昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。
編纂は飛鳥民俗調査会だ。
その中に明日香村大字大根田(おおねだ)にある於八王子神社の行事が書いてあった。
行事の名前は「十一月二十三夜」であるが、その名でされているかどうかはまったくわからない。
『飛鳥の民俗』に書いてあった記事を要約、一部加筆修正して次に記しておく。
「大根田は檜前の分かれの村と伝えられる。村には宮講がある。座は10月8日。前日までに宮講の頭屋は吉野川に出向く。川に入水して水垢離をする。その際に拾ってきた川の小石を3個持ち帰って、本社殿前に置いていたが、昭和17、18年ころに中断した」とある。
マツリ当日の「8日の頭屋は、床の間に掛図をかけて燭台に百目の蝋燭を一対立てて供える。翌日の9日の未明。講中は頭屋家に参集して、オカリヤに礼拝をする。御幣を持った頭屋を先頭に蝋燭、供物等を手分けして行列。その際、区長が白扇を開いて“ゴヘイノ ゴヘイノ ワァ”と云ったら、講中は“ワァ”と応じる。これを繰り返しつつ出発する。到着した講中は神前に般若心経唱えてお神酒をいただく。このときの頭屋は御幣をもって講中一人ずつに廻る。その際の講中は頭屋の御幣の紙を千切って胸紐や頭髪に挿す。もち帰った御幣の紙は神棚に上げて、翌年のトンドで燃やす」とある。
“ゴヘイノ ゴヘイノ ワァ”は他村の行事にも見られるが、御幣千切りの紙片扱いは、私が知る範囲ではここだけだと思う。
9日の宮講行事は、まだ続きがある。
祭典後に行われる頭屋の引き渡しである。
その儀式には詳しく書いていないが、翌日に頭屋の諸道具を次の頭屋家に送るようだ。
特徴的なあり方は、8日の夜から翌日の9日の朝まで、である。
トンドに火を点けて青年団が不審番をすることだ。
その夜は籠り。
頭屋から握り飯や、ゴンザと呼ばれる煮物料理に餅、酒で一晩過ごしたようである。
今どきはしていないと想定される不寝番。
正月を迎える歳旦祭でさえ、しなくなった村は多い。
他村の事例はどうであったのか、聞きたくなる在り方である。
続けて書いてあったのが、本日訪問して聞き取りたかった「十一月二十三夜」である。
記事に、「十一月二十三夜、五月のミユ(御湯)焚く日、その他、八朔に弁当をもって宮に行く。毎月の1日、15日は神社の清掃にお供え。1月14日のトンドはアトサキ頭屋の人も加わった3人で組み立てた。トンドの火点けは頭屋。神前燈籠のオヒカリから移して火を点ける」とあった。
大根田の地は未だ行ったことがない。
神社の場も知らず、カーナビゲーションにセットして車を走らせる。
セットした神社地がここです、と伝えるカーナビゲーション。
車は公民館の敷地内に置かせてもらったが、神社はどこに・・。
見上げた高台に玉垣などが見える。
参道がどこにあるのかわからず、辺りを歩いてみる。
登りの細い里道があった。
誘われるように登っていった所に神社が建っていた。
拝礼させてもらって辺りを見る。
周りにあった神さんは「富士大権現」に「金毘羅大権現」。
「御霊大明神」に「大峰山上」を刻んだものもある。
境内にある大岩は二つ。
何であるのかわからない。
辺りを見渡しておれば、下り石階段があった。
その階段横にあった石塔は「太神宮」。
お伊勢さんの遥拝、或いは伊勢講の存在を想起できる石塔があった。
どれもこれも真新しいサカキを立てている。
『飛鳥の民俗』に書いてあった1日、15日参りの頭屋が供えたのであろうか。
境内は落ち葉もなく綺麗に清掃しているから、たぶんにそうであろう。
石段を下れば公民館。
なるほど、ここが正門であったのだ。
この日の午後は大阪の吹田市立博物館に向かう。
講演時間まではたっぷりあるから大根田を散策してみたくなった。
少し歩けば、路傍の石仏のような構造物があった。
どことなく人物像にも見えるそれに綺麗なお花を飾っていた。
すぐ傍にある祠にも花を立てているから信仰のある方がおられる。
そう思って向かいにある民家を訪ねてみる。
呼び鈴を押したら奥からご婦人が出てこられた。
ここに来た要件を伝えたら、「十一月二十三夜」行事は嫁入りしたとき、すでにしなくなっていたという。
嫁入り時代は50年前に遡るようだから、昭和42年ころの時代になる。
吉野川の水垢離。
つまりは「オナンジ参り」である。
嫁入りする以前の昭和17、18年に途絶えていた、と『飛鳥の民俗』に書いてあった。
『飛鳥の民俗』の記事は行事名の「十一月二十三夜」だけであることから、調査・編纂した飛鳥民俗調査会が聞取りされたのも名前だけだったように思える。
実際の「十一月二十三夜」を知る人は今もおられるのかどうかは非常に難しいが、婦人に話した「十一月二十三夜」をしているのは奈良県内では1カ所。田原本町の神社と言いかけたとき、である。
「守屋さんとこの村屋神社」と婦人が云った言葉にびっくりした。
守屋宮司が一人でしている「十一月二十三夜」は村屋神社境内社の恵比寿社行事の「三夜待ち」。
二股のダイコン、2本のニンジンに2尾の生鯛を笹に吊るす。
恵比寿社行事は12月23日であるが、「十一月二十三夜」の可能性があると判断してやってきた八王子神社にはそれがなかった。
それにしても宮司の守屋さんを何故に・・存じているのか、である。
高取町が出里の婦人が云うには遠い親戚筋になるそうだ。
近い親戚筋にあるのが五條市霊安寺町・御霊神社の藤井宮司。
現在70歳になられる宮司とは平成26年の4月28日に表敬訪問した際にお会いしたことがある。
こうしたご縁はどこかで繋がる不思議なもの。
婦人もそうですね、と云っていた。
ちなみに嫁入りした大根田は門徒衆の浄土宗派。
他派のような営みがないことから、藤井宮司に来てもらって家の行事をしているようだ。
ところで大根田の宮講は「座」行事があった。
過疎化の村は18戸であるが、実際に動ける戸数は15軒になるらしい。
行事の負担は極力落として、ついこの前までしていたパック詰め料理の御膳もしなくなった。
膳を辞めた大改正は7、8年前になるらしい。
神饌を抱えて神社へのお渡りはあるが、料理関係の一切を中断したという。
宮講座中のトーヤ(頭屋)にアト・サキのトーヤとともに小規模ながらも祭典をしている。
『飛鳥の民俗』に書いてあったように毎度入替するサカキ立てはしている、ということだ。
家の前にある庚申さんに地蔵さんの花立ては、家の真ん前にあるから私が飾っているという。
話してくれた門屋の前にあるのは御井戸である。
そこにも鳥居があるからサカキを立てているというから、井戸の神さんも祭っている。
地元民が来られたので民俗探訪の聞取りはここまでであるが、花を立てていた庚申さんの行事はしているようだ。
庚申講の組は2組。
新暦の閏年にトーヤがお供えをするなどの閏庚申行事があった。
元々は旧暦であったような気はするが、言葉の端々にどことなく塔婆を立てているような感じを受けた。
『飛鳥の民俗』の記事はもう一つある。
藤原鎌足公の掛図を掲げる八講さん、である。
八講さんの場は観音寺。
区長預かりの鎌足親子三像の掛図に立御膳もあるらしいが、婦人の話しの様相から、この行事も廃れている可能性も拭えない。
いつか、もう一度訪問して伺ってみたい、と思うのである。
そうそう、婦人がここ大根田にはお不動さんもあると云っていた。
そこはすぐにわかった。
川沿いの一角にあった石標のような構造物がそれであろう。
(H29.11.23 SB932SH撮影)
(H29.11.23 EOS40D撮影)
編纂は飛鳥民俗調査会だ。
その中に明日香村大字大根田(おおねだ)にある於八王子神社の行事が書いてあった。
行事の名前は「十一月二十三夜」であるが、その名でされているかどうかはまったくわからない。
『飛鳥の民俗』に書いてあった記事を要約、一部加筆修正して次に記しておく。
「大根田は檜前の分かれの村と伝えられる。村には宮講がある。座は10月8日。前日までに宮講の頭屋は吉野川に出向く。川に入水して水垢離をする。その際に拾ってきた川の小石を3個持ち帰って、本社殿前に置いていたが、昭和17、18年ころに中断した」とある。
マツリ当日の「8日の頭屋は、床の間に掛図をかけて燭台に百目の蝋燭を一対立てて供える。翌日の9日の未明。講中は頭屋家に参集して、オカリヤに礼拝をする。御幣を持った頭屋を先頭に蝋燭、供物等を手分けして行列。その際、区長が白扇を開いて“ゴヘイノ ゴヘイノ ワァ”と云ったら、講中は“ワァ”と応じる。これを繰り返しつつ出発する。到着した講中は神前に般若心経唱えてお神酒をいただく。このときの頭屋は御幣をもって講中一人ずつに廻る。その際の講中は頭屋の御幣の紙を千切って胸紐や頭髪に挿す。もち帰った御幣の紙は神棚に上げて、翌年のトンドで燃やす」とある。
“ゴヘイノ ゴヘイノ ワァ”は他村の行事にも見られるが、御幣千切りの紙片扱いは、私が知る範囲ではここだけだと思う。
9日の宮講行事は、まだ続きがある。
祭典後に行われる頭屋の引き渡しである。
その儀式には詳しく書いていないが、翌日に頭屋の諸道具を次の頭屋家に送るようだ。
特徴的なあり方は、8日の夜から翌日の9日の朝まで、である。
トンドに火を点けて青年団が不審番をすることだ。
その夜は籠り。
頭屋から握り飯や、ゴンザと呼ばれる煮物料理に餅、酒で一晩過ごしたようである。
今どきはしていないと想定される不寝番。
正月を迎える歳旦祭でさえ、しなくなった村は多い。
他村の事例はどうであったのか、聞きたくなる在り方である。
続けて書いてあったのが、本日訪問して聞き取りたかった「十一月二十三夜」である。
記事に、「十一月二十三夜、五月のミユ(御湯)焚く日、その他、八朔に弁当をもって宮に行く。毎月の1日、15日は神社の清掃にお供え。1月14日のトンドはアトサキ頭屋の人も加わった3人で組み立てた。トンドの火点けは頭屋。神前燈籠のオヒカリから移して火を点ける」とあった。
大根田の地は未だ行ったことがない。
神社の場も知らず、カーナビゲーションにセットして車を走らせる。
セットした神社地がここです、と伝えるカーナビゲーション。
車は公民館の敷地内に置かせてもらったが、神社はどこに・・。
見上げた高台に玉垣などが見える。
参道がどこにあるのかわからず、辺りを歩いてみる。
登りの細い里道があった。
誘われるように登っていった所に神社が建っていた。
拝礼させてもらって辺りを見る。
周りにあった神さんは「富士大権現」に「金毘羅大権現」。
「御霊大明神」に「大峰山上」を刻んだものもある。
境内にある大岩は二つ。
何であるのかわからない。
辺りを見渡しておれば、下り石階段があった。
その階段横にあった石塔は「太神宮」。
お伊勢さんの遥拝、或いは伊勢講の存在を想起できる石塔があった。
どれもこれも真新しいサカキを立てている。
『飛鳥の民俗』に書いてあった1日、15日参りの頭屋が供えたのであろうか。
境内は落ち葉もなく綺麗に清掃しているから、たぶんにそうであろう。
石段を下れば公民館。
なるほど、ここが正門であったのだ。
この日の午後は大阪の吹田市立博物館に向かう。
講演時間まではたっぷりあるから大根田を散策してみたくなった。
少し歩けば、路傍の石仏のような構造物があった。
どことなく人物像にも見えるそれに綺麗なお花を飾っていた。
すぐ傍にある祠にも花を立てているから信仰のある方がおられる。
そう思って向かいにある民家を訪ねてみる。
呼び鈴を押したら奥からご婦人が出てこられた。
ここに来た要件を伝えたら、「十一月二十三夜」行事は嫁入りしたとき、すでにしなくなっていたという。
嫁入り時代は50年前に遡るようだから、昭和42年ころの時代になる。
吉野川の水垢離。
つまりは「オナンジ参り」である。
嫁入りする以前の昭和17、18年に途絶えていた、と『飛鳥の民俗』に書いてあった。
『飛鳥の民俗』の記事は行事名の「十一月二十三夜」だけであることから、調査・編纂した飛鳥民俗調査会が聞取りされたのも名前だけだったように思える。
実際の「十一月二十三夜」を知る人は今もおられるのかどうかは非常に難しいが、婦人に話した「十一月二十三夜」をしているのは奈良県内では1カ所。田原本町の神社と言いかけたとき、である。
「守屋さんとこの村屋神社」と婦人が云った言葉にびっくりした。
守屋宮司が一人でしている「十一月二十三夜」は村屋神社境内社の恵比寿社行事の「三夜待ち」。
二股のダイコン、2本のニンジンに2尾の生鯛を笹に吊るす。
恵比寿社行事は12月23日であるが、「十一月二十三夜」の可能性があると判断してやってきた八王子神社にはそれがなかった。
それにしても宮司の守屋さんを何故に・・存じているのか、である。
高取町が出里の婦人が云うには遠い親戚筋になるそうだ。
近い親戚筋にあるのが五條市霊安寺町・御霊神社の藤井宮司。
現在70歳になられる宮司とは平成26年の4月28日に表敬訪問した際にお会いしたことがある。
こうしたご縁はどこかで繋がる不思議なもの。
婦人もそうですね、と云っていた。
ちなみに嫁入りした大根田は門徒衆の浄土宗派。
他派のような営みがないことから、藤井宮司に来てもらって家の行事をしているようだ。
ところで大根田の宮講は「座」行事があった。
過疎化の村は18戸であるが、実際に動ける戸数は15軒になるらしい。
行事の負担は極力落として、ついこの前までしていたパック詰め料理の御膳もしなくなった。
膳を辞めた大改正は7、8年前になるらしい。
神饌を抱えて神社へのお渡りはあるが、料理関係の一切を中断したという。
宮講座中のトーヤ(頭屋)にアト・サキのトーヤとともに小規模ながらも祭典をしている。
『飛鳥の民俗』に書いてあったように毎度入替するサカキ立てはしている、ということだ。
家の前にある庚申さんに地蔵さんの花立ては、家の真ん前にあるから私が飾っているという。
話してくれた門屋の前にあるのは御井戸である。
そこにも鳥居があるからサカキを立てているというから、井戸の神さんも祭っている。
地元民が来られたので民俗探訪の聞取りはここまでであるが、花を立てていた庚申さんの行事はしているようだ。
庚申講の組は2組。
新暦の閏年にトーヤがお供えをするなどの閏庚申行事があった。
元々は旧暦であったような気はするが、言葉の端々にどことなく塔婆を立てているような感じを受けた。
『飛鳥の民俗』の記事はもう一つある。
藤原鎌足公の掛図を掲げる八講さん、である。
八講さんの場は観音寺。
区長預かりの鎌足親子三像の掛図に立御膳もあるらしいが、婦人の話しの様相から、この行事も廃れている可能性も拭えない。
いつか、もう一度訪問して伺ってみたい、と思うのである。
そうそう、婦人がここ大根田にはお不動さんもあると云っていた。
そこはすぐにわかった。
川沿いの一角にあった石標のような構造物がそれであろう。
(H29.11.23 SB932SH撮影)
(H29.11.23 EOS40D撮影)