前月の5月21日に訪れた山添村の毛原。
取材したかった月参りの大師講は前週に終わっていたが、6月5日は八阪神社など3社にチマキを供えると聞いてやってきた。
三社は八阪神社の他にコンピラ社と稲荷社がある。
その2社は先に参ってチマキを供える。
八阪神社は10個のチマキ。
神社境内にある神武さん(神武天皇遥拝所)にも10個。
そこより少し登ったところにあるコンピラさんには5個。
逆に神社より下った左寄りの稲荷社にも5個。
合わせて30個のチマキを先におましておくと話してくれたのはKさん。
その後に村人が神社にやってきて参拝すると話していた。
端午の節句につきもののチマキに変化がある。
前年までのチマキはカヤの葉で包んでいた。
段取りもあってそれは省略された。
手がかかるところは省略されたチマキは餅のような状態で供えるようだ。
三社に供えるのはホンカン(本音)と呼ぶ主たる村神主。
主たるという村神主は四人。
正確にいえば二人である。
ジカン(次音)と呼ばれる次の年にホンカンに繰り上がる二番神主。
ホンカンを支える村神主の一人でもある。
その二人を補佐するのが二人のミナライである。
ミナライはホンカン、ジカンについて行事の進行を補佐するようだが、一部に服忌があって、その日は数人になるようだと聞いていた。
村人が神社に参るだいたいの時間は聞いていたが、村神主が先にお供えをする時間は決まっていない。
予めに供えるということだけに決まった時間はないようだ。
それならばたぶんに一時間前と判断して毛原にやってきた。
八阪神社には一人の男性がおられた。
ミナライの一人である。
ミナライが云うにはつい先ほどになってホンカン代行のジカンがチマキ御供をもって稲荷社に出かけたと云う。
大急ぎで追いかけるが稲荷社の位置は聞いていない。
一旦は県道にあがって探しかけたときに軽トラが走ってきた。
礼服を着ている人だったので、声をかけたらジカンだった。
稲荷社のお供えを終えて、これから山のほうにあるコンピラ社に向かうというジカンはチマキ御供に数本のショウブの葉も抱えて山道を登る。
場が判り難いからついていくことにしたが、指をさされても判り難い山道を登る。
つい先ほどまで降っていた雨。
坂道は濡れているから滑りやすい。
ここで尻もちをついたらエライことになる。
慎重に登る山道の先に建っているのがコンピラ社。
正式には琴平神社の名がある。
金刀比羅神社とも記されることもある琴平神社は、かつてというか村で云う昔のこと。
毛原のオヤ出のうちオオクボに住んでいた8~9戸の住民が四国讃岐の金刀比羅宮に参って神霊を拝受、そのオヤ出(垣内であろう)の守護神として祀ったようだ。
御供・参拝する琴平神社の鳥居にショウブとヨモギが架けてあった。
予めに掛けていたショウブとヨモギは3束だった。
チマキ御供とショウブを供えて祝詞を奏上する。
終わればショウブはその場に置いて戻るがチマキ御供は下げる。
八阪神社に戻ったジカンは八阪神社境内に建つ神武天皇遥拝所碑にもチマキ御供を供える。
その上にショウブとヨモギの葉を添える。
神武天皇遥拝所碑は大正五年四月三日に、村の中堅たち、当時、青優会の名で呼ばれた青年たちが寄進した。
寄進の碑は遠方より運ばれた自然石。
それに刻印したそうだ。
二社の末社に神武さんの碑に供えた次にようやく始まった八阪神社の端午の節句。
神社に建つ石の鳥居にも3束のショウブとヨモギを掛けていた。
こうしたショウブやヨモキを供える旧暦端午の節句の事例は少ない。
これまで拝見した地域は川西町下永、旧都祁村南之庄、大宇陀野依ぐらいしか存じていない。
貴重な在り方は重要な記録。
この場に参らせていただいたこと感謝しつつ、本殿にチマキ御供や神饌を供えて、端午の節句の祝詞を奏上するジカンの姿を撮らせてもらった。
これらの神事には村人はつかない。
村神主だけで行われるのだ。
めいめいの参拝者来るまではまだ時間がある。
その間に撮らせてもらった本殿の拝殿に彫刻された飾りに目がいった。
猿の軍団が戦勝している様相を表現したように思えた飾りは他所でも見たことがない。
反対側にもある彫り物飾りは烏天狗のように思える造りに見惚れてしまう。
八阪神社の御造営は17年ごとに行われているが、この彫り物が残されたことに敬意を表する。
八阪神社の創始は不明であるが、貞享二年の古文書記録によれば牛頭天王社であった。
明治時代まではそう呼ばれていたであろうと推挙される事例が境内にある。
本殿下にある手水鉢に刻印がある。
側面に「嘉永五壬子(1852)年 十一月吉日」。
反対側に「辻甚吉 妻 す□(ふ?)」とある。
寄進した村の人の名に違いないが、「妻」表記があることから夫婦に違いない。
あまり見かけない夫婦表記に優しさを感じる。
村人が参拝に来られた時間は11時10分前。
何人かがやってきて参拝をする。
本殿階段を登って下げていない神饌がある拝殿より拝む。
本殿の次は階段を降りて境内に移る。
東に向かってまず拝む。
東はお伊勢さんがある方角だ。
次はチマキ御供を供えた神武さんに向かって手を合わせる姿を拝見したが、本来は本殿、次に東に向かって、次は西に向かって拝み、最後に遥拝所になるのが毛原の正式参拝だと教えてもらった。
参拝を済ませたら参籠所に下る。
ミナライが接待するお神酒をいただく。
肴は黄色いコウコの漬物。
前月に訪れた際に話してくださったKさんもそうしていた。
Kさんは先年にホンカンを務められた人。
チマキはカヤで包まないと格好がつかないと話していた。
昨年まであったカヤ巻きの形を再現してくれたのはホンカン代行のFさん。
束ねたカヤの葉を広げて半折りする。
そこに小判型のチマキを入れる。
チマキが大きいからはみ出すような形である。
包んだら落ちないようにカヤの葉で縛る。
慣れれば簡単のように思えるチマキ御供はこうして作るが、工程はまだある。
チマキは5本で一束括り。
次の5本を同じように作って10本にする。
これを一荷と呼んでいる。
これを鍋に入れてカヤ包ごと蒸すようだ。
昨年までは村全戸に一個ずつ配っていたというチマキはウルチ米3に対してモチ米が1の割合で作ってもらった。
作ったのは隣村の大字勝原の上島製菓。
頼んで作ってもらったというチマキはどういう具合にして食べるのか。
チマキの味はどちらかと云えば米の味に近い。
ご飯の味にはほど遠く、味っけがないから砂糖醤油に塗して食べるか、キナコにするか、人それぞれの味わい方になるそうだ。
参拝者が途絶えるころも待って接待するのは村神主。
お腹も空いただろうと逆差し入れはサンドイッチ。
厚く盛った具が特徴のサンドイッチはホンカン代行のFさんが起こした会社で作っている。
大手スーパーにも卸しているという工場は大和郡山市と天理市の境目。
あそこだといわれたらすぐにわかった。
それはともかくかつては田植えの中休みに大豆を入れたご飯を炊いてフキに包んだフキダワラがあったという。
今ではすることもないフキダワラは当地にもあったことも記しておこう。
こうした聞取りを経て拝見できていなかった稲荷神社の奉り方を見に行く。
八阪神社より県道に上がってそこより少し北へ向かう。
川に沿って下っていって途中の辻で左折れ。
そうしたら稲荷神社の鳥居が見える。
そこには大正十五年に建てられた毛原廃寺址を示す標柱がある。
その横にあるのが稲荷神社だ。
毛原廃寺金堂跡に建てた。
ここでも本社、山手にある琴平神社同様に鳥居に掛けたショウブにヨモギがある。
そして稲荷神社にもショウブが残っていた。
ところで帰り際に拝見したものに自然に生えていると思われるイチヤクソウが見つかった。
そこは群生地。
場所は明らかにできないが、まるで幻想にとも思える光景に佇んでいた。
(H28. 6. 5 EOS40D撮影)
取材したかった月参りの大師講は前週に終わっていたが、6月5日は八阪神社など3社にチマキを供えると聞いてやってきた。
三社は八阪神社の他にコンピラ社と稲荷社がある。
その2社は先に参ってチマキを供える。
八阪神社は10個のチマキ。
神社境内にある神武さん(神武天皇遥拝所)にも10個。
そこより少し登ったところにあるコンピラさんには5個。
逆に神社より下った左寄りの稲荷社にも5個。
合わせて30個のチマキを先におましておくと話してくれたのはKさん。
その後に村人が神社にやってきて参拝すると話していた。
端午の節句につきもののチマキに変化がある。
前年までのチマキはカヤの葉で包んでいた。
段取りもあってそれは省略された。
手がかかるところは省略されたチマキは餅のような状態で供えるようだ。
三社に供えるのはホンカン(本音)と呼ぶ主たる村神主。
主たるという村神主は四人。
正確にいえば二人である。
ジカン(次音)と呼ばれる次の年にホンカンに繰り上がる二番神主。
ホンカンを支える村神主の一人でもある。
その二人を補佐するのが二人のミナライである。
ミナライはホンカン、ジカンについて行事の進行を補佐するようだが、一部に服忌があって、その日は数人になるようだと聞いていた。
村人が神社に参るだいたいの時間は聞いていたが、村神主が先にお供えをする時間は決まっていない。
予めに供えるということだけに決まった時間はないようだ。
それならばたぶんに一時間前と判断して毛原にやってきた。
八阪神社には一人の男性がおられた。
ミナライの一人である。
ミナライが云うにはつい先ほどになってホンカン代行のジカンがチマキ御供をもって稲荷社に出かけたと云う。
大急ぎで追いかけるが稲荷社の位置は聞いていない。
一旦は県道にあがって探しかけたときに軽トラが走ってきた。
礼服を着ている人だったので、声をかけたらジカンだった。
稲荷社のお供えを終えて、これから山のほうにあるコンピラ社に向かうというジカンはチマキ御供に数本のショウブの葉も抱えて山道を登る。
場が判り難いからついていくことにしたが、指をさされても判り難い山道を登る。
つい先ほどまで降っていた雨。
坂道は濡れているから滑りやすい。
ここで尻もちをついたらエライことになる。
慎重に登る山道の先に建っているのがコンピラ社。
正式には琴平神社の名がある。
金刀比羅神社とも記されることもある琴平神社は、かつてというか村で云う昔のこと。
毛原のオヤ出のうちオオクボに住んでいた8~9戸の住民が四国讃岐の金刀比羅宮に参って神霊を拝受、そのオヤ出(垣内であろう)の守護神として祀ったようだ。
御供・参拝する琴平神社の鳥居にショウブとヨモギが架けてあった。
予めに掛けていたショウブとヨモギは3束だった。
チマキ御供とショウブを供えて祝詞を奏上する。
終わればショウブはその場に置いて戻るがチマキ御供は下げる。
八阪神社に戻ったジカンは八阪神社境内に建つ神武天皇遥拝所碑にもチマキ御供を供える。
その上にショウブとヨモギの葉を添える。
神武天皇遥拝所碑は大正五年四月三日に、村の中堅たち、当時、青優会の名で呼ばれた青年たちが寄進した。
寄進の碑は遠方より運ばれた自然石。
それに刻印したそうだ。
二社の末社に神武さんの碑に供えた次にようやく始まった八阪神社の端午の節句。
神社に建つ石の鳥居にも3束のショウブとヨモギを掛けていた。
こうしたショウブやヨモキを供える旧暦端午の節句の事例は少ない。
これまで拝見した地域は川西町下永、旧都祁村南之庄、大宇陀野依ぐらいしか存じていない。
貴重な在り方は重要な記録。
この場に参らせていただいたこと感謝しつつ、本殿にチマキ御供や神饌を供えて、端午の節句の祝詞を奏上するジカンの姿を撮らせてもらった。
これらの神事には村人はつかない。
村神主だけで行われるのだ。
めいめいの参拝者来るまではまだ時間がある。
その間に撮らせてもらった本殿の拝殿に彫刻された飾りに目がいった。
猿の軍団が戦勝している様相を表現したように思えた飾りは他所でも見たことがない。
反対側にもある彫り物飾りは烏天狗のように思える造りに見惚れてしまう。
八阪神社の御造営は17年ごとに行われているが、この彫り物が残されたことに敬意を表する。
八阪神社の創始は不明であるが、貞享二年の古文書記録によれば牛頭天王社であった。
明治時代まではそう呼ばれていたであろうと推挙される事例が境内にある。
本殿下にある手水鉢に刻印がある。
側面に「嘉永五壬子(1852)年 十一月吉日」。
反対側に「辻甚吉 妻 す□(ふ?)」とある。
寄進した村の人の名に違いないが、「妻」表記があることから夫婦に違いない。
あまり見かけない夫婦表記に優しさを感じる。
村人が参拝に来られた時間は11時10分前。
何人かがやってきて参拝をする。
本殿階段を登って下げていない神饌がある拝殿より拝む。
本殿の次は階段を降りて境内に移る。
東に向かってまず拝む。
東はお伊勢さんがある方角だ。
次はチマキ御供を供えた神武さんに向かって手を合わせる姿を拝見したが、本来は本殿、次に東に向かって、次は西に向かって拝み、最後に遥拝所になるのが毛原の正式参拝だと教えてもらった。
参拝を済ませたら参籠所に下る。
ミナライが接待するお神酒をいただく。
肴は黄色いコウコの漬物。
前月に訪れた際に話してくださったKさんもそうしていた。
Kさんは先年にホンカンを務められた人。
チマキはカヤで包まないと格好がつかないと話していた。
昨年まであったカヤ巻きの形を再現してくれたのはホンカン代行のFさん。
束ねたカヤの葉を広げて半折りする。
そこに小判型のチマキを入れる。
チマキが大きいからはみ出すような形である。
包んだら落ちないようにカヤの葉で縛る。
慣れれば簡単のように思えるチマキ御供はこうして作るが、工程はまだある。
チマキは5本で一束括り。
次の5本を同じように作って10本にする。
これを一荷と呼んでいる。
これを鍋に入れてカヤ包ごと蒸すようだ。
昨年までは村全戸に一個ずつ配っていたというチマキはウルチ米3に対してモチ米が1の割合で作ってもらった。
作ったのは隣村の大字勝原の上島製菓。
頼んで作ってもらったというチマキはどういう具合にして食べるのか。
チマキの味はどちらかと云えば米の味に近い。
ご飯の味にはほど遠く、味っけがないから砂糖醤油に塗して食べるか、キナコにするか、人それぞれの味わい方になるそうだ。
参拝者が途絶えるころも待って接待するのは村神主。
お腹も空いただろうと逆差し入れはサンドイッチ。
厚く盛った具が特徴のサンドイッチはホンカン代行のFさんが起こした会社で作っている。
大手スーパーにも卸しているという工場は大和郡山市と天理市の境目。
あそこだといわれたらすぐにわかった。
それはともかくかつては田植えの中休みに大豆を入れたご飯を炊いてフキに包んだフキダワラがあったという。
今ではすることもないフキダワラは当地にもあったことも記しておこう。
こうした聞取りを経て拝見できていなかった稲荷神社の奉り方を見に行く。
八阪神社より県道に上がってそこより少し北へ向かう。
川に沿って下っていって途中の辻で左折れ。
そうしたら稲荷神社の鳥居が見える。
そこには大正十五年に建てられた毛原廃寺址を示す標柱がある。
その横にあるのが稲荷神社だ。
毛原廃寺金堂跡に建てた。
ここでも本社、山手にある琴平神社同様に鳥居に掛けたショウブにヨモギがある。
そして稲荷神社にもショウブが残っていた。
ところで帰り際に拝見したものに自然に生えていると思われるイチヤクソウが見つかった。
そこは群生地。
場所は明らかにできないが、まるで幻想にとも思える光景に佇んでいた。
(H28. 6. 5 EOS40D撮影)