
三郷町立野南に鎮座する龍田大社。
6月30日に夏越大祓式をされている神社は数多い。
大祓いは年に二回。
12月末日と6月末日の晦日の日である。
晦日、或は師走の大祓いを大々的に案内する神社は少ないが、夏を健康で無事に越す夏越の大祓は茅の輪の作法もあって特に賑わうし、ニュースなどで取り上げられることもまま増えつつある。
昨今は斎庭に立てる茅の輪の材料集めが難しくなってきている。
材料の茅は大量に採取しなければ参拝者が潜れるような大きな茅の輪にならない。
河川敷、或は緩やかな水流がある砂地にも生える茅はどこにでもあった。
採取は不自由さもなく難なくできたという人も多かった。
ところがだ、いつしか茅が消えてしまった処がある。
護岸工事によって川の流れが変わって消滅した処もある。
茅は何も河川だけでなく、村行事に必要なことから特設の茅場を設けて育てていた地域もあるぐらいだった。
龍田大社の茅の輪は前年の6月30日に潜らせていただいた。
茅を集めて茅の輪を作ると話していた“坂根よらん会”のSさん。
今年は28日の日曜日にすると娘さんが伝えてくれた。
採取の手段、製作などを拝見したいと私の願いに応えてくださった。
集合地は龍田大社だ。
時間ともなれば会の人たちがやってきた。
軽トラの荷台には刈り取る作業に使う鎌などを置いていた。
大社の禰宜さんも作業の一員。
ともに連れだって目的地に向かう。
その場は今でも覚えている大和川の河川敷だ。
平成18年4月3日に行われた瀧祭り。
斉場は磐瀬の杜だ。
磐瀬の杜では放魚祭も行われる。
平成20年4月4日に伺った放魚祭(放生会とも)の主役は大和川に放生する鯉魚だった。
磐瀬の杜は龍田大社の飛び地境内である。
古の杜は大和川の岸辺に広がる豊かな森であったが、河川の氾濫や改修工事などによってすっかり消えて、現在地に遷された。
車を停められる一角はやや広場。
丁度、その場はJR大和路線(関西本線)の列車が走る第3大和川橋梁だ。
磐瀬の杜の前は車が往来する道であるが、元々は関西本線の線路道だった。
社より南に1kmも下れば、「亀の瀬」に辿り着く大阪奈良間の街道だった。
昭和6年に発生した亀の瀬の地滑り大崩落で大和川が埋まった。
昭和7年、南岸へ迂回する線路に付け替えた。
第3大和川橋梁より200m北。
この辺りからは急なカーブを描いて鉄橋は大和川を越えて対岸になった。
亀の瀬の地滑りが発生した時期を遡れば、昭和47年、昭和26年、昭和6年・7年、明治23年、明治36年があった。
昭和34年に地滑り防止区域に指定され、さらには昭和37年に直轄施行区域が指定されて大規模な対策事業工事が始まった。
昭和42年に発生するも、以降、現在まで目に見える規模の地滑りは発生していない。
話しを茅刈りに戻そう。
一昨年は今回と同じ場で茅を刈った。
ところが、降り続けた大雨の影響で茅は泥まみれだった。
水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかった。
その関係もあって、前年の茅刈り場は勢野北口に急遽、切り替えた。
宅地造成で運ばれた土に混ざっていた茅を刈った。
茅は「ヨシ」だったと話していた。
その後の宅地造成進捗もあって茅は業者が刈り取ったらしい。
この年は大雨もなく、河川敷に植生する茅は綺麗に育っていたことから茅刈りの場は本来の地に戻された。
茅場に到着すれば早速作業が始まる。

めいめいは鎌を手にして茅刈り作業。
左手で何本かを掴んで右手でザクっと刈り取る。
刈り取っては屈む。
屈んで根株辺りをザクっと刈る。
これを繰り返す。

刈り取った茅は束にして鉄橋下に運ぶ。
運んでいる間も刈り取り作業が続く。
収穫した茅は一挙に増えて行く。

何度も、何度も抱えて運ぶ。
どちらも力が要る作業だ。

刈り取った茅は10cmぐらいの束にする。
市販の荒縄で括って崩れないようにする。
一定の長さで測った茅束は押し切り機の藁切りで切断する。

押し切り機はぐっと前に押し出すように切る。
一定の長さは葉の先から測って90cmである。
その間も茅の刈り取り作業がある。

橋梁の南側も刈れば、北側も刈る。
作業を始めてからおよそ1時間半。

茅の束を綺麗に揃えて芯の部分を朝紐で縛る。
収穫した茅束は軽トラに乗せて、次の作業場所になる龍田大社へ戻っていった。
(H27. 6.28 EOS40D撮影)
6月30日に夏越大祓式をされている神社は数多い。
大祓いは年に二回。
12月末日と6月末日の晦日の日である。
晦日、或は師走の大祓いを大々的に案内する神社は少ないが、夏を健康で無事に越す夏越の大祓は茅の輪の作法もあって特に賑わうし、ニュースなどで取り上げられることもまま増えつつある。
昨今は斎庭に立てる茅の輪の材料集めが難しくなってきている。
材料の茅は大量に採取しなければ参拝者が潜れるような大きな茅の輪にならない。
河川敷、或は緩やかな水流がある砂地にも生える茅はどこにでもあった。
採取は不自由さもなく難なくできたという人も多かった。
ところがだ、いつしか茅が消えてしまった処がある。
護岸工事によって川の流れが変わって消滅した処もある。
茅は何も河川だけでなく、村行事に必要なことから特設の茅場を設けて育てていた地域もあるぐらいだった。
龍田大社の茅の輪は前年の6月30日に潜らせていただいた。
茅を集めて茅の輪を作ると話していた“坂根よらん会”のSさん。
今年は28日の日曜日にすると娘さんが伝えてくれた。
採取の手段、製作などを拝見したいと私の願いに応えてくださった。
集合地は龍田大社だ。
時間ともなれば会の人たちがやってきた。
軽トラの荷台には刈り取る作業に使う鎌などを置いていた。
大社の禰宜さんも作業の一員。
ともに連れだって目的地に向かう。
その場は今でも覚えている大和川の河川敷だ。
平成18年4月3日に行われた瀧祭り。
斉場は磐瀬の杜だ。
磐瀬の杜では放魚祭も行われる。
平成20年4月4日に伺った放魚祭(放生会とも)の主役は大和川に放生する鯉魚だった。
磐瀬の杜は龍田大社の飛び地境内である。
古の杜は大和川の岸辺に広がる豊かな森であったが、河川の氾濫や改修工事などによってすっかり消えて、現在地に遷された。
車を停められる一角はやや広場。
丁度、その場はJR大和路線(関西本線)の列車が走る第3大和川橋梁だ。
磐瀬の杜の前は車が往来する道であるが、元々は関西本線の線路道だった。
社より南に1kmも下れば、「亀の瀬」に辿り着く大阪奈良間の街道だった。
昭和6年に発生した亀の瀬の地滑り大崩落で大和川が埋まった。
昭和7年、南岸へ迂回する線路に付け替えた。
第3大和川橋梁より200m北。
この辺りからは急なカーブを描いて鉄橋は大和川を越えて対岸になった。
亀の瀬の地滑りが発生した時期を遡れば、昭和47年、昭和26年、昭和6年・7年、明治23年、明治36年があった。
昭和34年に地滑り防止区域に指定され、さらには昭和37年に直轄施行区域が指定されて大規模な対策事業工事が始まった。
昭和42年に発生するも、以降、現在まで目に見える規模の地滑りは発生していない。
話しを茅刈りに戻そう。
一昨年は今回と同じ場で茅を刈った。
ところが、降り続けた大雨の影響で茅は泥まみれだった。
水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかった。
その関係もあって、前年の茅刈り場は勢野北口に急遽、切り替えた。
宅地造成で運ばれた土に混ざっていた茅を刈った。
茅は「ヨシ」だったと話していた。
その後の宅地造成進捗もあって茅は業者が刈り取ったらしい。
この年は大雨もなく、河川敷に植生する茅は綺麗に育っていたことから茅刈りの場は本来の地に戻された。
茅場に到着すれば早速作業が始まる。

めいめいは鎌を手にして茅刈り作業。
左手で何本かを掴んで右手でザクっと刈り取る。
刈り取っては屈む。
屈んで根株辺りをザクっと刈る。
これを繰り返す。

刈り取った茅は束にして鉄橋下に運ぶ。
運んでいる間も刈り取り作業が続く。
収穫した茅は一挙に増えて行く。

何度も、何度も抱えて運ぶ。
どちらも力が要る作業だ。

刈り取った茅は10cmぐらいの束にする。
市販の荒縄で括って崩れないようにする。
一定の長さで測った茅束は押し切り機の藁切りで切断する。

押し切り機はぐっと前に押し出すように切る。
一定の長さは葉の先から測って90cmである。
その間も茅の刈り取り作業がある。

橋梁の南側も刈れば、北側も刈る。
作業を始めてからおよそ1時間半。

茅の束を綺麗に揃えて芯の部分を朝紐で縛る。
収穫した茅束は軽トラに乗せて、次の作業場所になる龍田大社へ戻っていった。
(H27. 6.28 EOS40D撮影)