ダイジングサンの所在を確かめたくて出かけた高取町の清水谷。
所在は判ったが講中の存在はなく八王子講があった。
たまたま出会った婦人の家は八王子講であるとともに清水谷の宮講の一つである古宮講であった。
10月の第一土曜には幕を張った家で菅原道真公の神影である掛軸を掲げると話していた。
一週間前の八王子講のお参りを取材させていただいた折にもその件を伝えられていた。
その日は旧家が建ち並ぶ街道に子供が曳くだんじりも繰りだすと話していた。
高取町のマツリでもあるその日は6台のだんじりが地域を駆け巡るというのだ。
清水谷周辺の各大字にはそれぞれ氏神さんを祀っている。
下子島は春日さんとも呼ばれている小嶋神社(氏子圏は下子島と上土佐)。
上子島は上子島神社。
下土佐は国府神社。
大字観覚寺は高皇産霊神社。
それぞれ、だんじりが巡行するらしいと話す。
高取町には製薬・配置薬業が集約する町。
11月下旬辺りに神農薬祖神祭が行われる上土佐の恵比須神社もある。
清水谷交差点にある建物は共立薬品工業。
その会社の看板に「キズリバテープ」がある。
懐かしい絆創膏である。
生まれ育った大阪市住之江。
家には薬箱があった。
そこにあった絆創膏の名前が「キズリバテープ」であった。
お腹痛や頭痛薬に風邪薬も入っていた薬箱は忘れもしない高取町の配置薬だった。
信号を左に曲がれば清水谷の公民館に着く。
一足先に着いていた写友人の車とともに停めさせてもらった。
ありがたいことである。
この日は清水谷に鎮座する高生神社のヨミヤ。
宵宮とも呼ぶ。
だんじり巡行の出発地である公民館には住民から寄せられた祝儀を受け取って書き記した名を貼り付けていた。
たくさんのご祝儀である。
この日の取材は神社祭祀ではなく宮講(宮座)の営みである。
ご挨拶をさせていただいた区長に宮講の話しを伺う。
区長家は元宮講、菅原道真公の掛軸を掲げて祭ると云う。
正月の講もあった元宮講はもち廻りのトヤ家で営む。
古宮講も菅原道真公を掲げている。
中宮講は藤原鎌足公だそうだが、明神講は存知していないと云う。
清水谷の四組の宮講はそれぞれの営みであるゆえ講中以外の講の様相は判らないようだ。
氏神さんの高生神社へ参ることなく講家の営みはごっつぉを食べる親睦会のようなものだと話す。
宮講は宮座でもある。
どの講であるか存知しないが伊勢エビや目出度い鯛も供える講もあるらしい。
区長も所属する元宮講では料理をこしらえて飲食していると話す。
営みを終えれば数段重ねの折りをもって帰っていたが、今では会食の場は料理屋に移したと云う。
どの講か判らないが、料理でなくお菓子になった講もあるようだ。
宮講の営みは高生神社のヨミヤの日。
かつては8日がヨミヤで、9日がマツリだった。
10年前、いやそれ以上の20年前のころに集まりやすい第一土曜、日曜に移したと話す。
宵宮とも云うヨミヤの晩にはゴクマキを神社ですると話す。
奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば、清水谷の宮座は記されていない。
調査洩れであったかも知れない。
平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記載されている高取町の宮座は観覚寺・高皇産霊神社と下子島・小嶋神社だけであった。
観覚寺は左座・九人講・大講・宮講があり、下子島は古講・中講・新講のそれぞれである。
たまたまの出合いで知った清水谷の宮講(宮座)の在り方は古宮講を調べることにある。
清水谷・宮講の取材に向かう途中で街道を行くだんじり(太鼓台)に遭遇した。
水平にした御幣を撮った御輿の屋根の上。
広げた傘を2本さしていた。
奈良県内のだんじりにこのよう形態があること、始めて知った。
この日は朝8時に出発し10時には公民館に戻る。
11時に2回目の巡行。
15時半に戻って、1時間後には3回目の出発。
戻ってくるのは22時。
とてもじゃないかつきあえない。
明日の5日も同じように巡行する。
心配される台風の影響でどうなることやらと思っていたが、風雨はそれほどでもなかったようだ。
平成23年に新調された幕を張っていた講家はT家。
婦人の話によれば、前の幕はもっと長くて端から端まであったと云う。
中庭を通り抜け奥の間にとおしてもらったご主人は配置薬の仕事をしていたと云い、神農さんの祭りに参列していると話す。
奥の間に掛けていた掛軸はまさに菅原道真公のご神影であった。
祭壇を組んでお供えをする。
以前は立て御膳であったが、今は寝かせている。
御膳の御供はシイタケ、ミカン、ケンサキイカ、ダイコン、ニンジン、ゴボウにコンブの七種と決まっている。
前回或いはもっと昔に撮った1月の立て御膳の写真を拝見した。
土台は半切りのキャベツ。
ケンサキイカを立てて串に挿したミカン、コンブ、シイタケを前に。
イカの足が前に出ている。
後方は葉付きのニンジン、ゴボウ、ダイコンを立てている。
1月の土台はキャベツであるが、10月ではカボチャだったと話す。
水、塩、酒、洗い米や御膳を神前に供えた祭壇には三方に盛った一尾の生鯛や果物、モチ御供もある古宮講の営みは年に2回。
正月初めの営みは1月14日で、秋は10月8日だった。
正月初めの営みには講中は集まることなく、掛軸・祭壇を奉る當家だけで行われる。
秋は講中が揃ってご神影に向かって祝詞を奏上する。
かつては11軒あった古宮講は現在10軒。
昔から継いできた講家・當家は12月の暮れに次の當家の家へ掛軸および祭壇を運ぶ。
受け取った當家はご神影を一年中掲げておく。
菅原道真公のご神影は古くから奉られてきたが、何年か前に表装をしなおしたそうだ。
年代を示す記銘もなく判然としないが、講中の話しによれば江戸中期、若しくは初期に古宮講が始まったと伝えられている。
「大事にせなあかん」と先代から伝えられている掛軸である。
しばらくして講中が當家の奥の間に集まってきた。
お茶菓子をよばれてしばらくは歓談する。
そろそろ始めようかと云ってご神影の前に座る。
ローソクに火を灯して祓えの詞を奏上する。
そして、講中をサカキで祓う。
次に奏上する祝詞は神棚拝詞だ。
次に神社拝詞を述べて最後に祖霊拝詞を奏上する。
かつての直会の宮座料理の献立は決まっていた。
刺身、焼肴、酢物、天婦羅、煮付、茶碗蒸し、吸物、付出しに漬けものがあった。
料理を作ることはしなくなり料理屋に出かけるようになった。
祝詞を奏上し終えれば直ちに出かけるのである。
Tさんの話によれば、かつて氏神さんを祀る高生神社に参拝していたそうだ。
二人の講代表者は白衣姿でお参りしていたというのである。
白装束姿であったことから高生神社の宮講であったに違いない。
いつころまでそうされていたのか記憶にないぐらいの代々の口伝えである。
神社へ参ってから當家で直会をしていたというのだ。
いつのころか判らないが参ることをしなくなった。
それでご神影を掲げるようになったらしい。
今尚続けている現在の在り方は何故にそうなったのか。
Tさんの話によれば、複数の宮座が神社に参ったときのことである。
拝殿に並ぶ席順でもめたと云うのだ。
3、4代前の区長が話していた事件である。
「講のもんどおしがもめた。それから神社に参ることなくそれぞれの宮座は講家で掛軸を掲げて祭るようになった」と云うのである。
古宮講の講中が云うには、清水谷の氏神さんは今でこそ高生神社に合祀されたが、かつては西南の地にある高台の山に鎮座していた清水神社であったと云う。
御輿を担いで移設した時代は大正年間と伝わっている清水神社の祭神は菅原道真だと話す。
合祀された本社は高生神社。
小字タカバネの高地に鎮座する。
創建当時は高取城がある高取山であった。
享保十一年(1736)刊の『大和志』によれば、天正年間(1573~1592)に現在地に遷座したとあるようだ。
講中の記憶や伝承を総合しても判然としない歴年代であった。
(H26.10. 4 EOS40D撮影)
所在は判ったが講中の存在はなく八王子講があった。
たまたま出会った婦人の家は八王子講であるとともに清水谷の宮講の一つである古宮講であった。
10月の第一土曜には幕を張った家で菅原道真公の神影である掛軸を掲げると話していた。
一週間前の八王子講のお参りを取材させていただいた折にもその件を伝えられていた。
その日は旧家が建ち並ぶ街道に子供が曳くだんじりも繰りだすと話していた。
高取町のマツリでもあるその日は6台のだんじりが地域を駆け巡るというのだ。
清水谷周辺の各大字にはそれぞれ氏神さんを祀っている。
下子島は春日さんとも呼ばれている小嶋神社(氏子圏は下子島と上土佐)。
上子島は上子島神社。
下土佐は国府神社。
大字観覚寺は高皇産霊神社。
それぞれ、だんじりが巡行するらしいと話す。
高取町には製薬・配置薬業が集約する町。
11月下旬辺りに神農薬祖神祭が行われる上土佐の恵比須神社もある。
清水谷交差点にある建物は共立薬品工業。
その会社の看板に「キズリバテープ」がある。
懐かしい絆創膏である。
生まれ育った大阪市住之江。
家には薬箱があった。
そこにあった絆創膏の名前が「キズリバテープ」であった。
お腹痛や頭痛薬に風邪薬も入っていた薬箱は忘れもしない高取町の配置薬だった。
信号を左に曲がれば清水谷の公民館に着く。
一足先に着いていた写友人の車とともに停めさせてもらった。
ありがたいことである。
この日は清水谷に鎮座する高生神社のヨミヤ。
宵宮とも呼ぶ。
だんじり巡行の出発地である公民館には住民から寄せられた祝儀を受け取って書き記した名を貼り付けていた。
たくさんのご祝儀である。
この日の取材は神社祭祀ではなく宮講(宮座)の営みである。
ご挨拶をさせていただいた区長に宮講の話しを伺う。
区長家は元宮講、菅原道真公の掛軸を掲げて祭ると云う。
正月の講もあった元宮講はもち廻りのトヤ家で営む。
古宮講も菅原道真公を掲げている。
中宮講は藤原鎌足公だそうだが、明神講は存知していないと云う。
清水谷の四組の宮講はそれぞれの営みであるゆえ講中以外の講の様相は判らないようだ。
氏神さんの高生神社へ参ることなく講家の営みはごっつぉを食べる親睦会のようなものだと話す。
宮講は宮座でもある。
どの講であるか存知しないが伊勢エビや目出度い鯛も供える講もあるらしい。
区長も所属する元宮講では料理をこしらえて飲食していると話す。
営みを終えれば数段重ねの折りをもって帰っていたが、今では会食の場は料理屋に移したと云う。
どの講か判らないが、料理でなくお菓子になった講もあるようだ。
宮講の営みは高生神社のヨミヤの日。
かつては8日がヨミヤで、9日がマツリだった。
10年前、いやそれ以上の20年前のころに集まりやすい第一土曜、日曜に移したと話す。
宵宮とも云うヨミヤの晩にはゴクマキを神社ですると話す。
奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば、清水谷の宮座は記されていない。
調査洩れであったかも知れない。
平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記載されている高取町の宮座は観覚寺・高皇産霊神社と下子島・小嶋神社だけであった。
観覚寺は左座・九人講・大講・宮講があり、下子島は古講・中講・新講のそれぞれである。
たまたまの出合いで知った清水谷の宮講(宮座)の在り方は古宮講を調べることにある。
清水谷・宮講の取材に向かう途中で街道を行くだんじり(太鼓台)に遭遇した。
水平にした御幣を撮った御輿の屋根の上。
広げた傘を2本さしていた。
奈良県内のだんじりにこのよう形態があること、始めて知った。
この日は朝8時に出発し10時には公民館に戻る。
11時に2回目の巡行。
15時半に戻って、1時間後には3回目の出発。
戻ってくるのは22時。
とてもじゃないかつきあえない。
明日の5日も同じように巡行する。
心配される台風の影響でどうなることやらと思っていたが、風雨はそれほどでもなかったようだ。
平成23年に新調された幕を張っていた講家はT家。
婦人の話によれば、前の幕はもっと長くて端から端まであったと云う。
中庭を通り抜け奥の間にとおしてもらったご主人は配置薬の仕事をしていたと云い、神農さんの祭りに参列していると話す。
奥の間に掛けていた掛軸はまさに菅原道真公のご神影であった。
祭壇を組んでお供えをする。
以前は立て御膳であったが、今は寝かせている。
御膳の御供はシイタケ、ミカン、ケンサキイカ、ダイコン、ニンジン、ゴボウにコンブの七種と決まっている。
前回或いはもっと昔に撮った1月の立て御膳の写真を拝見した。
土台は半切りのキャベツ。
ケンサキイカを立てて串に挿したミカン、コンブ、シイタケを前に。
イカの足が前に出ている。
後方は葉付きのニンジン、ゴボウ、ダイコンを立てている。
1月の土台はキャベツであるが、10月ではカボチャだったと話す。
水、塩、酒、洗い米や御膳を神前に供えた祭壇には三方に盛った一尾の生鯛や果物、モチ御供もある古宮講の営みは年に2回。
正月初めの営みは1月14日で、秋は10月8日だった。
正月初めの営みには講中は集まることなく、掛軸・祭壇を奉る當家だけで行われる。
秋は講中が揃ってご神影に向かって祝詞を奏上する。
かつては11軒あった古宮講は現在10軒。
昔から継いできた講家・當家は12月の暮れに次の當家の家へ掛軸および祭壇を運ぶ。
受け取った當家はご神影を一年中掲げておく。
菅原道真公のご神影は古くから奉られてきたが、何年か前に表装をしなおしたそうだ。
年代を示す記銘もなく判然としないが、講中の話しによれば江戸中期、若しくは初期に古宮講が始まったと伝えられている。
「大事にせなあかん」と先代から伝えられている掛軸である。
しばらくして講中が當家の奥の間に集まってきた。
お茶菓子をよばれてしばらくは歓談する。
そろそろ始めようかと云ってご神影の前に座る。
ローソクに火を灯して祓えの詞を奏上する。
そして、講中をサカキで祓う。
次に奏上する祝詞は神棚拝詞だ。
次に神社拝詞を述べて最後に祖霊拝詞を奏上する。
かつての直会の宮座料理の献立は決まっていた。
刺身、焼肴、酢物、天婦羅、煮付、茶碗蒸し、吸物、付出しに漬けものがあった。
料理を作ることはしなくなり料理屋に出かけるようになった。
祝詞を奏上し終えれば直ちに出かけるのである。
Tさんの話によれば、かつて氏神さんを祀る高生神社に参拝していたそうだ。
二人の講代表者は白衣姿でお参りしていたというのである。
白装束姿であったことから高生神社の宮講であったに違いない。
いつころまでそうされていたのか記憶にないぐらいの代々の口伝えである。
神社へ参ってから當家で直会をしていたというのだ。
いつのころか判らないが参ることをしなくなった。
それでご神影を掲げるようになったらしい。
今尚続けている現在の在り方は何故にそうなったのか。
Tさんの話によれば、複数の宮座が神社に参ったときのことである。
拝殿に並ぶ席順でもめたと云うのだ。
3、4代前の区長が話していた事件である。
「講のもんどおしがもめた。それから神社に参ることなくそれぞれの宮座は講家で掛軸を掲げて祭るようになった」と云うのである。
古宮講の講中が云うには、清水谷の氏神さんは今でこそ高生神社に合祀されたが、かつては西南の地にある高台の山に鎮座していた清水神社であったと云う。
御輿を担いで移設した時代は大正年間と伝わっている清水神社の祭神は菅原道真だと話す。
合祀された本社は高生神社。
小字タカバネの高地に鎮座する。
創建当時は高取城がある高取山であった。
享保十一年(1736)刊の『大和志』によれば、天正年間(1573~1592)に現在地に遷座したとあるようだ。
講中の記憶や伝承を総合しても判然としない歴年代であった。
(H26.10. 4 EOS40D撮影)