信貴南畑のハゲッショ神楽を再見したく、今年も訪れた三郷町信貴南畑。
夏至の日から数えて11日目になる日は半夏生(はんげしょう)。
だいたいが7月2日である。
夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿前には白い花をつけた半夏生が置いていた。
半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化するのだ。
花が咲けば梅雨も終わりのころになる。
龍田大社で行われる風鎮祭のことを「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるようだ。
県内では半夏生が訛って「ハンゲッショ」。
さらに訛って「ハゲッショ」と呼ぶ地域は割合ある。
信貴南畑も同じようにハゲッショと呼んでいるが、行事ごとをされる地域はどうも少ないようだ。
當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。
各家で作って食べた郷土料理は見ることもないが、當麻の道の駅で売っていた。
吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたようだ。
二毛作が衰退した現代では民家におけるハゲッショ餅は作ることなく、橿原市のあるお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。
信貴南畑の素盞嗚尊神社で行われるハゲッショの神楽。
前年よりも1時間前に着くようにしていた。
神社が鎮座する山に上がる参道を登っていた。
そのときのことだ。
声が聞こえてきた。
村人の声でもなく、声の主は聞き覚えのある三郷町の坂本巫女だ。
遠くまで聞こえる坂本さんの声。
唱えていた詞章は御湯作法の最後のほうだった。
到着していたころには御湯を終えたばかりだった。
この年は坂本さんの都合もあって一時間早めたと云うのである。
二つの湯釜の前で三度行われる御湯が特徴の信貴南畑。
湯気がまだでていた。
御湯を終えたクマザサは狛犬の股下に入れていた。
昔は飼っていた牛に食べさせていたというクマザサである。
忌竹・笹束は終わったから燃やしてしまいたいけどと当番の人が長老に尋ねたが、結果は・・・。
「忌竹は構わないが、笹はそのままにしておけ・・・」である。
かつてあった宮座の一老の言葉に従う始末の仕方。
宮座は平成12年に解散されたが長老の言葉は重みがあるのだ。
御湯を終えた村人たちは参籠所に上がって直会をされる。
前年は6人だったが、この年は倍以上の参拝者になった。
昔は子供もやってきていたので「それ以上の倍ぐらいやった」と口々に話す氏子たち。
その場で坂本さんが神楽を舞う。
昭和6年生まれの長老が打つ太鼓に合わせているのか、逆に舞いに合わして打っているのか判らないが、太鼓打ちは「ワシの役目や」と云ってこの年も打っていた。
リズムは単調でドン、ドン、ドンと叩いていた。
小型の胴長太鼓は「昭和五十九年閏甲子歳八月張替 大阪市芦原駅前太鼓正張替」と書いてあった。
胴長にもうっすらと墨書がある。
その文字は「信貴山畑」だ。
信貴山畑は南畑の旧地名であろうか。
江戸時代は奈良奉行直轄の幕府・旗本領だった「信貴畑村」は明治22年に「西向村・櫟原村・椣原村・上庄村・梨本村・吉新村・三里村・白石畑村・平等寺村・下垣内村・鳴川村・福貴村・福貴畑村・久安寺村・椹原村・越木塚村・若井村・西宮村・椿井村」を集合した平群郡明治村(明治29年に改称されて平群村)になった。
平群郡には大和郡山の今国府・八条・馬司・池沢・椎木の額田部村も含んでいたそうだ。
太鼓にあった「信貴山畑」は現在の平群町信貴畑と思われ、三郷町の信貴南畑に対して「北畑」とされていたように思える。
何らかの形で両村が繋がっていたのではと、思ったのである。
鈴舞い、剣の舞を終えて参拝者一人ずつ、もろもろの穢れを鈴と剣で祓ってくださるありがたい神楽舞は男性、女性ともに、である。
祓ったあとも鈴舞い、剣の舞が行われる。
太鼓打ちの長老にはもう一度祓ってくださる。
このころになれば、直会の膳が配られてお神酒やビールでいただく宴に移るが、そのさなかにも続けて鈴舞い、剣の舞が行われる。
当番さんが膳を配る間も舞っていく神楽舞。
村のマツリの在り方に感動を覚える。
舞いを終えてお一人ごとに身体健勝の祓えたまえ清めたまえのお祓い。
参拝者一人ずつにこれを繰り返すのだ。
太鼓打ちの長老は食べる間もなく坂本さんが舞っておれば太鼓を打つ。
下働きされていた婦人らにもお祓いをされてようやく終了した。
その間の神楽舞はおよそ30分間。
坂本さんは汗びっしょりになった。
体力が要るお祓いに、普段は体力作りにフィットネスに通っていると話す。
坂本さんの話しによれば、川西町の下永・八幡神社で行われるお神楽は参拝者が長い行列になると云う。
延々ぶっとおしの2時間を舞うと云うのだから相当な体力が要るのである。
そのような話しをしてくださった坂本さんは急がなければならず退席された。
その後も宴が続く信貴南畑。
ハゲッショはケツケとも呼ぶ日。キナコを塗したナエサン(苗)を竃の蓋の上に供えていたと話す。
かつてケツケヤスミ(毛付け休み)・アメヨロコビ(雨歓び)・ジュンキヨロコビ(順季歓び)もあったようだ。
(H26. 7. 2 EOS40D撮影)
夏至の日から数えて11日目になる日は半夏生(はんげしょう)。
だいたいが7月2日である。
夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿前には白い花をつけた半夏生が置いていた。
半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化するのだ。
花が咲けば梅雨も終わりのころになる。
龍田大社で行われる風鎮祭のことを「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるようだ。
県内では半夏生が訛って「ハンゲッショ」。
さらに訛って「ハゲッショ」と呼ぶ地域は割合ある。
信貴南畑も同じようにハゲッショと呼んでいるが、行事ごとをされる地域はどうも少ないようだ。
當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。
各家で作って食べた郷土料理は見ることもないが、當麻の道の駅で売っていた。
吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたようだ。
二毛作が衰退した現代では民家におけるハゲッショ餅は作ることなく、橿原市のあるお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。
信貴南畑の素盞嗚尊神社で行われるハゲッショの神楽。
前年よりも1時間前に着くようにしていた。
神社が鎮座する山に上がる参道を登っていた。
そのときのことだ。
声が聞こえてきた。
村人の声でもなく、声の主は聞き覚えのある三郷町の坂本巫女だ。
遠くまで聞こえる坂本さんの声。
唱えていた詞章は御湯作法の最後のほうだった。
到着していたころには御湯を終えたばかりだった。
この年は坂本さんの都合もあって一時間早めたと云うのである。
二つの湯釜の前で三度行われる御湯が特徴の信貴南畑。
湯気がまだでていた。
御湯を終えたクマザサは狛犬の股下に入れていた。
昔は飼っていた牛に食べさせていたというクマザサである。
忌竹・笹束は終わったから燃やしてしまいたいけどと当番の人が長老に尋ねたが、結果は・・・。
「忌竹は構わないが、笹はそのままにしておけ・・・」である。
かつてあった宮座の一老の言葉に従う始末の仕方。
宮座は平成12年に解散されたが長老の言葉は重みがあるのだ。
御湯を終えた村人たちは参籠所に上がって直会をされる。
前年は6人だったが、この年は倍以上の参拝者になった。
昔は子供もやってきていたので「それ以上の倍ぐらいやった」と口々に話す氏子たち。
その場で坂本さんが神楽を舞う。
昭和6年生まれの長老が打つ太鼓に合わせているのか、逆に舞いに合わして打っているのか判らないが、太鼓打ちは「ワシの役目や」と云ってこの年も打っていた。
リズムは単調でドン、ドン、ドンと叩いていた。
小型の胴長太鼓は「昭和五十九年閏甲子歳八月張替 大阪市芦原駅前太鼓正張替」と書いてあった。
胴長にもうっすらと墨書がある。
その文字は「信貴山畑」だ。
信貴山畑は南畑の旧地名であろうか。
江戸時代は奈良奉行直轄の幕府・旗本領だった「信貴畑村」は明治22年に「西向村・櫟原村・椣原村・上庄村・梨本村・吉新村・三里村・白石畑村・平等寺村・下垣内村・鳴川村・福貴村・福貴畑村・久安寺村・椹原村・越木塚村・若井村・西宮村・椿井村」を集合した平群郡明治村(明治29年に改称されて平群村)になった。
平群郡には大和郡山の今国府・八条・馬司・池沢・椎木の額田部村も含んでいたそうだ。
太鼓にあった「信貴山畑」は現在の平群町信貴畑と思われ、三郷町の信貴南畑に対して「北畑」とされていたように思える。
何らかの形で両村が繋がっていたのではと、思ったのである。
鈴舞い、剣の舞を終えて参拝者一人ずつ、もろもろの穢れを鈴と剣で祓ってくださるありがたい神楽舞は男性、女性ともに、である。
祓ったあとも鈴舞い、剣の舞が行われる。
太鼓打ちの長老にはもう一度祓ってくださる。
このころになれば、直会の膳が配られてお神酒やビールでいただく宴に移るが、そのさなかにも続けて鈴舞い、剣の舞が行われる。
当番さんが膳を配る間も舞っていく神楽舞。
村のマツリの在り方に感動を覚える。
舞いを終えてお一人ごとに身体健勝の祓えたまえ清めたまえのお祓い。
参拝者一人ずつにこれを繰り返すのだ。
太鼓打ちの長老は食べる間もなく坂本さんが舞っておれば太鼓を打つ。
下働きされていた婦人らにもお祓いをされてようやく終了した。
その間の神楽舞はおよそ30分間。
坂本さんは汗びっしょりになった。
体力が要るお祓いに、普段は体力作りにフィットネスに通っていると話す。
坂本さんの話しによれば、川西町の下永・八幡神社で行われるお神楽は参拝者が長い行列になると云う。
延々ぶっとおしの2時間を舞うと云うのだから相当な体力が要るのである。
そのような話しをしてくださった坂本さんは急がなければならず退席された。
その後も宴が続く信貴南畑。
ハゲッショはケツケとも呼ぶ日。キナコを塗したナエサン(苗)を竃の蓋の上に供えていたと話す。
かつてケツケヤスミ(毛付け休み)・アメヨロコビ(雨歓び)・ジュンキヨロコビ(順季歓び)もあったようだ。
(H26. 7. 2 EOS40D撮影)