マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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続、関西文化の日

2011年12月30日 08時17分43秒 | 民俗を聴く
<花開く寺の郡山時代>
もしかとすればの話だが、大和郡山に都が造られたかもしれないという。

天武五年(676年)の条に「新城に都をつくらむ」が。十一年の条には「新城に幸す」とあるそうだ。それは実際に築造したことでなく天武天皇が新城の地を見に来たのだという。「新城」は現在の新木(にき)町。当地には新城(にき)神社がある。古代の地名がそこにある。

また、挽歌に「(武智の)皇子の命は春されば殖槻(うえつき)が上の遠つ人・・・」がある。殖槻は現在の植槻町のことだ。植槻のオンダで名高い植槻八幡神社の北隣にあったとされる殖槻寺。正倉院文書によれば、天平勝宝五年(753年)の『薬師寺三綱牒』や天平神護元年(765年)の『殖槻寺鎮三綱牒』に記された殖槻寺は別名に建法寺とも。同寺は平城遷都後に衰退し、平安中期の長保五年(1003年)に梵鐘が薬師寺に引き取られていった。しかもだ。土中に埋もれていた本尊の薬師三尊銅像は郡山城築造の際に掘りだされて薬師寺西院堂に移されたという。

植槻町から東へ行けば観音寺町がある。町内には八幡神社があり、その境内には、『僧綱補任抄出』の天武二年(674年)の条によれば、「唐学生、平城観世音寺此僧正建立」と記されているそうだ。此僧というのは智通。天武天皇のために矢田山に金剛山寺を建立したと伝えられている。その観世音寺ゆかりのお堂と考えられている観音堂が同町にある。

また、高田町には高田寺があったとされる。本多政勝時代の城下町拡充にともない形成された東の大門である高田の大門付近。それは後の高田神社横の釈尊寺ではないかと言われている。

孝謙天皇が即位大嘗祭(752年)で詔を発令されたのは羅城門辺りだったそうだ。そこは平城京の南の門。西に向かえば観音寺町、植槻町と続く都大路は今も現存する街道である。北に向かえば西市が。現在は藺町交差点がある中間地辺りには薬草園の地があった。その名が見られる薬園八幡神社は材木町に鎮座する。

奈良時代に花咲く郡山の寺文化は東明寺、金剛山寺(通称矢田寺)、松尾寺・・・平安時代へ。浄土宗が発達していった。世の中が不安になった時代。お釈迦さんが亡くなって「教え」を伝える坊さんが「世の中も末や」と末世を伝導する。それは「正法」の時代から「像法」への時代へ移って「末世」へ。教養がある坊さんは実行をしなくなった時代だと先生は話す。

仏像の平安時代から鎌倉時代へ。そして戦乱の室町時代。筒井氏が台頭してきた時代だ。
南北朝にかけての石仏がある。末世への切なる願いで建立した石仏。それは生きている間に造る。その時代はいつなんどきに死ぬのかもしれないと、生きている間に供養する逆修の風習が石仏文化になったそうだ。

額田部額安寺の虚空蔵菩薩座像、金剛山寺の十一面観音立像、浄慶寺の阿弥陀如来座像(密教系仏)。椎木町光堂寺の薬師如来座像(平安中期)、観音寺町観音堂の十一面観音立像へと仏像に関する話が続く。

さすがに有形文化財が得意だけに知らないことがいっぱい。

特に観音堂の十一面観音立像は、西日本にはなく、東北や関東に多い荒彫り(ナタ彫)の線刻痕が見られるそうだ。そのナタ彫は霊仏化現(れいぶつけげん)と呼ばれるもので、木のなかにひそんでいた仏さんが彫る途中に出現したといい平安時代に流行ったそうだ。

そして、武士の時代、城の時代へと移るのであるが講演時間の都合で割愛された。

特に城の時代は民俗的な文化財が数多くあるという。

文化財は尋ねて知ることが大切。

郡山の町は文化財で囲まれている。

白鳳時代の滝寺まがい仏もあり、あらゆる時代が詰まっている郡山。

日本全体の歴史を教えてくれる地域だと、関西文化の日の講演時間は大幅に超えた2時間半であった。

関西文化の日とは直接関係ないが、その夜に福岡(ソフトバンク)ダイエーホークスが日本一になった。

南海ホークスからいった「あぶさん」は今でも現役で活躍している。

37年目だという。

長男が阪神タイガースにいるらしい。

来年は胴上げを久しぶりに見たいものだ。

(H23.11.20 記)
映像はH23.12.22 SB932SH撮影の西町良福寺。


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