奈良民俗文化研究所を立ち上げて代表を務めている鹿谷勲氏が「山添村の祭りと民俗」を題して講演されると知ってやってきた。
講演会場は大字大西にある山添村スポーツセンター大研修室である。
会場控室におられる鹿谷氏にご挨拶をさせてもらおうと思って入室したら、山添村教育委員会委員長のFさんが応対されていた。
Fさんは大字の毛原。
昨年の平成28年は6月25日。
長らく途絶えていた毛原の田の虫送りでお会いした。
直前に行われた神社行事の端午の節句。
はじめてFさんにお会いしたのはずいぶん前の平成22年の2月21日ことだった。
毛原で行われている行事を尋ね歩いた日だった。
村人に出会うこともなく、村を歩いていた。
こうなれば呼び鈴を押すしかないと判断して、あるお家の呼び鈴を押した。
そのお家がF家であった。
大字毛原には子供の涅槃や西と東の山の神さん。
その日の女性は室生川の向こう岸にある弁天さん参りもあれば長久寺の「ダンジョウ」とか。
長久寺には大師講が存在する。
八坂神社では月初めに再拝(さへいもしくはさいはい)と呼ぶ行事に植付け籠りもあると教えてくださった。
当時の役職は平たん三宅町の教育委員会勤務だった。
それから6年経った今は、在住する山添村の教育委員長務め。
なかなか休ませてくれないと云っていたのが昨年だった。
鹿谷勲氏が語る山添村の祭りと民俗はまさに教育委員会の範疇である。
たぶんに応対されていると判断して入室させてもらったら、やはりである。
なにかとお世話になってきたこともあって、鹿谷氏ともども共通の民俗話題が拡がる。
その部屋にやってきたのはこれまた存じ上げている大字春日のUMさん。
同じく大字菅生大垣内のUKさんだ。
UMさんは平成19年の10月20日に取材したキョウワウチ、宵宮参りに翌日21日のオトナ祭り(※若宮祭とも)も当屋家を支援する手伝い六人衆を務めていたお方だった。
また、UMさんは大字春日の申祭りに能狂言を演技、伝承している古金春流春楽社(※結成は明治25年)の一員でもある。
UMさんと村外でであうこともあった。
平成28年の11月11日。
天理市の福住公民館で行われていた民俗画帳展示会に居たときに、たまたまお越しになられたUMさんが、「げんげ」の意味を教えてくださった。
もう一人のUKさんも古金春流春楽社の一員であるし、大字菅生のおかげ踊り保存会でもある。
踊りの練習は平成23年の7月22日。
盆踊り披露の前に慣らし踊りをする際の太鼓打ちを務めていた。
平成23年の11月11日は、2週間前に迫った近畿芸能大会に出演するおかげ踊りの予行演習もしていた。
UKさんとは平成27年の1月7日に訪れた山の神の日にカギヒキの作法をしてくださった。
さまざまな出会いがあった山添村の民俗探訪。
これまで訪れた山添村の大字は、毛原、春日、菅生の他、岩屋、鵜山、大塩、大西、遅瀬、勝原、北野、切幡、桐山、中峯山(ちゅうむざん)、西波多、広瀬、広代(ひろだい)、松尾、的野、三ケ谷、峰寺、室津に吉田の22カ大字。
山の神を祭っている情景をとらえただけの地区も含めてのことであるが・。
未だに訪問できていない大字は、片平、葛尾、助命(ぜみょう)、堂前、中之庄、伏拝(ふしおがみ)、箕輪の7カ大字。
とにかく山添村は広いと感じている。
鹿谷勲氏が奈良民俗文化研究所を立ち上げる前の職は奈良県立民俗博物館の学芸課長だった。
平成23年8月のころだった。
鹿谷氏が私にお願いしたことが一つ。
山添村の民俗行事を紹介する写真はお持ちでないか、である。
なければ特定地区でも、といわれた。
その一つが大字菅生であった。
6年前のころはまだ多くの行事を取材できるところまで至ってなかった。
いつかは実現するであろうと思って、当時、取材していた範囲内で蔵写真より引っぱりだした写真を整理していた。
大字菅生で59枚。
菅生以外は72枚もあったが、鹿谷氏が得意とする奈良県の無形民俗文化財に指定されている菅生のおかげ踊りは、盆踊りに出演している写真しかなかった。
もう一つの無形民俗文化財は大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津で継承されてきた「東山の神事芸能」である。
当時、未だ私が取材できていない「東山の神事芸能」地区は的野だけであった。
その代わりになったわけではないが、その年より始まった「私がとらえた大和の民俗」写真展である。
大和の民俗を撮っていた写真家の人たちに声をかけてお願いした写真展。
地域限定でもなく幅広い民俗要素から写真家自身が描く映像で紹介することになったのだ。
そのような経緯を思い出しながら講演会場に向かった。
会場には神職も来られていた。
奈良市丹生町にお住まいの新谷忠宮司夫妻である。
宮司が出仕される地域は広い。
山添村では桐山に北野、峰寺。
在地の丹生町により近い地域が持ち場。
以外に奈良市の旧五カ谷村の9カ村も。
その一つに興隆寺町がある。
その興隆寺町・八阪神社の月例祭にシラムシ御供があると教えてくださる。
出仕されている旧五カ谷村では唯一の珍しい御供。
シラムシは粳米、餅米のそれぞれの米粉を塩水で練って作ったとても珍しい御供であるから、是非とも訪問してあげたら、と云われる。
実は、先日に伺った際に氏子さんからシラムシのことを聞いたので、3月1日の行事は是非出かけてみたい、と伝えたら、当日は奥様が出仕されるという。
当日は興隆寺町で出会うことになる。
ありがたいこの日の出合いに感謝する。
会場には顔見知りの山添村観光協会局長のMさんや、大字勝原在住のSさんも。
村外からは山添村と明日香村をフイールドに風景写真を撮り続けている写真家のYさんもおられた。
教育委員長の挨拶で始まった「鹿谷勲が語る山添村の祭りと民俗」講演会。
会場はぎっしり埋まって立見も多い。
席に溢れた人も数えてみたら、およそ100人にもおよぶ大盛況。
予想以上の反響は、来場していた顔ぶれでわかる。
鹿谷氏と面識のある村の人は行事を継承してきた人たち。
記録、聞き取りなどで長年に亘ってお付き合いをしてきた村の人が、是非とも聞いておきたい山添村の祭りと民俗の講話である。
はじめに紹介されたのは山添村の伝統芸能奉納の上映会だ。
収録は春日大社の式年造替記念に奉納した大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津の人たちが演じた「東山の神事芸能」である。
鹿谷氏から出演依頼があったのはずいぶん前のこと。
大字ごとに出演依頼の行脚をすると聞いていた。
奉納日は平成28年11月20日の日曜日。
その日に行われる造営奉祝行事の大和高原神事芸能の撮影に協力できないか、奉納のすべてを記録に撮ってほしいと願われたのはその年の8月23日だった。
電話で受けて承諾したものの、自宅に戻ってよくよく日程を確認したら、奈良県立民俗博物館のイベントがある日だった。
第6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展のイベントで出展写真家が併設する大和民俗公園にある古民家を利用して語らうテーマ「住」をめぐる大和の民俗―古民家座談会だった。
実は鹿谷氏も出展写真家の一人。
イベントの語らいも出るはずだったが、春日大社の奉納日と重なってしまった。
鹿谷氏は奉納に関わる重要な人物。語りイベントは私たち写真家で対応すると伝えた。
その年の民俗行事取材に出かけた山添村。
10月15日は室津に居た。
宵宮のお渡り取材に伺ったトウヤ家で聞いた出演の話し。
トウヤ家のOさんや東山地区神事芸能保存会会長のⅠさん。
出演を承諾して誰に出てもらうか、これから相談すると話していたが、おそらくはこの日と翌日の本祭に出仕される渡り衆になるであろう、ということだった。
それより以前の8月27日に立ち寄った大字北野・津越の大矢商店店主もたいへお世話になっている。
11月20日は北野も春日大社の林檎の庭で披露する。
時期はまだ早かったから誰が出演するかは決まっていない。
というのも、北野の場合は各垣内から選ばれる渡り衆。
順番が決まっている垣内は明確であるが、籤を引いて決める垣内はまだ、である。
すべての垣内が決まった段階で、この記念の奉納をしてもらうことになるから、口外できない。
もちろん、私もその一人、である。
上映された映像は北野、室津の「東山の神事芸能」に菅生のおかげ踊りであった。
こうして始まった講話は、鹿谷氏が初めて入った山添村に関する村の調査である。
内容が濃い講話を聴講するままノートにメモった。
一部は聞き取れない部分もあり、私が誤記していることもある聴講メモ。
できるだけ綴っておきたく、不明な点もそのまま列挙させていただき、また、私が知る範囲内で補足すること、ご容赦願いたい。
★最初の出会いは30云年前。
布目ダム建設に伴って、水没する村もあることから、その民俗調査である。
調査報告書は北野の津越。
当時の人たちにUさんが云った「マツリのホーデンガク」の言葉である。
その言葉に気づいて、山添村に「奉田楽」があるのか、調べることになった。
奈良晒(ならざらし)の紡織(ぼうしょく)や十九夜講が桐山にあった。
いろんなことがあることがわかった山添村に来ることが多くなった。
★特色は正月迎えをするフクマル呼びがある。
鹿谷氏が当時撮ったと思われる山添村の写真を会場正面に設置したスクーリンに映し出す。
正月神さん、正月どこまですとってた。
便所も関係ある正月っつあん。
新しいものが生まれる場が便所である。
びっちんくさ・・・はうちでもあったといったのは、隣で聞いていた風景写真家のYさんだ。
広陵町に住むYさんにとって、便所は「びっちんくさ」である。
私は大阪が生まれ育った地。
田舎は富田林の錦織。
母親の実家であるが、「びっちんくさ」の言葉は聞いたことがない。
「びっちんくさ」の「びっちん」は大便のことであろう。
大便は誰でも臭いというから「くさ」である。
「びっちんくさ」はそのまま大阪弁で云えば「うんこくさ」であろう。
★山の神も・・。
谷出などの菅生集落入口は七ツある。
平坦の地蔵さんと同じように、集落にやってくる悪の侵入を防ぐ地に、7カ所それぞれに山の神がある。
クラタテに“まぐわい”もある山の神。
祭具は男と女を想起する雑木がある。
★“はしおと“。
橘流の橘紋の上着がある。
明治2年の大和万歳の映像を披露されて、山添村には尾山万歳に伏拝の万歳がある。
貴重なものが伝承されている。
ちなみに伏拝(ふしおがみ)は山添村が行政区域。
一方、尾山は奈良市の旧月ケ瀬村に属している。
それほど遠くでもない距離にある両村。
万歳文化の交流があった、と思われる。
★無形民俗文化際に指定した「東山の神事芸能」で所作される田楽は平安時代に始まった風流(ふりゅう)である。
・・楽器する、目出度い古典的詞がある。
生活の安定を願う。
御幣を振る。
なかでも注目すべき点は、扇ぐ、である。
楽器を床に置いて外へ・・・。
次の場面は内側に向けて煽ぐ。
煽ぐ道具は扇である。
音をたてる楽器は、扇に煽がれる。
奈良市丹生町では楽器を蹴る、とかする所作がある。
大風を表現する煽ぎは農耕に擬えた所作をする。
こうした各大字で行われてきた田楽は一覧表に整理したが、今ではだいぶ変わっているようだ。
名前も当時取材したときと違ってきているし・・。
オドリコミの唄を謡いながらトーヤ家に上がり込む。
その際には小豆とお米を撒いて、福をトーヤ家に呼び込む。
それは呪術的な・・、来てもらう場所に便所もある。
おかげ踊りもオドリコミに用いられている。
安芸乃島のミチビキの唄は奈良市上深川で行われている題目立(だいもくたて)のミチビキの安芸乃島・・・が唄われる。
「イリハ」は入ることの入室。
「デハ」は逆の退室を表現する言葉である。
楽器は苗に見立てたササラなど。
煽いで、煽いで育てる。
いわば仕事としての所作が考えられる。
映し出されたシーンは奈良市北野山町の田楽。
同町は山添村の桐山、室津が分かれになった三カ村。
田楽文化は元々が桐山を中心に据えて、室津、北野山町の三カ村がそれぞれ一年おきに田楽を奉納していた記録がある。
長い年月を経て所作も詞章も変化したことで知られる。
私的にはいっそのこと「東山の神事芸能」に加えてもいいのでは、と思っている。
田楽はさらに奈良市の柳生町も紹介される。
柳生の舞はヨーガの舞のヨーゴーの松。
漢字で現わせば影向の松である。
目出度い松を呼び込む所作がある。
少し離れた下狭川町にも田楽がある。
所作の楽器の音色からと考えられるバタラン・バタラン。
大保町の横跳びもある。
田楽を継承してきた地区分布を地図上で見ていただければ理解しやすいと思える。
そうそう、山添村峯寺の六所神社で所作される場は本社殿下の拝殿もあるが、もう一カ所ある。
宮総代渡り衆を迎える場は「堂」。
窓のない開放感ある長屋建ての建物である「堂」内部で披露される。
奈良市大柳生も田楽がある。
昨年に県の無形民俗文化財に指定されたが、被る「ハナガイ」が乱れている。
奈良市阪原にも田楽がある。
昭和54年、大和の文化披露に寄せてもらうようになった山添村を基点に、関連する所作を、地域特有の類事例として紹介される。
★上深川の題目立のヨロコビの唄を謡い始めた鹿谷氏。
詞章、謡いに囃子詞は、いつもふっと口ずさむ。
頭の中にいつも仕舞ってしるわけでなく、公開講座でも度々口にされる。
その度にすごい人だな、と思うのだ。
曽爾村に獅子舞がある。
肩の上に乗って所作をする特徴的な接ぎ獅子がある。
大和の祭りは道化の面を被る。
元々は能面を塗りたくって使っていた。
獅子舞も一つの万歳があった。
活芸があった。
オッペケペー節が万歳の中にあった。
皿回しのない曲芸もあった。
おかげ踊りは、連綿とずっと続けてきたのは、菅生だけだと思う。
オドリコミは七つの講があった。
それぞれの講中のヤド家でヨバレたお酒を飲み歩いて、4軒、5軒目でノックアウトダウンしたこともあった。
踊りを踊ると・・褒め言葉がある。
お返しに出しづくし、花づくしを織り交ぜて褒め返しをした。
★北野の伊勢講に入れ物の箱があった。
そのお箱は天正二年(1574)の銘記があった。
古金春流春楽社の記録など、絵馬もある。
菅生の「じんやく踊り」の写真が、平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に残された。
大正8年が最後であった踊りは写真と本になって残ったのである。
★桐山の十九夜講は女性だけが集まる講。
松尾のオボケ。
麻糸作りの緒は誕生と葬送にも登場する。
芸能も生活も、どのようにして残すのか。
十津川村で撮った写真がある。
日除けの葉っぱは背中に付けていたのを目撃した。
葉っぱを付けていた婦人の姿を撮っていた。
今では見ることのない、山村暮らしの姿が写真に残った。
スクリーンに映し出された姿見て、これとまったく同様と思える行事がある。
奈良市小山戸町・山口神社で行われる「おせんどう」を思い起こす。
また、伏拝の福蔵寺の本尊は子安地蔵尊。
庭に十九夜さんの石仏が三体もある。
広瀬にコンピラ祭りがあったことなど、多彩な祭りと民俗の講話はこうして終えた。
その後は、山添村観光協会局長と風景写真家のYさんともども山添村観光協会でお茶会。
すっかり寛がせてもらった。
(H29. 2.18 SB932SH撮影)
講演会場は大字大西にある山添村スポーツセンター大研修室である。
会場控室におられる鹿谷氏にご挨拶をさせてもらおうと思って入室したら、山添村教育委員会委員長のFさんが応対されていた。
Fさんは大字の毛原。
昨年の平成28年は6月25日。
長らく途絶えていた毛原の田の虫送りでお会いした。
直前に行われた神社行事の端午の節句。
はじめてFさんにお会いしたのはずいぶん前の平成22年の2月21日ことだった。
毛原で行われている行事を尋ね歩いた日だった。
村人に出会うこともなく、村を歩いていた。
こうなれば呼び鈴を押すしかないと判断して、あるお家の呼び鈴を押した。
そのお家がF家であった。
大字毛原には子供の涅槃や西と東の山の神さん。
その日の女性は室生川の向こう岸にある弁天さん参りもあれば長久寺の「ダンジョウ」とか。
長久寺には大師講が存在する。
八坂神社では月初めに再拝(さへいもしくはさいはい)と呼ぶ行事に植付け籠りもあると教えてくださった。
当時の役職は平たん三宅町の教育委員会勤務だった。
それから6年経った今は、在住する山添村の教育委員長務め。
なかなか休ませてくれないと云っていたのが昨年だった。
鹿谷勲氏が語る山添村の祭りと民俗はまさに教育委員会の範疇である。
たぶんに応対されていると判断して入室させてもらったら、やはりである。
なにかとお世話になってきたこともあって、鹿谷氏ともども共通の民俗話題が拡がる。
その部屋にやってきたのはこれまた存じ上げている大字春日のUMさん。
同じく大字菅生大垣内のUKさんだ。
UMさんは平成19年の10月20日に取材したキョウワウチ、宵宮参りに翌日21日のオトナ祭り(※若宮祭とも)も当屋家を支援する手伝い六人衆を務めていたお方だった。
また、UMさんは大字春日の申祭りに能狂言を演技、伝承している古金春流春楽社(※結成は明治25年)の一員でもある。
UMさんと村外でであうこともあった。
平成28年の11月11日。
天理市の福住公民館で行われていた民俗画帳展示会に居たときに、たまたまお越しになられたUMさんが、「げんげ」の意味を教えてくださった。
もう一人のUKさんも古金春流春楽社の一員であるし、大字菅生のおかげ踊り保存会でもある。
踊りの練習は平成23年の7月22日。
盆踊り披露の前に慣らし踊りをする際の太鼓打ちを務めていた。
平成23年の11月11日は、2週間前に迫った近畿芸能大会に出演するおかげ踊りの予行演習もしていた。
UKさんとは平成27年の1月7日に訪れた山の神の日にカギヒキの作法をしてくださった。
さまざまな出会いがあった山添村の民俗探訪。
これまで訪れた山添村の大字は、毛原、春日、菅生の他、岩屋、鵜山、大塩、大西、遅瀬、勝原、北野、切幡、桐山、中峯山(ちゅうむざん)、西波多、広瀬、広代(ひろだい)、松尾、的野、三ケ谷、峰寺、室津に吉田の22カ大字。
山の神を祭っている情景をとらえただけの地区も含めてのことであるが・。
未だに訪問できていない大字は、片平、葛尾、助命(ぜみょう)、堂前、中之庄、伏拝(ふしおがみ)、箕輪の7カ大字。
とにかく山添村は広いと感じている。
鹿谷勲氏が奈良民俗文化研究所を立ち上げる前の職は奈良県立民俗博物館の学芸課長だった。
平成23年8月のころだった。
鹿谷氏が私にお願いしたことが一つ。
山添村の民俗行事を紹介する写真はお持ちでないか、である。
なければ特定地区でも、といわれた。
その一つが大字菅生であった。
6年前のころはまだ多くの行事を取材できるところまで至ってなかった。
いつかは実現するであろうと思って、当時、取材していた範囲内で蔵写真より引っぱりだした写真を整理していた。
大字菅生で59枚。
菅生以外は72枚もあったが、鹿谷氏が得意とする奈良県の無形民俗文化財に指定されている菅生のおかげ踊りは、盆踊りに出演している写真しかなかった。
もう一つの無形民俗文化財は大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津で継承されてきた「東山の神事芸能」である。
当時、未だ私が取材できていない「東山の神事芸能」地区は的野だけであった。
その代わりになったわけではないが、その年より始まった「私がとらえた大和の民俗」写真展である。
大和の民俗を撮っていた写真家の人たちに声をかけてお願いした写真展。
地域限定でもなく幅広い民俗要素から写真家自身が描く映像で紹介することになったのだ。
そのような経緯を思い出しながら講演会場に向かった。
会場には神職も来られていた。
奈良市丹生町にお住まいの新谷忠宮司夫妻である。
宮司が出仕される地域は広い。
山添村では桐山に北野、峰寺。
在地の丹生町により近い地域が持ち場。
以外に奈良市の旧五カ谷村の9カ村も。
その一つに興隆寺町がある。
その興隆寺町・八阪神社の月例祭にシラムシ御供があると教えてくださる。
出仕されている旧五カ谷村では唯一の珍しい御供。
シラムシは粳米、餅米のそれぞれの米粉を塩水で練って作ったとても珍しい御供であるから、是非とも訪問してあげたら、と云われる。
実は、先日に伺った際に氏子さんからシラムシのことを聞いたので、3月1日の行事は是非出かけてみたい、と伝えたら、当日は奥様が出仕されるという。
当日は興隆寺町で出会うことになる。
ありがたいこの日の出合いに感謝する。
会場には顔見知りの山添村観光協会局長のMさんや、大字勝原在住のSさんも。
村外からは山添村と明日香村をフイールドに風景写真を撮り続けている写真家のYさんもおられた。
教育委員長の挨拶で始まった「鹿谷勲が語る山添村の祭りと民俗」講演会。
会場はぎっしり埋まって立見も多い。
席に溢れた人も数えてみたら、およそ100人にもおよぶ大盛況。
予想以上の反響は、来場していた顔ぶれでわかる。
鹿谷氏と面識のある村の人は行事を継承してきた人たち。
記録、聞き取りなどで長年に亘ってお付き合いをしてきた村の人が、是非とも聞いておきたい山添村の祭りと民俗の講話である。
はじめに紹介されたのは山添村の伝統芸能奉納の上映会だ。
収録は春日大社の式年造替記念に奉納した大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津の人たちが演じた「東山の神事芸能」である。
鹿谷氏から出演依頼があったのはずいぶん前のこと。
大字ごとに出演依頼の行脚をすると聞いていた。
奉納日は平成28年11月20日の日曜日。
その日に行われる造営奉祝行事の大和高原神事芸能の撮影に協力できないか、奉納のすべてを記録に撮ってほしいと願われたのはその年の8月23日だった。
電話で受けて承諾したものの、自宅に戻ってよくよく日程を確認したら、奈良県立民俗博物館のイベントがある日だった。
第6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展のイベントで出展写真家が併設する大和民俗公園にある古民家を利用して語らうテーマ「住」をめぐる大和の民俗―古民家座談会だった。
実は鹿谷氏も出展写真家の一人。
イベントの語らいも出るはずだったが、春日大社の奉納日と重なってしまった。
鹿谷氏は奉納に関わる重要な人物。語りイベントは私たち写真家で対応すると伝えた。
その年の民俗行事取材に出かけた山添村。
10月15日は室津に居た。
宵宮のお渡り取材に伺ったトウヤ家で聞いた出演の話し。
トウヤ家のOさんや東山地区神事芸能保存会会長のⅠさん。
出演を承諾して誰に出てもらうか、これから相談すると話していたが、おそらくはこの日と翌日の本祭に出仕される渡り衆になるであろう、ということだった。
それより以前の8月27日に立ち寄った大字北野・津越の大矢商店店主もたいへお世話になっている。
11月20日は北野も春日大社の林檎の庭で披露する。
時期はまだ早かったから誰が出演するかは決まっていない。
というのも、北野の場合は各垣内から選ばれる渡り衆。
順番が決まっている垣内は明確であるが、籤を引いて決める垣内はまだ、である。
すべての垣内が決まった段階で、この記念の奉納をしてもらうことになるから、口外できない。
もちろん、私もその一人、である。
上映された映像は北野、室津の「東山の神事芸能」に菅生のおかげ踊りであった。
こうして始まった講話は、鹿谷氏が初めて入った山添村に関する村の調査である。
内容が濃い講話を聴講するままノートにメモった。
一部は聞き取れない部分もあり、私が誤記していることもある聴講メモ。
できるだけ綴っておきたく、不明な点もそのまま列挙させていただき、また、私が知る範囲内で補足すること、ご容赦願いたい。
★最初の出会いは30云年前。
布目ダム建設に伴って、水没する村もあることから、その民俗調査である。
調査報告書は北野の津越。
当時の人たちにUさんが云った「マツリのホーデンガク」の言葉である。
その言葉に気づいて、山添村に「奉田楽」があるのか、調べることになった。
奈良晒(ならざらし)の紡織(ぼうしょく)や十九夜講が桐山にあった。
いろんなことがあることがわかった山添村に来ることが多くなった。
★特色は正月迎えをするフクマル呼びがある。
鹿谷氏が当時撮ったと思われる山添村の写真を会場正面に設置したスクーリンに映し出す。
正月神さん、正月どこまですとってた。
便所も関係ある正月っつあん。
新しいものが生まれる場が便所である。
びっちんくさ・・・はうちでもあったといったのは、隣で聞いていた風景写真家のYさんだ。
広陵町に住むYさんにとって、便所は「びっちんくさ」である。
私は大阪が生まれ育った地。
田舎は富田林の錦織。
母親の実家であるが、「びっちんくさ」の言葉は聞いたことがない。
「びっちんくさ」の「びっちん」は大便のことであろう。
大便は誰でも臭いというから「くさ」である。
「びっちんくさ」はそのまま大阪弁で云えば「うんこくさ」であろう。
★山の神も・・。
谷出などの菅生集落入口は七ツある。
平坦の地蔵さんと同じように、集落にやってくる悪の侵入を防ぐ地に、7カ所それぞれに山の神がある。
クラタテに“まぐわい”もある山の神。
祭具は男と女を想起する雑木がある。
★“はしおと“。
橘流の橘紋の上着がある。
明治2年の大和万歳の映像を披露されて、山添村には尾山万歳に伏拝の万歳がある。
貴重なものが伝承されている。
ちなみに伏拝(ふしおがみ)は山添村が行政区域。
一方、尾山は奈良市の旧月ケ瀬村に属している。
それほど遠くでもない距離にある両村。
万歳文化の交流があった、と思われる。
★無形民俗文化際に指定した「東山の神事芸能」で所作される田楽は平安時代に始まった風流(ふりゅう)である。
・・楽器する、目出度い古典的詞がある。
生活の安定を願う。
御幣を振る。
なかでも注目すべき点は、扇ぐ、である。
楽器を床に置いて外へ・・・。
次の場面は内側に向けて煽ぐ。
煽ぐ道具は扇である。
音をたてる楽器は、扇に煽がれる。
奈良市丹生町では楽器を蹴る、とかする所作がある。
大風を表現する煽ぎは農耕に擬えた所作をする。
こうした各大字で行われてきた田楽は一覧表に整理したが、今ではだいぶ変わっているようだ。
名前も当時取材したときと違ってきているし・・。
オドリコミの唄を謡いながらトーヤ家に上がり込む。
その際には小豆とお米を撒いて、福をトーヤ家に呼び込む。
それは呪術的な・・、来てもらう場所に便所もある。
おかげ踊りもオドリコミに用いられている。
安芸乃島のミチビキの唄は奈良市上深川で行われている題目立(だいもくたて)のミチビキの安芸乃島・・・が唄われる。
「イリハ」は入ることの入室。
「デハ」は逆の退室を表現する言葉である。
楽器は苗に見立てたササラなど。
煽いで、煽いで育てる。
いわば仕事としての所作が考えられる。
映し出されたシーンは奈良市北野山町の田楽。
同町は山添村の桐山、室津が分かれになった三カ村。
田楽文化は元々が桐山を中心に据えて、室津、北野山町の三カ村がそれぞれ一年おきに田楽を奉納していた記録がある。
長い年月を経て所作も詞章も変化したことで知られる。
私的にはいっそのこと「東山の神事芸能」に加えてもいいのでは、と思っている。
田楽はさらに奈良市の柳生町も紹介される。
柳生の舞はヨーガの舞のヨーゴーの松。
漢字で現わせば影向の松である。
目出度い松を呼び込む所作がある。
少し離れた下狭川町にも田楽がある。
所作の楽器の音色からと考えられるバタラン・バタラン。
大保町の横跳びもある。
田楽を継承してきた地区分布を地図上で見ていただければ理解しやすいと思える。
そうそう、山添村峯寺の六所神社で所作される場は本社殿下の拝殿もあるが、もう一カ所ある。
宮総代渡り衆を迎える場は「堂」。
窓のない開放感ある長屋建ての建物である「堂」内部で披露される。
奈良市大柳生も田楽がある。
昨年に県の無形民俗文化財に指定されたが、被る「ハナガイ」が乱れている。
奈良市阪原にも田楽がある。
昭和54年、大和の文化披露に寄せてもらうようになった山添村を基点に、関連する所作を、地域特有の類事例として紹介される。
★上深川の題目立のヨロコビの唄を謡い始めた鹿谷氏。
詞章、謡いに囃子詞は、いつもふっと口ずさむ。
頭の中にいつも仕舞ってしるわけでなく、公開講座でも度々口にされる。
その度にすごい人だな、と思うのだ。
曽爾村に獅子舞がある。
肩の上に乗って所作をする特徴的な接ぎ獅子がある。
大和の祭りは道化の面を被る。
元々は能面を塗りたくって使っていた。
獅子舞も一つの万歳があった。
活芸があった。
オッペケペー節が万歳の中にあった。
皿回しのない曲芸もあった。
おかげ踊りは、連綿とずっと続けてきたのは、菅生だけだと思う。
オドリコミは七つの講があった。
それぞれの講中のヤド家でヨバレたお酒を飲み歩いて、4軒、5軒目でノックアウトダウンしたこともあった。
踊りを踊ると・・褒め言葉がある。
お返しに出しづくし、花づくしを織り交ぜて褒め返しをした。
★北野の伊勢講に入れ物の箱があった。
そのお箱は天正二年(1574)の銘記があった。
古金春流春楽社の記録など、絵馬もある。
菅生の「じんやく踊り」の写真が、平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に残された。
大正8年が最後であった踊りは写真と本になって残ったのである。
★桐山の十九夜講は女性だけが集まる講。
松尾のオボケ。
麻糸作りの緒は誕生と葬送にも登場する。
芸能も生活も、どのようにして残すのか。
十津川村で撮った写真がある。
日除けの葉っぱは背中に付けていたのを目撃した。
葉っぱを付けていた婦人の姿を撮っていた。
今では見ることのない、山村暮らしの姿が写真に残った。
スクリーンに映し出された姿見て、これとまったく同様と思える行事がある。
奈良市小山戸町・山口神社で行われる「おせんどう」を思い起こす。
また、伏拝の福蔵寺の本尊は子安地蔵尊。
庭に十九夜さんの石仏が三体もある。
広瀬にコンピラ祭りがあったことなど、多彩な祭りと民俗の講話はこうして終えた。
その後は、山添村観光協会局長と風景写真家のYさんともども山添村観光協会でお茶会。
すっかり寛がせてもらった。
(H29. 2.18 SB932SH撮影)