろ入手したのか判らないが、名簿は名簿に載っている人のすべてに送られたとしよう。
そのうちの一人が流出させた。
尤も、本人は流出させた意識はないだろう。
ただ、出回っているのは事実だ。
事実だからこうした商品勧誘者が売り込みの電話を架けてくるのだ。
発刊した昭和54年は今から37年前。
随分前のことだ。
そのころの携帯電話といえば自動車電話がまだ始まったばかりだ。
昭和60年に通信の自由化、
昭和63年に新規電気通信事業者が移動体通信事業に参入。
やがて携帯電話は生活文化の花形に踊りだす。
名簿から個人情報を聞きだす詐欺事件もある昨今。
事件に巻き込まれてしまう詐欺事件は電話口で応える言葉次第でそれが避けられる、と思っている。
「貴方が今、架けた番号はどのような形のリストですか?」。
一か月前の4月16日の夜の8時半だ。
家の電話が鳴った。
食事中であったが、表示された番号を見たかーさんはおそるおそる電話に出た。
電話の向こうで聞こえる声は男性。
Dという名の者がかけてきた相手は私である。
「田中くんは、いてますか」だ。
彼は電話口で云った。
「20年ぶりにクラス同窓会をやろうと思って電話した」という。
もしかとして名簿を手に入れた者が同窓会を装って電話をしてきた。
そう、思ったが声の主は卒業以来になるDだった。
21年前の同窓会は知らずにいた。
案内通知がなかったと思うが、それが終わってからに少人数で集まろうか、という話しがあって出かけたことがある。
20年前のことだ。
それは覚えているが、誰が連絡してきたかは、まったく覚えていない。
覚えているのは待ち合わせの場所の大坂梅田の紀伊国屋の前辺りだった。
卒業してから20年も経っていた。
顔つきが変わっていて雑踏のなかでは見つけることも困難だった。
お互いがそうだった。
誰がいたかはすべてを覚えていないがMがおったのは確かだが、どこの店に行ったのかも覚えていない45歳のころだ。
そのときの経緯の一部を伝えるDの話しは詐欺でもなんでもなかった、ほんまもんの同級卒業生。
電話口でしゃべっている間に昔の面影が頭の中に浮かんでくる。
同級卒業生のTとDの3人は数か月にいっぺんは会って飲んでいるという。
ふとしたことから久しぶりにクラス同窓会をしようやないか、ということに決定したという。
すでに14人の同級卒業生には連絡がついて参加者も決まってきた。
話しがだれからどういう具合になったか判らないが、おまえはどうするか、である。
おう、と応えたが、心臓病の具合が心もとない。
そんな話しをすれば電話口のDも心房細動発症でカテーテル処置を2回もしたという。
彼は頑丈な身体つき。
昔も今も同じではないが、お互い注意しなければならない中年隊。
無理はできんが参加すると即答した。
そして連絡がつけんかったMをよろしくと云って電話を切った。
今後のやり取りに、お互いの携帯電話番号を伝えあった。
出席者の中には一年に一度に伝える年賀状交友者が3人いる。
Dが伝える出席者にEがいる。
たしか少人数で会ったときも来ていたことを思いだすが、確証がないことに不安を覚える。
賀状はもう一人いる。
かーさんの実家に近くに住んでいるYだ。
連絡・手配できるが賀状に電話番号は書いていないが、前述した同窓会名簿には載っていた電話番号を廻してみる。
廻すとはついつい古い表現。
実家におったときもそうだが、我が家もダイヤル式黒電話だった。
現住所で使っていた黒電話は平成12年まであった。
この年に導入した電話機はFAX付きコード留守番電話。
一挙に生活感が変化したと驚いたのは息子たちだった。
話しを戻そう。
廻した電話は鳴ってはいるものの受話器を取る気配はない。
数日経って再び廻した電話に女性の声が聞こえる。
クラス同窓会の件を伝えたいが彼は勤務についているという。
仕方がないので日時と連絡先の電話番号を伝えておいたが、数週間経過するも梨の礫。
もしかとしたら、であるが、同窓会詐欺の電話と思われたのかも知れない。
そしてこの日がその日。
自宅から電車を乗り継いで待ち合わせ場所に向かう。
出合う場は大阪の阪急-阪神跨ぐ陸橋の阪神側だ。
そこからは会食する飲食店、梅田曾根崎のお初天神通りにある「たよし」に近いところだ。
橋から歩いても5分くらい。
判りやすいからということでそこになった。
予め見ていたネット地図でイマジネーション歩行をしていた。
かーさんは大阪駅を降りて右手。
そこから左手と云われていたが、行き方はイメージ通りである。
自宅方はリハビリ運動を兼ねて1.5kmの距離にある近鉄九条駅。
徒歩でジャストの20分。
西大寺で急行に乗り換え。
大阪JR環状線の鶴橋駅で乗り換えする。
ここまでずっとの立ち続けはややしんどいかも。
さて環状線だ。
鶴橋の駅に着けば構内であっても独特の匂いが鼻につく。
異様な匂いではなく美味しい匂い。
それも食欲をそそる匂いの正体は焼き肉である。
放映されるテレビの案内人は口を揃えていうセリフだ。
グルグル廻る環状線はそこを外れて奈良とか和歌山に向けて走る路線電車がある。
奈良へ行くなら大和路線。
和歌山に向かうなら紀州路線。
大和路線は愛称で元来は正式名称の関西本線だ。
紀州路線も愛称。
元来の正式名称は阪和線・紀勢本線である。
JR鶴橋駅で待っていた。
入ってきた列車は和歌山行きのアナウンス。
乗ろうと思ったが、なんとなく不安になって乗り込む女性客に尋ねた。
梅田は停まりますか、だ。
行きますょの返答に安心して乗る電車はどうやら阪和線の路線電車だった。
ややこしい時代になったもんんだ。
着いた大阪駅は様変わり。
これまで何度か来てはいるが、変容ぶりに圧倒される。
前回、大阪駅に来た日は平成26年7月10日。
松井良浩さんの個展のときだった。
大阪駅に着いて中央改札口を出る。
右手に折れて歩く。
すぐ近くにある梅田ダイビル。
大阪中央郵便局を通り抜けてハートンホテル。
そこからもう少し歩いた西梅田側だ。
一方、今回の待ち合わせ場所は東梅田側。
逆方向にある。
ここで失敗したのがホームから上に向かうエスカレータに乗ったことだ。
いつもなら下に降りて中央改札口へ出るのだが、こっちの方角と似意識していたからすんなり乗った。
上にあがれば、ここ、どこ、である。
向こう側に降りるエスカレータがあるがどこに出るのだろうか。
利尿剤を服用している身。
長時間も経ち続けて乗ってきた電車にはトイレがない。
ここまで我慢してきて漏れそうな状況下。
必死でトイレマークに沿って探し回る。
トイレはあっても清掃中。
焦る尿意に我慢せいと伝える。
大阪駅はなんせ広い。
広いどころか方向感覚も失ってきた。
こっちの方角であろうと思ってエスカレータで下る。
そこにあった周辺マップ。
どうやら違ったようだ。
とにかく陸橋を探す。
あったにはあったが同窓生が待っている雰囲気はない。
携帯電話が鳴った。
受話器をあげれば今どこに居るだ。
目印となるものはヨドバシカメラのマルチメデイア梅田の大きな看板がある。
そこだと伝えたら、どこだかわからんと返す。
陸橋はここではなさそうだ。
下りたところは逆方向。
方角がまったく逆のところに来てしまった。
大阪駅の向こう側である。
これがやっかいだった。
不慣れなところで右往左往。
仕方がないからエスカレータで上層階に登ってつっきる。
心臓がバクバクする。
下ったところは大丸梅田店。
地下では方角・方向もさっぱりわからん。
乗ったエスカレータ付近に居た警備員に道を聞いた。
梅田-阪神を結ぶ陸橋はどこですか、である。
ここをまっすぐ、まっすぐ行けばわかるというから指示に沿ってとにかくまっすぐ歩くのだが、距離感がわからん。
上へ出るにも昇降機がない。
地下街は迷路である。
とにかく階段を探して上に出る。
またもや、ここ、どこ、ボク、ドコである。
目印らしきものは見当たらない。
辿り着いた先にあった目印。
道路に向こう側にあるのは曾根崎警察署。
左手に曾根崎商店街らしき通りがある。
ここに居ると伝えたら彼らが待っていた陸橋の目と鼻の先。
振っている手が見えるかと云われて、おおおーー、である。
大きく手を振って合図した時間は待ち合わせ時間をとうに過ぎた11時50分。
大阪駅に着いた時間は11時10分。
集合時間より20分前である。
あやうく梅田難民になりかけた待ち合わせに同窓生が待ってくれた。
陸橋から下りてきた一番背の高いTにハイタッチする。
彼はバスケット部のキャプテン。
すまん、すまんで皆に頭をぺこぺこだ。
何人かはすぐに誰だか判った。
前回のクラス同窓会は阪神大震災が起こった平成7年の春だったと話したのはKだ。
眼鏡をかけていないから思いだすのに時間がちょっといる。
サッカー部だったTもDもすぐ判る。
賀状でやりとりしているMもEもすぐに判る。
年齢はいっても学生のころとほとんど変わりないのはF。
背丈が伸びたと思ったのはYだ。
思いだせないのが二人。
宴会場で明らかになる。
食事処の「たよし」は曾根崎お初天神通りのなかにある。
迎える街通りの入口に大きな看板がある。
「お初天神」の名で広く知られる神社の正式名称は露 天神社(つゆのてんじんしゃ)。
参ったことはないが、元禄十六年(1703)に露 露天神社の境内で実際にあった心中事件を題材に、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書いた。
そのヒロインの「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになった。
そういうことで看板にも「近松門左衛門 曽根崎心中 ゆかりの地」とある。
「たよし」に行きつくまでのお初天神通りにどこか懐かしい雰囲気を感じるところもある。
昔からあったような佇まいの建物群だ。
もっと近くまで寄って撮りたいがケータイ画像である。
左側が工事中なので雰囲気半分である。
もう少し歩けば八百屋さんもある。
奥に行けそうなこの通路はなんだろうか。
都会のなかにある生活空間も見惚れている時間はない。
先を急ごう。
そこから目と鼻の先にあった曾根崎店「たよし」はビジネスマン時代に来たことがあるような・・気がする馴染みのある店名。
入店して宴会場に上がる階段がレトロ。
エレベータがないから身体に堪えるNの身を心配する。
21年前にあったときも病気がちの呑み助。
しかも喋り。
面相はずいぶん変化があって鬼気迫る。
息苦しいのは肺気胸。
苦しいから会場の3階までの階段を上がるには辛い。
エレベータが欲しいと思うのである。
今回の出席者数は14人。
連絡はついたが事情で欠席になった人は4人のOT、OM、KS、KTだ。
宴は飲み放題に時間延長料を支払って3時間。
久しぶりの顔ぶれに近況報告を確認しあう。
その場にいたMはそれぞれ自己紹介をしてほしいと願ったが、幹事より却下。
すぐに判るからと返したMは昔と随分違う。
学生時代の顔は姿もそうだがシュッとしていた。
彼だけではないが、こうして一同に集まれば判断できるが都会で通り過ぎるときだったらまったく気がつかないだろう。
乾杯してからの会話に食事を忘れてしまう。
料理は造りの五品盛り合わせに冷たいブタしゃぶサラダ。
15分後に配膳されたのは3品のフライもん。
各席に3人。
その人数分の盛りになる。
宴もたけなわに会話も盛り上がる。
1時間もしないうちに人口移動。
あっちに固まる。
こっちも固まる。
なんせよく飲む同窓生。
瓶ビールがどんどん運ばれるし焼酎割も飛ぶように売れていく。
始まってから2時間半が経過。
串焼き料理も出てきたが会話が弾みすぎて手が伸びないらしい。
一つはブタの肉巻き。
もう一つは牛肉にネギ焼きだと思う。
食べてないから味は不明だ。
時間も、時間。
延長の延長はできない。
締めだしされる前に食べておきたい茶椀盛りの海鮮丼。
がつがつ食べて〆に茶碗蒸し。
大急ぎの胃袋行き。
何人かが気がついた袋入りの赤いモノ。
食べて見れば冷たいイチゴだった。
「たよし」を出た時間は午後3時半。
カラオケに行くか、それとも喫茶。
男どおしで喫茶はないやろ。
全員一致で用事があるT以外はカラオケ行き。
あっちに行くか、こっちの店に行くか。
勧誘する店員が言ったらしい半額サービスに釣られて入店したのは「カラオケGUY」。
梅田で最安値とある。
ここもまたエレベータがない。
案内されたカラオケ部屋は4階。
それじゃこの店であの世行きになるのが一人おると伝えたら2階になった。
そこは狭い部屋。
13人も入れば息苦しい。
換気扇をつけても無理がある収容人数をみかねて店は4、5人部屋も開放してくれた。
そこに居た私はずっと一人。
ガンガン聞こえる歌声が隣の部屋であっても頭に響く強烈な音。
そこに入ってなくてよかったと思う。
実際、その通りでしんどかった。
無音の部屋でずっと居座るわけにもいかずに選曲する。
曲名は思いだせない。
歌手の名もそうだ。
適当に選曲したらWがでてきた。
Wといえばワンズ。
懐かしいのぉ、である。
吉田拓郎や松山千春。
数曲選んで垂れ流しについつい口ずさむが声がでない。
大きな声が出なくなった。
ハミングする程度の音域しか出ない。
井上陽水も数曲選んでいたが低い音どまり。
その間はひっきりなしに催す尿意。
滞在1時間半あまりで十数回も。
余計にしんどくなるカラオケは断念してお先に失礼する。
次回は12月の年末忘年会。
日程が決まれば連絡するということで別れた。
お初天神からはすぐ近くのJR大阪駅。
目と鼻の先だが地下街に入ればどこに向かって歩けばいいのか、またもや迷い人。
地下街にある標識。
天井から下げた四つ辻ごとにある標識にある大阪駅。
示す「→」に沿って歩く。
改札口をくぐってあがったところは見覚えがある。
そうだ。
ここだったんだ。
(H28. 5.28 SB932SH撮影)
多感なころを生きてきた。
小学校は生まれ育った地元。
中学生ともなれば範囲は広がるが、エリア的には数キロメートルの範囲内。
それぞれの地区出身の小学生が集まっている中学校生徒になる。
高校生ともなれば大坂府下全域。
校区がなければそうなるが、そうはいかない。
中学校の時に目覚めた設計技師になりたくて工業高校を選んだ。
入学した高等学校は大阪府立東住吉工業高等学校。
設立・開校は昭和38年4月1日。
私の入学年は昭和41年になる。
東住吉工業高校の学科は四つ。
機械科は第一と第二がある。
学科は他に電気科に設備工業科があった。
機械、電気はどこの工業高校もあったと思うが、設備工業科は当校だけだったと思う。
第一機械科と第二機械科の大きな違いは何だ。
はっきりと認識していなかったが、たしか第一が鋳物で第二は旋盤。
大きく分けての話しである。
クラス数は第一機械科が2クラス。
第二機械科が4クラス。
電気科は3クラスで設備工業科は2クラスだった。
企業というか、国の発展や経済を考えたクラス数だったのかも知れない。
入学、在校のころなんかはなんの考えもなく手に技術を身につけたかった。
仕事先にわが身で貢献したい。
そう思っていただけの3年間の学びにクラスメートは40人。
入学したときは40人だったが、卒業するときには一人増えて41人になっていた。
だいたいが卒業するときには入学した時よりも減っているのが当たり前だった。
それが顔ぶれがまったく変わらずに、しかも一人増えて卒業するクラスは創立以来初めてだと先生が云っていたことを覚えている。
二年生に繰り上がった時だったと思う。
もしかとすれば、三年生に繰り上がったときかもしれないが、先輩の二人が留年されて繰り下がり。
そこで42人になった。
次の年にはそのときに一緒になった年上先輩の一人はまたもや留年。
そして、最後の卒業は一年先輩のHも一緒になって卒業した。
昭和54年に発刊された『陽友会名簿(1979)』が手元にある。
それにはきっちり41人の名が連なっている。
氏名を見るだけで、当時の顔ぶれを思いだす。
その名簿事件があった。
自宅に何かの商品を売りつけようとする勧誘電話だ。
電話口から聞こえる声は女性だった。
なんの商品か、さっぱり覚えてないが、自宅に架かってきた電話に不信を覚えた。
もしかとしてと思ってこう云った。
「手元にあるリストに電話番号があって、私のところに電話をされたのですね」と問えば「そうです」と答える。
「では、住所はどちらになっていますか」と問えば、現在住居のアドレスだった。
これはと思って聞いた。
「それは名簿のようなものですか」と問えば「そうです」と答える。
女性勧誘者は素直に答えてくださる。
ここまで来れば誰しも、ふーんと思うだろう。
卒業したときは実家住まいだった。
現住所ではない。
現住所の前は生まれた故郷だが、団地住まいになっていた。
番地は当然ながら変わっているし、電話番号も新設だったので実家の番号とは異なる。
住所に電話番号から推定。
名簿は卒業名簿だと確信した。
ついでに「名簿に本の名前がありますか、あれば何て書いていますか」と問えば『陽友会名簿』であった。
名簿はどういう具合に入手したか。
勧誘する女性は応えられないが、勘ぐってみれば盗難品でもなく、どこかに売られた名簿であろう。
古本屋であるかも知れないし、そうでないかも・・である。
いつだったか忘れたが、ある古本屋の棚に卒業名簿が陳列してあったから、あるところにはある、と思っている。
その名簿はいつごろ入手したのか判らないが、名簿は名簿に載っている人のすべてに送られたとしよう。
そのうちの一人が流出させた。
尤も、本人は流出させた意識はないだろう。
ただ、出回っているのは事実だ。
事実だからこうした商品勧誘者が売り込みの電話を架けてくるのだ。
発刊した昭和54年は今から37年前。
随分前のことだ。
そのころの携帯電話といえば自動車電話がまだ始まったばかりだ。
昭和60年に通信の自由化、
昭和63年に新規電気通信事業者が移動体通信事業に参入。
やがて携帯電話は生活文化の花形に踊りだす。
名簿から個人情報を聞きだす詐欺事件もある昨今。
事件に巻き込まれてしまう詐欺事件は電話口で応える言葉次第でそれが避けられる、と思っている。
「貴方が今、架けた番号はどのような形のリストですか?」。
一か月前の4月16日の夜の8時半だ。
家の電話が鳴った。
食事中であったが、表示された番号を見たかーさんはおそるおそる電話に出た。
電話の向こうで聞こえる声は男性。
Dという名の者がかけてきた相手は私である。
「田中くんは、いてますか」だ。
彼は電話口で云った。
「20年ぶりにクラス同窓会をやろうと思って電話した」という。
もしかとして名簿を手に入れた者が同窓会を装って電話をしてきた。
そう、思ったが声の主は卒業以来になるDだった。
21年前の同窓会は知らずにいた。
案内通知がなかったと思うが、それが終わってからに少人数で集まろうか、という話しがあって出かけたことがある。
20年前のことだ。
それは覚えているが、誰が連絡してきたかは、まったく覚えていない。
覚えているのは待ち合わせの場所の大坂梅田の紀伊国屋の前辺りだった。
卒業してから20年も経っていた。
顔つきが変わっていて雑踏のなかでは見つけることも困難だった。
お互いがそうだった。
誰がいたかはすべてを覚えていないがMがおったのは確かだが、どこの店に行ったのかも覚えていない45歳のころだ。
そのときの経緯の一部を伝えるDの話しは詐欺でもなんでもなかった、ほんまもんの同級卒業生。
電話口でしゃべっている間に昔の面影が頭の中に浮かんでくる。
同級卒業生のTとDの3人は数か月にいっぺんは会って飲んでいるという。
ふとしたことから久しぶりにクラス同窓会をしようやないか、ということに決定したという。
すでに14人の同級卒業生には連絡がついて参加者も決まってきた。
話しがだれからどういう具合になったか判らないが、おまえはどうするか、である。
おう、と応えたが、心臓病の具合が心もとない。
そんな話しをすれば電話口のDも心房細動発症でカテーテル処置を2回もしたという。
彼は頑丈な身体つき。
昔も今も同じではないが、お互い注意しなければならない中年隊。
無理はできんが参加すると即答した。
そして連絡がつけんかったMをよろしくと云って電話を切った。
今後のやり取りに、お互いの携帯電話番号を伝えあった。
出席者の中には一年に一度に伝える年賀状交友者が3人いる。
Dが伝える出席者にEがいる。
たしか少人数で会ったときも来ていたことを思いだすが、確証がないことに不安を覚える。
賀状はもう一人いる。
かーさんの実家に近くに住んでいるYだ。
連絡・手配できるが賀状に電話番号は書いていないが、前述した同窓会名簿には載っていた電話番号を廻してみる。
廻すとはついつい古い表現。
実家におったときもそうだが、我が家もダイヤル式黒電話だった。
現住所で使っていた黒電話は平成12年まであった。
この年に導入した電話機はFAX付きコード留守番電話。
一挙に生活感が変化したと驚いたのは息子たちだった。
話しを戻そう。
廻した電話は鳴ってはいるものの受話器を取る気配はない。
数日経って再び廻した電話に女性の声が聞こえる。
クラス同窓会の件を伝えたいが彼は勤務についているという。
仕方がないので日時と連絡先の電話番号を伝えておいたが、数週間経過するも梨の礫。
もしかとしたら、であるが、同窓会詐欺の電話と思われたのかも知れない。
そしてこの日がその日。
自宅から電車を乗り継いで待ち合わせ場所に向かう。
出合う場は大阪の阪急-阪神跨ぐ陸橋の阪神側だ。
そこからは会食する飲食店、梅田曾根崎のお初天神通りにある「たよし」に近いところだ。
橋から歩いても5分くらい。
判りやすいからということでそこになった。
予め見ていたネット地図でイマジネーション歩行をしていた。
かーさんは大阪駅を降りて右手。
そこから左手と云われていたが、行き方はイメージ通りである。
自宅方はリハビリ運動を兼ねて1.5kmの距離にある近鉄九条駅。
徒歩でジャストの20分。
西大寺で急行に乗り換え。
大阪JR環状線の鶴橋駅で乗り換えする。
ここまでずっとの立ち続けはややしんどいかも。
さて環状線だ。
鶴橋の駅に着けば構内であっても独特の匂いが鼻につく。
異様な匂いではなく美味しい匂い。
それも食欲をそそる匂いの正体は焼き肉である。
放映されるテレビの案内人は口を揃えていうセリフだ。
グルグル廻る環状線はそこを外れて奈良とか和歌山に向けて走る路線電車がある。
奈良へ行くなら大和路線。
和歌山に向かうなら紀州路線。
大和路線は愛称で元来は正式名称の関西本線だ。
紀州路線も愛称。
元来の正式名称は阪和線・紀勢本線である。
JR鶴橋駅で待っていた。
入ってきた列車は和歌山行きのアナウンス。
乗ろうと思ったが、なんとなく不安になって乗り込む女性客に尋ねた。
梅田は停まりますか、だ。
行きますょの返答に安心して乗る電車はどうやら阪和線の路線電車だった。
ややこしい時代になったもんんだ。
着いた大阪駅は様変わり。
これまで何度か来てはいるが、変容ぶりに圧倒される。
前回、大阪駅に来た日は平成26年7月10日。
松井良浩さんの個展のときだった。
大阪駅に着いて中央改札口を出る。
右手に折れて歩く。
すぐ近くにある梅田ダイビル。
大阪中央郵便局を通り抜けてハートンホテル。
そこからもう少し歩いた西梅田側だ。
一方、今回の待ち合わせ場所は東梅田側。
逆方向にある。
ここで失敗したのがホームから上に向かうエスカレータに乗ったことだ。
いつもなら下に降りて中央改札口へ出るのだが、こっちの方角と似意識していたからすんなり乗った。
上にあがれば、ここ、どこ、である。
向こう側に降りるエスカレータがあるがどこに出るのだろうか。
利尿剤を服用している身。
長時間も経ち続けて乗ってきた電車にはトイレがない。
ここまで我慢してきて漏れそうな状況下。
必死でトイレマークに沿って探し回る。
トイレはあっても清掃中。
焦る尿意に我慢せいと伝える。
大阪駅はなんせ広い。
広いどころか方向感覚も失ってきた。
こっちの方角であろうと思ってエスカレータで下る。
そこにあった周辺マップ。
どうやら違ったようだ。
とにかく陸橋を探す。
あったにはあったが同窓生が待っている雰囲気はない。
携帯電話が鳴った。
受話器をあげれば今どこに居るだ。
目印となるものはヨドバシカメラのマルチメデイア梅田の大きな看板がある。
そこだと伝えたら、どこだかわからんと返す。
陸橋はここではなさそうだ。
下りたところは逆方向。
方角がまったく逆のところに来てしまった。
大阪駅の向こう側である。
これがやっかいだった。
不慣れなところで右往左往。
仕方がないからエスカレータで上層階に登ってつっきる。
心臓がバクバクする。
下ったところは大丸梅田店。
地下では方角・方向もさっぱりわからん。
乗ったエスカレータ付近に居た警備員に道を聞いた。
梅田-阪神を結ぶ陸橋はどこですか、である。
ここをまっすぐ、まっすぐ行けばわかるというから指示に沿ってとにかくまっすぐ歩くのだが、距離感がわからん。
上へ出るにも昇降機がない。
地下街は迷路である。
とにかく階段を探して上に出る。
またもや、ここ、どこ、ボク、ドコである。
目印らしきものは見当たらない。
辿り着いた先にあった目印。
道路に向こう側にあるのは曾根崎警察署。
左手に曾根崎商店街らしき通りがある。
ここに居ると伝えたら彼らが待っていた陸橋の目と鼻の先。
振っている手が見えるかと云われて、おおおーー、である。
大きく手を振って合図した時間は待ち合わせ時間をとうに過ぎた11時50分。
大阪駅に着いた時間は11時10分。
集合時間より20分前である。
あやうく梅田難民になりかけた待ち合わせに同窓生が待ってくれた。
陸橋から下りてきた一番背の高いTにハイタッチする。
彼はバスケット部のキャプテン。
すまん、すまんで皆に頭をぺこぺこだ。
何人かはすぐに誰だか判った。
前回のクラス同窓会は阪神大震災が起こった平成7年の春だったと話したのはKだ。
眼鏡をかけていないから思いだすのに時間がちょっといる。
サッカー部だったTもDもすぐ判る。
賀状でやりとりしているMもEもすぐに判る。
年齢はいっても学生のころとほとんど変わりないのはF。
背丈が伸びたと思ったのはYだ。
思いだせないのが二人。
宴会場で明らかになる。
食事処の「たよし」は曾根崎お初天神通りのなかにある。
迎える街通りの入口に大きな看板がある。
「お初天神」の名で広く知られる神社の正式名称は露 天神社(つゆのてんじんしゃ)。
参ったことはないが、元禄十六年(1703)に露 露天神社の境内で実際にあった心中事件を題材に、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書いた。
そのヒロインの「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになった。
そういうことで看板にも「近松門左衛門 曽根崎心中 ゆかりの地」とある。
「たよし」に行きつくまでのお初天神通りにどこか懐かしい雰囲気を感じるところもある。
昔からあったような佇まいの建物群だ。
もっと近くまで寄って撮りたいがケータイ画像である。
左側が工事中なので雰囲気半分である。
もう少し歩けば八百屋さんもある。
奥に行けそうなこの通路はなんだろうか。
都会のなかにある生活空間も見惚れている時間はない。
先を急ごう。
そこから目と鼻の先にあった曾根崎店「たよし」はビジネスマン時代に来たことがあるような・・気がする馴染みのある店名。
入店して宴会場に上がる階段がレトロ。
エレベータがないから身体に堪えるNの身を心配する。
21年前にあったときも病気がちの呑み助。
しかも喋り。
面相はずいぶん変化があって鬼気迫る。
息苦しいのは肺気胸。
苦しいから会場の3階までの階段を上がるには辛い。
エレベータが欲しいと思うのである。
今回の出席者数は14人。
連絡はついたが事情で欠席になった人は4人のOT、OM、KS、KTだ。
宴は飲み放題に時間延長料を支払って3時間。
久しぶりの顔ぶれに近況報告を確認しあう。
その場にいたMはそれぞれ自己紹介をしてほしいと願ったが、幹事より却下。
すぐに判るからと返したMは昔と随分違う。
学生時代の顔は姿もそうだがシュッとしていた。
彼だけではないが、こうして一同に集まれば判断できるが都会で通り過ぎるときだったらまったく気がつかないだろう。
乾杯してからの会話に食事を忘れてしまう。
料理は造りの五品盛り合わせに冷たいブタしゃぶサラダ。
15分後に配膳されたのは3品のフライもん。
各席に3人。
その人数分の盛りになる。
宴もたけなわに会話も盛り上がる。
1時間もしないうちに人口移動。
あっちに固まる。
こっちも固まる。
なんせよく飲む同窓生。
瓶ビールがどんどん運ばれるし焼酎割も飛ぶように売れていく。
始まってから2時間半が経過。
串焼き料理も出てきたが会話が弾みすぎて手が伸びないらしい。
一つはブタの肉巻き。
もう一つは牛肉にネギ焼きだと思う。
食べてないから味は不明だ。
時間も、時間。
延長の延長はできない。
締めだしされる前に食べておきたい茶椀盛りの海鮮丼。
がつがつ食べて〆に茶碗蒸し。
大急ぎの胃袋行き。
何人かが気がついた袋入りの赤いモノ。
食べて見れば冷たいイチゴだった。
「たよし」を出た時間は午後3時半。
カラオケに行くか、それとも喫茶。
男どおしで喫茶はないやろ。
全員一致で用事があるT以外はカラオケ行き。
あっちに行くか、こっちの店に行くか。
勧誘する店員が言ったらしい半額サービスに釣られて入店したのは「カラオケGUY」。
梅田で最安値とある。
ここもまたエレベータがない。
案内されたカラオケ部屋は4階。
それじゃこの店であの世行きになるのが一人おると伝えたら2階になった。
そこは狭い部屋。
13人も入れば息苦しい。
換気扇をつけても無理がある収容人数をみかねて店は4、5人部屋も開放してくれた。
そこに居た私はずっと一人。
ガンガン聞こえる歌声が隣の部屋であっても頭に響く強烈な音。
そこに入ってなくてよかったと思う。
実際、その通りでしんどかった。
無音の部屋でずっと居座るわけにもいかずに選曲する。
曲名は思いだせない。
歌手の名もそうだ。
適当に選曲したらWがでてきた。
Wといえばワンズ。
懐かしいのぉ、である。
吉田拓郎や松山千春。
数曲選んで垂れ流しについつい口ずさむが声がでない。
大きな声が出なくなった。
ハミングする程度の音域しか出ない。
井上陽水も数曲選んでいたが低い音どまり。
その間はひっきりなしに催す尿意。
滞在1時間半あまりで十数回も。
余計にしんどくなるカラオケは断念してお先に失礼する。
次回は12月の年末忘年会。
日程が決まれば連絡するということで別れた。
お初天神からはすぐ近くのJR大阪駅。
目と鼻の先だが地下街に入ればどこに向かって歩けばいいのか、またもや迷い人。
地下街にある標識。
天井から下げた四つ辻ごとにある標識にある大阪駅。
示す「→」に沿って歩く。
改札口をくぐってあがったところは見覚えがある。
そうだ。
ここだったんだ。
(H28. 5.28 SB932SH撮影)