奈良市尾上町バス停留所近くの奈良市営墓地の東山霊園。
判りやすい場所といえばそうだが・・・。
たしか、ここはかつて白毫寺墓地の名称だったように思えるが、どうなんだろうか。
本来の墓地の入口は南側。
そこに石造りの鳥居があったような記憶がある。
何度も、何度も通過する県道沿いにあるから、その存在は知っていた。
が、である。
この日に訪れたらどこに行ったか、である。
整地もされて鉄製の垣根で囲われていた。
奥へ入るには扉はない。
自由には入れそうだと思って前を進む。
そこに立っていた3体の地蔵石仏。
高さも違うが年代記も違うようだ。
左側は草むらで覆われていたが2体の石仏がある。
これの地蔵石仏のようだ。
垣根の前には北の山の辺の道に関係する施設を案内しているものの石仏のことは触れていない。
その石仏を拝観していたときにやってきた。
いつも元気に各地へ出向いて民俗を取材している写真家K。
なんでも今年の正月早々に訪れた福井県小浜市新保。
そこで貰った藁製のモノ。
その名は「ヤスゴキ」という。
同じような形のものが滋賀県高島市マキノ町上開田にもあるが、名は「ヤスツボさん」。
どうやら「ヤス」がキーになるようだ。
新保で貰った「ヤスゴキ」は正月元日の朝に雑煮を入れるようだ。
どこに入れるかといえば先っぽではなく“モンドリ”の籠。
穴の開いた籠のような処に詰めていくらしい。
上開田の「ヤスツボさん」も同じように元日の朝に雑煮を入れる。
「ヤス」の名で広く知られるのは長野県の道祖祭。
正月を迎えてコジメのような小注連縄で形作って奉るという行事である。
その在り方、特に元日の朝に雑煮を入れる行為である。
奈良県内で見聞きしたモノに「カンマツリ」がある。
モノは違うがモチやご飯を入れる行為である。
もしかとすれば「寒のマツリ」もしくは「カミマツリ」ではないだろうかと思った行為である。
写真家Kは前述した滋賀県を主に福井県、長野県までを走り回っている。
まさにパワフルな写真家。
「ヤス」は「椀注連」とある書物に書いてあることも調べていた。
この日に落ち合った時間帯は正午過ぎ。
木の陰があった場で昼食。
話しの展開があっちこっちに広がって、時間を忘れてしまうほど。
このままここで居座るにはもったいない。
はっとしたのは本日の早朝に行われた奈良北部のノガミ行事だ。
ここに到着するまでに1件の場所を探してみたが見つからなかったという。
そこは10年前に取材した地だ。
付近には僅かであったが、水田や畑もあった。
ノガミの場はヨノミの木が立っている場所だが、市街地区域。
埋もれてしまって探しきれなかったという。
それならそこを含めて何カ所かの所在地の行き方を知っておいたほうが良いだろうと思って案内する。
1カ所目は奈良市三条添川町のノガミ。
朝早く出かけた写真家Kは祭事場所を特定できなかったそうだ。
そこは市街地内にある新興住宅地。
住宅に囲まれている地の中にあるノガミ場を探すのは難しい。
現況はそうであるが、たかだか30云年前は畑に囲まれていた。
ノガミを祭る大木のケヤキはすぐ傍にあった水田に映っていた。
カーナビゲーションを駆使しても所在地番地がわからなければとんでもない方向を示す。
彷徨った三条添川のノガミ場は見つからなかったというからそこをはじめに案内した。
三条添川のノガミサンは朝の6時に行われる。
今でもそうしているように太い注連縄がケヤキに架かっていた。
ここへ到着した時間は午後3時。
当然ながら奉られた馬の絵馬などはない。
次の場は紀寺町の野神塚。
ここも判り難い住宅地であるが、平成18年の6月1日に取材させてもらった。
ところが当時お世話になったお家は鍵が閉まっていた。
隣家から出てこられた婦人に聞けばすぐ傍の墓地より立ち入ることができるという。
そこにあった榎木は昔、というか10年前に拝見したときと同じように立っていると思った。
サカキを立てていた場には洗い米が撒かれていた。
また、榎木の新葉には僅かに塩も残っていた。
今尚、ノガミさんの行事をされていたのである。
隣家の婦人が云うには所在地のYさんは亡くなられたそうだ。
10年前に参拝されていたYさんの姿は平成22年5月26日に発表した産経新聞シリーズ「やまと彩祭」に掲載させてもらった(合掌)。
当時、取材した方には農家組合長やEさん、Fさんもおられた。
今でもこの3人が継承しているのだろう。
新興住宅地であっても、ここら辺りには僅かであるが、水田が見られる。
巻貝が歩いたと思われる道筋の紋様が面白くて撮っていた。
次は京終町に移動する。
ここのノガミ行事はこの日でなく6月5日。
朝の5時半、桂木団地西端に集まった関係者は野神古墳に参拝する。
そして、大急ぎで駆け付けた団地外れの東の空き地にある野神塚に向かう。
この地はかつて奈良県陸運事務所があった地である。
広大な跡地は利用されることもなく10年経ってもそのままだった。
金網で囲われた跡地もそうだが、野神塚に入ることはできない。
野神さんに参る関係者はここの鍵を開けて祭事を行っていたことを思い出す。
次に向かう地は芝辻町。
ここは6月ではなく5月末の日曜日に行われている。
祭事をされるのは芝辻の野神講。
たしか平成16年の5月30日に取材したときはお神酒御供に北市春日講の名もあった。
それはともかく今年もノガミ塚に立つ大楠の注連縄を掛け替えて祭事を営んでいたようだ。
(H28. 6. 1 EOS40D撮影)
判りやすい場所といえばそうだが・・・。
たしか、ここはかつて白毫寺墓地の名称だったように思えるが、どうなんだろうか。
本来の墓地の入口は南側。
そこに石造りの鳥居があったような記憶がある。
何度も、何度も通過する県道沿いにあるから、その存在は知っていた。
が、である。
この日に訪れたらどこに行ったか、である。
整地もされて鉄製の垣根で囲われていた。
奥へ入るには扉はない。
自由には入れそうだと思って前を進む。
そこに立っていた3体の地蔵石仏。
高さも違うが年代記も違うようだ。
左側は草むらで覆われていたが2体の石仏がある。
これの地蔵石仏のようだ。
垣根の前には北の山の辺の道に関係する施設を案内しているものの石仏のことは触れていない。
その石仏を拝観していたときにやってきた。
いつも元気に各地へ出向いて民俗を取材している写真家K。
なんでも今年の正月早々に訪れた福井県小浜市新保。
そこで貰った藁製のモノ。
その名は「ヤスゴキ」という。
同じような形のものが滋賀県高島市マキノ町上開田にもあるが、名は「ヤスツボさん」。
どうやら「ヤス」がキーになるようだ。
新保で貰った「ヤスゴキ」は正月元日の朝に雑煮を入れるようだ。
どこに入れるかといえば先っぽではなく“モンドリ”の籠。
穴の開いた籠のような処に詰めていくらしい。
上開田の「ヤスツボさん」も同じように元日の朝に雑煮を入れる。
「ヤス」の名で広く知られるのは長野県の道祖祭。
正月を迎えてコジメのような小注連縄で形作って奉るという行事である。
その在り方、特に元日の朝に雑煮を入れる行為である。
奈良県内で見聞きしたモノに「カンマツリ」がある。
モノは違うがモチやご飯を入れる行為である。
もしかとすれば「寒のマツリ」もしくは「カミマツリ」ではないだろうかと思った行為である。
写真家Kは前述した滋賀県を主に福井県、長野県までを走り回っている。
まさにパワフルな写真家。
「ヤス」は「椀注連」とある書物に書いてあることも調べていた。
この日に落ち合った時間帯は正午過ぎ。
木の陰があった場で昼食。
話しの展開があっちこっちに広がって、時間を忘れてしまうほど。
このままここで居座るにはもったいない。
はっとしたのは本日の早朝に行われた奈良北部のノガミ行事だ。
ここに到着するまでに1件の場所を探してみたが見つからなかったという。
そこは10年前に取材した地だ。
付近には僅かであったが、水田や畑もあった。
ノガミの場はヨノミの木が立っている場所だが、市街地区域。
埋もれてしまって探しきれなかったという。
それならそこを含めて何カ所かの所在地の行き方を知っておいたほうが良いだろうと思って案内する。
1カ所目は奈良市三条添川町のノガミ。
朝早く出かけた写真家Kは祭事場所を特定できなかったそうだ。
そこは市街地内にある新興住宅地。
住宅に囲まれている地の中にあるノガミ場を探すのは難しい。
現況はそうであるが、たかだか30云年前は畑に囲まれていた。
ノガミを祭る大木のケヤキはすぐ傍にあった水田に映っていた。
カーナビゲーションを駆使しても所在地番地がわからなければとんでもない方向を示す。
彷徨った三条添川のノガミ場は見つからなかったというからそこをはじめに案内した。
三条添川のノガミサンは朝の6時に行われる。
今でもそうしているように太い注連縄がケヤキに架かっていた。
ここへ到着した時間は午後3時。
当然ながら奉られた馬の絵馬などはない。
次の場は紀寺町の野神塚。
ここも判り難い住宅地であるが、平成18年の6月1日に取材させてもらった。
ところが当時お世話になったお家は鍵が閉まっていた。
隣家から出てこられた婦人に聞けばすぐ傍の墓地より立ち入ることができるという。
そこにあった榎木は昔、というか10年前に拝見したときと同じように立っていると思った。
サカキを立てていた場には洗い米が撒かれていた。
また、榎木の新葉には僅かに塩も残っていた。
今尚、ノガミさんの行事をされていたのである。
隣家の婦人が云うには所在地のYさんは亡くなられたそうだ。
10年前に参拝されていたYさんの姿は平成22年5月26日に発表した産経新聞シリーズ「やまと彩祭」に掲載させてもらった(合掌)。
当時、取材した方には農家組合長やEさん、Fさんもおられた。
今でもこの3人が継承しているのだろう。
新興住宅地であっても、ここら辺りには僅かであるが、水田が見られる。
巻貝が歩いたと思われる道筋の紋様が面白くて撮っていた。
次は京終町に移動する。
ここのノガミ行事はこの日でなく6月5日。
朝の5時半、桂木団地西端に集まった関係者は野神古墳に参拝する。
そして、大急ぎで駆け付けた団地外れの東の空き地にある野神塚に向かう。
この地はかつて奈良県陸運事務所があった地である。
広大な跡地は利用されることもなく10年経ってもそのままだった。
金網で囲われた跡地もそうだが、野神塚に入ることはできない。
野神さんに参る関係者はここの鍵を開けて祭事を行っていたことを思い出す。
次に向かう地は芝辻町。
ここは6月ではなく5月末の日曜日に行われている。
祭事をされるのは芝辻の野神講。
たしか平成16年の5月30日に取材したときはお神酒御供に北市春日講の名もあった。
それはともかく今年もノガミ塚に立つ大楠の注連縄を掛け替えて祭事を営んでいたようだ。
(H28. 6. 1 EOS40D撮影)