平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に書いてあったオコナイ行事は旧五ケ谷村の各村にあったそうだ。
先に拝見した米谷町は2月4日に行われる薬師さんのオコナイに2月1日の神社行事の小正月であった。
南椿尾町も「オコナイ(ショウゴンとも」」はあったが、戦前までのことである。
毎年の3月1日に地福寺と八坂神社の両方でしていたが、現在は八坂神社の祈年祭行事のようだ。
白米を包んだ半紙を松に巻いた松苗の祈祷が主と書いてあった。
もう一カ所が「オコナイ・弓のマトウチ」をしていたという興隆寺町である。
昭和50年のころまでは行われていたという行事はどのような形式であったのか。
40数年前のことであるから体験、記憶をお持ちの方もおられるかもしれないと思って出かけた。
2月7日に上之坊或いは中之坊から住職が来られて、トウヤの家で行っていたと村史に書いてあった。
午前中はトウアの家で勧請縄を作って、午後がオコナイ。
住職はご祈祷されて、その途中に「ナンジョウ」と声を挙げたら柳の木で床を叩いた。
実際は床直接ではなく板を敷いて叩いていたようだ。
昔は法螺貝も吹いて太鼓も打ち鳴らした。
最後に牛玉宝印を両手に押してもらって、それを懐に入れる真似をしたとある。
宝印を押した半紙は柳の木に挟んで1本ずつ貰って帰った。
それは苗代の籾蒔きのときに東大寺二月堂下で貰ってきた松苗と一緒に水口に立てたとあるが、二月堂修二会の松苗ではなく、おそらく春日大社で行われた御田植祭に祈念された松苗と思われるのである。
それはともかく、オコナイが終われば勧請縄を掛けに行く。
縄は村の下手の入口にあたる所の谷あいに張った。
林宏氏の調査資料によれば、昔は正月の7日が「ユミノマトウチ」と云って当日の導師である“米谷の真言のオッサン“が、四角の竹の枠に紙を貼った的に向かって「ウチゾメ(打初)」を、続く神主も打ったとある。
それが「弓のマトウチ」である。
村史が記録した行事の在り方に期待はもてないが、村の行事取材の入口に辿りつきたいと思って出かけてみることにした。
興隆寺町に鎮座する八坂神社の地は存じているが、未だ立ち止って拝見したことがない。
神社の入口は広い場がある。
一年に何度も通る旧五ケ谷村の街道。
名阪国道ができるまでは、奈良市街地から天理市福住に向かうメイン街道であった。
すっかり寂れたには違いないが、往来する車の量はままある。
スピードを出し過ぎてしまいそうな街道。
急なカーブ道もあるからカーブミラーは見逃せない。
特にここ興隆寺町の八坂神社の前はほぼ直角。
向こう側が見えないから要注意である。
神社駐車場と思われる場に車を停めて階段を登れば、正月飾りの残り物を思われる葉牡丹があった。
境内は綺麗に掃除されている。
実は3日前の2月4日もここに来ていた。
そのときはもっと綺麗な状態だった。
三日間に吹いた風によって木の葉が舞い落ちていた。
さらに登れば本社殿に着く。
朱の鳥居にかかる手造り注連縄は割り合い太目である。
頭を下げて参拝する。
これといった特徴はないが、社殿にお伊勢さんでたばってきた、と思える天照皇大宮のお札を括り付けていた。
もしかとすればお伊勢さんの代参があるのでは・・。
ここで待っていてもどなたも来られない。
下ってバス停留所辺りに建つ民家を訪ねてみる。呼び鈴を押したらご婦人がおられたので神社行事の「オコナイ・弓のマトウチ」を聞いてみた。
その結果は「ない」である。
30云年前に嫁入りしたが、その行事のことは聞いたことがないという。
嫁入り前のことだから昭和の時代に中断されたような感じであった。
毎月の1日に月参りの佐平(さへい)の名で呼ばれる行事がある。
一升の粳米に5合の餅米を練って餅を搗く。
粳米が多いから団子のような感じも受ける。
月当番にあたる家は朝の7時過ぎには神社へ参って、海や里の幸などを供える。
魚はお頭付きで野菜はサツマイモなど五品の生御膳に餅を供える。
30分も経てば村の人が寄り合って参拝する。
供えた佐平の餅御供を下げて村の戸数に均等割りするというから、固まっている餅を包丁などで切り分けるようだ。
現在の村の戸数は17戸。
奇数であるから分け方はどうされているのだろうか。
切り分けた御供は境内で焚くトンドで焼いて食べる。
人によっては持ち帰る方もいる。
いずれにしても毎月の1日に17戸の村人が毎月交替して当番する佐平に興味をもった。
単純計算すれば1年半に一度は廻ってくる当番。
ちょっと前にしたけど、もうきたんや、という具合である。
練った御供は手でこねる。
30分間連続作業でこねるから相当な労力を要する。
昔は朝5時から支度をして作っていた。
でないと行事に来られる参拝に間に合わないから急いで作っていた。
今では前夜に支度をしておくことにしている、という。
ちなみに毎月の1日は佐平であるが、神職(奈良市丹生町在住新谷忠神職)が出仕される年中行事は四つ。
いわゆる四大行事である。
1月は歳旦祭。
3月1日は午後1時からの祈年祭。
10月がマツリに12月が新嘗祭である。
「佐平」の名がある行事は興隆寺町だけでなく、次の地域にも見られる。
旧都祁村になる奈良市藺生町の葛神社は佐平(さへい)祭。山添村毛原の八阪神社も「さへ」であるが、充てる漢字は「再拝」である。
いずれも月の初めの日に参る月並祭のことである。
来月の3月1日は朝から薪割り作業がある関係で佐平行事は午後になる。
当番の人足は木を伐って割り木にする。
その量はトンドに年中行事に使うから多い。
伐る、割る、運ぶだけでもたいへんな作業である。
割り木造りは神社の薪、芝作り。
これを「シバシ」と呼ぶ。
後年であるが、興隆寺町と同じ「シバシ」の呼び名があった地域は奈良県ではなく京都府の南部地域である。
加茂町銭司の春日神社の薪も同じように割り木する作業を、そう呼んでいたことを付記しておく。
(H29. 2. 7 SB932SH撮影)
先に拝見した米谷町は2月4日に行われる薬師さんのオコナイに2月1日の神社行事の小正月であった。
南椿尾町も「オコナイ(ショウゴンとも」」はあったが、戦前までのことである。
毎年の3月1日に地福寺と八坂神社の両方でしていたが、現在は八坂神社の祈年祭行事のようだ。
白米を包んだ半紙を松に巻いた松苗の祈祷が主と書いてあった。
もう一カ所が「オコナイ・弓のマトウチ」をしていたという興隆寺町である。
昭和50年のころまでは行われていたという行事はどのような形式であったのか。
40数年前のことであるから体験、記憶をお持ちの方もおられるかもしれないと思って出かけた。
2月7日に上之坊或いは中之坊から住職が来られて、トウヤの家で行っていたと村史に書いてあった。
午前中はトウアの家で勧請縄を作って、午後がオコナイ。
住職はご祈祷されて、その途中に「ナンジョウ」と声を挙げたら柳の木で床を叩いた。
実際は床直接ではなく板を敷いて叩いていたようだ。
昔は法螺貝も吹いて太鼓も打ち鳴らした。
最後に牛玉宝印を両手に押してもらって、それを懐に入れる真似をしたとある。
宝印を押した半紙は柳の木に挟んで1本ずつ貰って帰った。
それは苗代の籾蒔きのときに東大寺二月堂下で貰ってきた松苗と一緒に水口に立てたとあるが、二月堂修二会の松苗ではなく、おそらく春日大社で行われた御田植祭に祈念された松苗と思われるのである。
それはともかく、オコナイが終われば勧請縄を掛けに行く。
縄は村の下手の入口にあたる所の谷あいに張った。
林宏氏の調査資料によれば、昔は正月の7日が「ユミノマトウチ」と云って当日の導師である“米谷の真言のオッサン“が、四角の竹の枠に紙を貼った的に向かって「ウチゾメ(打初)」を、続く神主も打ったとある。
それが「弓のマトウチ」である。
村史が記録した行事の在り方に期待はもてないが、村の行事取材の入口に辿りつきたいと思って出かけてみることにした。
興隆寺町に鎮座する八坂神社の地は存じているが、未だ立ち止って拝見したことがない。
神社の入口は広い場がある。
一年に何度も通る旧五ケ谷村の街道。
名阪国道ができるまでは、奈良市街地から天理市福住に向かうメイン街道であった。
すっかり寂れたには違いないが、往来する車の量はままある。
スピードを出し過ぎてしまいそうな街道。
急なカーブ道もあるからカーブミラーは見逃せない。
特にここ興隆寺町の八坂神社の前はほぼ直角。
向こう側が見えないから要注意である。
神社駐車場と思われる場に車を停めて階段を登れば、正月飾りの残り物を思われる葉牡丹があった。
境内は綺麗に掃除されている。
実は3日前の2月4日もここに来ていた。
そのときはもっと綺麗な状態だった。
三日間に吹いた風によって木の葉が舞い落ちていた。
さらに登れば本社殿に着く。
朱の鳥居にかかる手造り注連縄は割り合い太目である。
頭を下げて参拝する。
これといった特徴はないが、社殿にお伊勢さんでたばってきた、と思える天照皇大宮のお札を括り付けていた。
もしかとすればお伊勢さんの代参があるのでは・・。
ここで待っていてもどなたも来られない。
下ってバス停留所辺りに建つ民家を訪ねてみる。呼び鈴を押したらご婦人がおられたので神社行事の「オコナイ・弓のマトウチ」を聞いてみた。
その結果は「ない」である。
30云年前に嫁入りしたが、その行事のことは聞いたことがないという。
嫁入り前のことだから昭和の時代に中断されたような感じであった。
毎月の1日に月参りの佐平(さへい)の名で呼ばれる行事がある。
一升の粳米に5合の餅米を練って餅を搗く。
粳米が多いから団子のような感じも受ける。
月当番にあたる家は朝の7時過ぎには神社へ参って、海や里の幸などを供える。
魚はお頭付きで野菜はサツマイモなど五品の生御膳に餅を供える。
30分も経てば村の人が寄り合って参拝する。
供えた佐平の餅御供を下げて村の戸数に均等割りするというから、固まっている餅を包丁などで切り分けるようだ。
現在の村の戸数は17戸。
奇数であるから分け方はどうされているのだろうか。
切り分けた御供は境内で焚くトンドで焼いて食べる。
人によっては持ち帰る方もいる。
いずれにしても毎月の1日に17戸の村人が毎月交替して当番する佐平に興味をもった。
単純計算すれば1年半に一度は廻ってくる当番。
ちょっと前にしたけど、もうきたんや、という具合である。
練った御供は手でこねる。
30分間連続作業でこねるから相当な労力を要する。
昔は朝5時から支度をして作っていた。
でないと行事に来られる参拝に間に合わないから急いで作っていた。
今では前夜に支度をしておくことにしている、という。
ちなみに毎月の1日は佐平であるが、神職(奈良市丹生町在住新谷忠神職)が出仕される年中行事は四つ。
いわゆる四大行事である。
1月は歳旦祭。
3月1日は午後1時からの祈年祭。
10月がマツリに12月が新嘗祭である。
「佐平」の名がある行事は興隆寺町だけでなく、次の地域にも見られる。
旧都祁村になる奈良市藺生町の葛神社は佐平(さへい)祭。山添村毛原の八阪神社も「さへ」であるが、充てる漢字は「再拝」である。
いずれも月の初めの日に参る月並祭のことである。
来月の3月1日は朝から薪割り作業がある関係で佐平行事は午後になる。
当番の人足は木を伐って割り木にする。
その量はトンドに年中行事に使うから多い。
伐る、割る、運ぶだけでもたいへんな作業である。
割り木造りは神社の薪、芝作り。
これを「シバシ」と呼ぶ。
後年であるが、興隆寺町と同じ「シバシ」の呼び名があった地域は奈良県ではなく京都府の南部地域である。
加茂町銭司の春日神社の薪も同じように割り木する作業を、そう呼んでいたことを付記しておく。
(H29. 2. 7 SB932SH撮影)