高取町下土佐・恵比寿神社境内社に神農社がある。
毎年の11月22日ころ、高取町や明日香村で薬を製造販売している製薬工業組合の人たちが参拝する行事がある。
行事は中国で薬草を舐めて薬草を発見していた神農さんを祭る薬祖神祭である。
農業の神さんともされる神農さんは薬になるもの、薬にならないものを口で舐め、歯で噛んで試された。
神農さんは古代中国に伝わる伝説上の薬祖神。
頭に二本の角がある。
薬の葉で作った衣服を纏い、薬草を舐めている立ち姿が特徴的。
中国古来という年代は4千年前どころか5千年前とかの説もあるが、明確な史実はなく伝説上の神さんである。
日本ではいつから始まったのか、わからないが、少なくとも古来ではなく、江戸時代からのような気がする。
京都二条通りの神農さん行事は江戸時代後期の「薬師講」の行事としてはじまった。
元治元年(1864)七月の蛤(はまぐり)御門の変によって二条の薬業街が焼失したときも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」と書かれた記録があることから、それ以前からも行事があったということだが。
東京日本橋にも同様の薬祖神を祭る行事はあるが、明治41年になってからだ。
有名なのは大阪市内の道修町。
薬の町として名高い道修町にある少彦名神社で行われている神農祭がある。
安永九年(1780)、道修町の薬種中買株仲間が、当時全盛だった漢方の守護神である神農さんと日本の薬祖神のスクナヒコ神を合わせ祭ったのが創始であると作家の戸部民夫氏著の『日本の神様と日本人のしきたり』に伝えている。
同著に書かれている少彦名命(スクナヒコノミコト)。
要約すれば「ミコトは海の彼方の常世の国ガガイモの殻の船に乗ってやってきた。薬師(くすし」が崇敬した守護神の意味合いがあるミコトは古くから医薬の神さん。酒造や温泉の神さんとして信仰もある。病気平癒と薬師信仰との共通性から神仏習合の際には薬師如来とされてきた」と、いうことである。
それがいつしか中国古来の薬祖神とされる神農さんと結びついたのである。
神農さんが薬祖神として広く信仰されるようになったきっかけは、江戸幕府御薬園(薬草園)に祀られたことによる。
それがいつのころか民間の薬草問屋などの広がることによって少彦名命と一緒に祀るようになったと、戸部民夫氏はいう。
ちなみに大阪道修町の発祥は戦国時代。
豊臣秀吉が大坂城の城下町を造ったころとされる。
平成29年7月8日に発行された産経新聞の特集「薬種商・田邊屋五兵衛伝―道修町への道⑥―」によれば道修町の最も古い記録は明暦四年(1658)の「似せ薬(偽薬)取り締まり」に関する文書に、当時33軒の薬種商の署名捺印があるらしく、田邊屋初代の五兵衛の創業は延宝六年(1678)で、そのころは既に道修町の原型ができていた、とある。
ただ、現在のような薬の町になるのは、享保七年(1722)、徳川八代将軍の吉宗の時代に、「薬中買株仲間」が公認された以降になるという。
そもそも薬草園の始まりは、天武天皇の時代に薬師寺に附属して作られたとも。
大宝元年(701)に制定された大宝律令に「薬部」と呼ばれた人たちが薬用植物の世話係りに任命されていることが書かれてあるそうだ。
その後の発展状況はわからないが、薬草園が最も発達したのが江戸時代。
薬草を受け入れた場所がある。
長崎の出島である。
ヨーロッパやアジア、アメリカ産などの世界各地の薬草木の流入は出島があってこそ成り立っていたのである。
出島のオランダ商館に派遣された医師や科学者によってもたらされた西洋の医薬学・植物学の流入が日本の本草学と薬園の発達に多大の影響をもたらしたことによってさらなる発展があった。
もちろんシーボルトの名も登場するこうした経緯は長崎大学薬学部の「長崎薬学史の研究」が詳しいので参照させていただく。
江戸幕府が開設した薬草園は寛永十五年(1638)の江戸麻布・大塚から始まって享保十四年(1729)の奈良大和までの8カ所。
また各藩による設置薬草園は元禄年間(1688~)の尾張から始まって弘化三年(1846)の島原までの11カ所だ。
その他にも私設の薬草園もある。
享和二年(1802)、肥州長崎図に描かれる西山御薬園。
その後の文化十一年(1827)に現在の西山町に移転される。
維新後に一旦は長崎県の所有になるものの入札売却されて幕を閉じたが、御薬守の瀬戸口邸庭内に「鎮守神農の像」が残された。
その後の大正時代、松森神社に遷されるも昭和49年以降は長崎県薬剤師会によって毎年の11月に薬祖神祭を行っている。
このような事例からも神農さんを祀って薬祖神祭が始まったのはそれほど古くはないのである。
前置きが長くなってしまったが、江戸時代の経緯を知ることによって地域の行事の在り方が見えてくるのでご容赦願いたい。
毎年の11月22日、23日は大阪市内の道修町・少彦名神社行事の神農祭。
そこで売られている張子の虎の「神虎」がある。
文政五年(1822)、流行ったコレラ病がキッカケになるそうだ。
コレラは当時「三日亡(みっかころり)」と云われたくらいに死にいたらしめる流行り病である。
それによって薬の町はどうしたのか。
「鬼を裂く」といわれる疾病除けに虎の頭骨など十数種類の和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきゅうおうえん)」という丸薬を作った。
それと同時に「張子の虎」を笹に括り付けて施与したそうだ。
虎はともかく大阪の製薬会社は玄関に自社製品を大笹に吊るして飾るようになった。
その時代はずっと後年になる昭和25年のことである。
大阪に出かけて買ってきた「神虎」も供える下土佐神農社の神農薬祖神祭。
町内に貼られていた案内では無病息災笹虎まつりの「神農祭」である。
よくよく読めばその左にある行事名は「神農薬祖神祭」。
高取薬業連合会が主催する行事である。
昨年の行事日は11月20日の平日の金曜日であった。
毎年替わる行事日はどのようになっているのか聞いたことがある。
行事日本来は11月22日であったが、祭日の23日に移行した。
ところが、町は高取城まつりを23日に行うことに決めた。
決めたことによって神農薬祖神祭の行事日が同一日になった。
これを避けるには他の日に移さざるを得なくなった。
神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。
ところがだ。
23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。
23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。
実にややこしい日程決めであるが、今年は23日が水曜日。
と、いうわけで神農薬祖神祭の日程は自動的に決まって22日。
そういうことであるから祝祭日、土・日曜日はすることがない。
何故にそういう決め方にしたのか。
理由はこの日に参拝される方々の仕事都合である。
先週の16日は御所市宮前町神農社の薬祖神祭だった。
その行事にも本日の下土佐行事にも参列される人たちがいる。
来賓招待に、主に医薬品の製造に関する事務分掌する奈良県庁職員(医療政策部業務課)らも参列される。
薬事に関する啓発として参列される分掌は公務。
で、あれば平日となる。
そういうことであるから御所市の神農社行事もたぶんに平日の行事日であろう。
前年も取材した下土佐の神農薬祖神祭であるが、今年も、という理由がある。
実は御所市の薬祖神祭と同様に直会の場に神農さんの掛図が掲げられることを知ったからである。
そのことを教えてくださったのは高取町丹生谷に住まいするNさんだ。
今年の行事日や神農図を掲げる場所などを連絡していただいたのは11月初めであった。
同日はNさんの知り合いである高取町の製薬会社においても午前11時半ころから神農さんの掛図を掲げて従業員がお祭りをするそうだが、下土佐神農社の神農薬祖神祭の時間帯と同時間帯。
民俗記録に欠かせない神農図の在り方で見逃せない。
来年は同社を訪れてみたいと思っている。
御所市の神農社の薬祖神祭もそうだが、それぞれの代表者に取材の承諾をとってもらっているのでありがたい。
ご本人も知っておきたいということであるが、知り得ることのない薬業関係者に直接アポイトメントをとってくださる今回の件は本当に感謝している。
到着したころは神饌御供の調整中だった。
本日、参拝される高取町・明日香村製薬工業組合の役員さんたちは玉垣に立てる笹竹立て作業もあるし、神社の幕張りも、である。
笹には昨年に見た通りに数々の薬の空箱を吊るしていた。
高取町の薬箱を笹に括って飾っているのは大阪道修町の在り方を模したのであろう。
この日は晴天。
青空に映えていた。
玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もあるが、昨年にあった張子の虎が見られない。
どこにあるのか辺りを見れば、割拝殿に掲げていた「昭和五年四月吉日 高取薬業會」寄進の幕の処に移っていた。
その幕の奥に見えるのが恵比寿神社。
神農社はその左手にある。
本社殿は10年間に亘って積み立てた資金拠出によって賄った改修工事。
資金の一部は現在消滅して活動していない戎講が残した積立金もあるし高取町内外の温かい支援もあって、恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築された。
玉垣なども替えてすっかり新しくなった神社に大勢の関係者がやってくる。
神事の場は恵比寿神社本社殿左に建つ神農社である。
昨年の行事に張っていた幕はみられない。
昨年も今年も斎主を務める宮司(高取町薩摩在住の武村宮司)は気がつかれた。
神農薬祖神祭の行事は恵比寿神社ではなく神農社に向かって行われる。
幕は恵比寿神社に飾るものあるから掛けるものではない。
そう伝えられて一旦は掛けていた幕を下ろした。
「薬」の文字がある薬業連合会の提灯は両脇に吊るす。
神饌御供は神事の前に揃えて並べておく。
鏡餅に鯛、スルメ、野菜、果物に御供餅もある。
右に置いたのは前述した道修町・少彦名神社に出かけて購入した張子の虎の「神虎」。
笹に括っていることからササドラ(笹虎)の名がある「神虎」もある。
そして、薬祖神祭の神事だけに壁際左側に高取町で生産されている数々のお薬も奉納される。
修祓、祓の儀、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに神事が行われる。
高取町薬業連合会が纏めた史料の平成13年11月22日(木)斎行の神農薬祖神祭の「思い出綴り」によれば、昭和43年の「薬祖大神の祭典」がはじまりのようだ。
その年は高取町商工会薬祭奉賛会が大阪道修町の例祭に倣って祭事を主催していたそうだ。
直来の会場は上土佐公民館であった。
翌年の昭和44年に現在の高取町薬業連合会が組織され、今に至っている。
そのときの記事に「2001年(平成13年)11月22日・・・健幸の町・・・たかとり。奈良県高市郡高取町下土佐えびす神社 くすりの町 高取町に継承される薬祖神祭が、今も変わらず開かれる」とある。
神農社ではなく斎行の場は下土佐えびす神社だったようだ。
さらに続く記事に薬祖神祭のかつての原型を詳しく書かれていたので全文を引用させていただく。
「今なお、継承されている“くすりの町・・高取町の薬祖神祭”の原型は、大正14年(1925)、薬業工業組合を結成して同時に三輪明神大神神社の一つである大物主命、辺都磐座(へついはくら)即ち、少彦名命の分身をお下げいただき、執り行われた“薬祖大神の祭典”とされる。伝え聞くところによると、祖神は、大正14年からさかのぼること明治40年(1907)、代表者数名が、若かりし頃、紋付き羽織袴で御分身を乞い奉りに行ったとも伝えられている。」
続けて「明治40年当時の高取町は、特に明治末期から大正にかけて薬業の全盛期でもあり、経済的には勿論のこと、自治政治面にもその覇を握っていた・・と伝えられ、毎年薬祖の神さま信仰崇拝の念を忘れず大祭を厳修され、今日までも代々継承されている。」
「その長きにわたり“薬祖神”が祀られている“えびす神社”・・・、祭神を恵比寿神社、御名 都味歯八事代主命(ツミハヤエコトシヌシノミコト) 初戎 正月十日とし、伊勢から下ってきたことから“クダリエビス”と称され愛されている。しかし、伝えられる資料に限りがある・・・。それは、土佐の大火で創建時の文書が焼失し、あくまでも推測であるが、現在のえびす神社は1705年(宝永二年)新築のものとされ、恵比須のご神体を請来され、神社の創建に努力されたものと思われる」と書いてあった。
前年取材に聞いた分霊を勧請し遷された神さんは三輪大神神社の磐座神社であった。
その話しは確かに合っている。
その神さんは前述した少彦名命、つまり辺都磐座(へついわくら)であった。
その磐座神社は薬の神さんの狭井神社に向かう参道「くすり道」途中にある。
神社略記によれば、480年、第22代清寧天皇の御代に辺都磐座に鎮座したと伝わる。
なお、磐座神社は社殿なく、イワクラ(岩座)をご神座としている。
神事を終えた一行は場を替えて直来会場に移る。
場は高取町役場横に建つ商工会館である。
そこへ行くには土佐街道を近鉄電車壺阪山駅に向かって西へ、であるが、その途中に、これはというモノがあった。
土佐街道の一角にある建物である。
風情がある建物角の屋根瓦に紋がある。
Nさんの話しによれば紋「一山」は高取藩主の家紋になるそうだ。
藩主といえば最後の殿さんこと植村家。
長屋門が有名であるが、所在地はここではないと思う。
ちなみに植村家の家紋は「一文字三剣」。
では、だれなのか。
「一山」が推定するには藩主の「桑山一玄」を想定する。
「桑山一玄」の中央にある二文字をとった「山一」をひっくり返した「一山」が家紋だと思うのだが、よくよく見れば横「一」に三本立てた剣の先だった。
「山」に見えたのは思い込みの誤読。
ここは藩主植村家の家臣屋敷家。
今は自転車屋さんの屋根にその遺構がある。
さて、商工会館である。
その会館角にそびえるような高さに立てた石柱がある。
これは高取町観光協会が建てた「天誅組鳥ケ峰古戦場」の場を示す支柱である。
すぐ下には「鳥ケ峰古戦場」の謂れが書いてあった。
説明文に「文久三年(1863)8月17日 天誅組は、倒幕の狼煙を上げるために五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防御追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました」とあった。
その説明文の上はカラー色の交戦絵図。
当時の高取城に対して対峙する高取勢の位置関係を描いている。
それを見届けて会館2階に上がる。
予め掛けられていた神農図は団体の高取町薬業連合会の了解を得て撮らせていただく。
薬草の葉を舐めるようにして試薬する姿。
角もお顔もどちらかといえば丸い。
絵師の名は「寶寿」であろうか。
ただ、謹寫の文字があることから「寶寿」絵師の描いた掛図より模写したものと推定する。
掛図を納める箱の他「高取薬業會乃旗」箱もある。
会の旗や幕、神農図は当番の第一製薬㈱が保管しているという。
こうした御所市や高取町の製薬会社等が参集されて神農さんを崇敬する薬祖神祭を拝見できたのも高取町に住むNさんのおかげである。
あらためて厚く御礼申し上げる。
そのNさんがさらに情報をもってきてくださった。
一つは大阪道修町にある田辺三菱製薬史料館に展示されている2点の展示物である。
一つは「延享戊辰仲春朔」の文字がある神農図。
延享戊辰は西暦1748年。
江戸時代中後期にあたる。
もう一つは神農座像。
左手で薬草を舐めているように見える。
神農図はもう一つある。
高取町にある近畿医薬品製造㈱である。
同社ではこの日に右向きの神農図を掲げて神饌御供も供えている。
鯛に鏡餅に果物を並べた処には同社製造の薬も供えている。
これら映像はNさんが撮って送ってくださった。
写真を見る限りではあるが、田辺三菱製薬史料館、近畿医薬品製造所有ともデザインが異なる。
図柄、描き方はまったく異なる。
絵師が違うからそうである。
これらを紹介してくださったN家は元配置薬家。
父親はきぬや薬舗専属の配置薬業であった。
同家に残っている神農図は波しぶきにあたる岸壁に座る神農図である。
三者三葉の図柄である。
神農さんを崇敬するようになったはじまりは江戸時代の薬草園の創建である。
前述したように神農像を造って祀った。
やがて、この在り方が医師や薬屋などに守り神として信仰が広まっていくのである。
神農さんは当初、石像や彫像であったが、いつしか頼まれ絵師の仕事となり、頒布、購入しやすい掛図に移っていったのではないだろうか。
絵師の創作力によって描かれた神農さんの姿は千差万別、多種多様。実に多彩な掛図を見るのである。
なお、大和の売薬については奈良県の薬業史・通史が詳しいが、神農さんを崇める神社行事や掛図については一切の記事がない。
薬草や製薬・販売歴史についてはずいぶんと調べておられるものの行事については感心がないのであろう。
(H28.11.22 SB932SH撮影)
(H28.11.22 EOS40D撮影)
毎年の11月22日ころ、高取町や明日香村で薬を製造販売している製薬工業組合の人たちが参拝する行事がある。
行事は中国で薬草を舐めて薬草を発見していた神農さんを祭る薬祖神祭である。
農業の神さんともされる神農さんは薬になるもの、薬にならないものを口で舐め、歯で噛んで試された。
神農さんは古代中国に伝わる伝説上の薬祖神。
頭に二本の角がある。
薬の葉で作った衣服を纏い、薬草を舐めている立ち姿が特徴的。
中国古来という年代は4千年前どころか5千年前とかの説もあるが、明確な史実はなく伝説上の神さんである。
日本ではいつから始まったのか、わからないが、少なくとも古来ではなく、江戸時代からのような気がする。
京都二条通りの神農さん行事は江戸時代後期の「薬師講」の行事としてはじまった。
元治元年(1864)七月の蛤(はまぐり)御門の変によって二条の薬業街が焼失したときも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」と書かれた記録があることから、それ以前からも行事があったということだが。
東京日本橋にも同様の薬祖神を祭る行事はあるが、明治41年になってからだ。
有名なのは大阪市内の道修町。
薬の町として名高い道修町にある少彦名神社で行われている神農祭がある。
安永九年(1780)、道修町の薬種中買株仲間が、当時全盛だった漢方の守護神である神農さんと日本の薬祖神のスクナヒコ神を合わせ祭ったのが創始であると作家の戸部民夫氏著の『日本の神様と日本人のしきたり』に伝えている。
同著に書かれている少彦名命(スクナヒコノミコト)。
要約すれば「ミコトは海の彼方の常世の国ガガイモの殻の船に乗ってやってきた。薬師(くすし」が崇敬した守護神の意味合いがあるミコトは古くから医薬の神さん。酒造や温泉の神さんとして信仰もある。病気平癒と薬師信仰との共通性から神仏習合の際には薬師如来とされてきた」と、いうことである。
それがいつしか中国古来の薬祖神とされる神農さんと結びついたのである。
神農さんが薬祖神として広く信仰されるようになったきっかけは、江戸幕府御薬園(薬草園)に祀られたことによる。
それがいつのころか民間の薬草問屋などの広がることによって少彦名命と一緒に祀るようになったと、戸部民夫氏はいう。
ちなみに大阪道修町の発祥は戦国時代。
豊臣秀吉が大坂城の城下町を造ったころとされる。
平成29年7月8日に発行された産経新聞の特集「薬種商・田邊屋五兵衛伝―道修町への道⑥―」によれば道修町の最も古い記録は明暦四年(1658)の「似せ薬(偽薬)取り締まり」に関する文書に、当時33軒の薬種商の署名捺印があるらしく、田邊屋初代の五兵衛の創業は延宝六年(1678)で、そのころは既に道修町の原型ができていた、とある。
ただ、現在のような薬の町になるのは、享保七年(1722)、徳川八代将軍の吉宗の時代に、「薬中買株仲間」が公認された以降になるという。
そもそも薬草園の始まりは、天武天皇の時代に薬師寺に附属して作られたとも。
大宝元年(701)に制定された大宝律令に「薬部」と呼ばれた人たちが薬用植物の世話係りに任命されていることが書かれてあるそうだ。
その後の発展状況はわからないが、薬草園が最も発達したのが江戸時代。
薬草を受け入れた場所がある。
長崎の出島である。
ヨーロッパやアジア、アメリカ産などの世界各地の薬草木の流入は出島があってこそ成り立っていたのである。
出島のオランダ商館に派遣された医師や科学者によってもたらされた西洋の医薬学・植物学の流入が日本の本草学と薬園の発達に多大の影響をもたらしたことによってさらなる発展があった。
もちろんシーボルトの名も登場するこうした経緯は長崎大学薬学部の「長崎薬学史の研究」が詳しいので参照させていただく。
江戸幕府が開設した薬草園は寛永十五年(1638)の江戸麻布・大塚から始まって享保十四年(1729)の奈良大和までの8カ所。
また各藩による設置薬草園は元禄年間(1688~)の尾張から始まって弘化三年(1846)の島原までの11カ所だ。
その他にも私設の薬草園もある。
享和二年(1802)、肥州長崎図に描かれる西山御薬園。
その後の文化十一年(1827)に現在の西山町に移転される。
維新後に一旦は長崎県の所有になるものの入札売却されて幕を閉じたが、御薬守の瀬戸口邸庭内に「鎮守神農の像」が残された。
その後の大正時代、松森神社に遷されるも昭和49年以降は長崎県薬剤師会によって毎年の11月に薬祖神祭を行っている。
このような事例からも神農さんを祀って薬祖神祭が始まったのはそれほど古くはないのである。
前置きが長くなってしまったが、江戸時代の経緯を知ることによって地域の行事の在り方が見えてくるのでご容赦願いたい。
毎年の11月22日、23日は大阪市内の道修町・少彦名神社行事の神農祭。
そこで売られている張子の虎の「神虎」がある。
文政五年(1822)、流行ったコレラ病がキッカケになるそうだ。
コレラは当時「三日亡(みっかころり)」と云われたくらいに死にいたらしめる流行り病である。
それによって薬の町はどうしたのか。
「鬼を裂く」といわれる疾病除けに虎の頭骨など十数種類の和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきゅうおうえん)」という丸薬を作った。
それと同時に「張子の虎」を笹に括り付けて施与したそうだ。
虎はともかく大阪の製薬会社は玄関に自社製品を大笹に吊るして飾るようになった。
その時代はずっと後年になる昭和25年のことである。
大阪に出かけて買ってきた「神虎」も供える下土佐神農社の神農薬祖神祭。
町内に貼られていた案内では無病息災笹虎まつりの「神農祭」である。
よくよく読めばその左にある行事名は「神農薬祖神祭」。
高取薬業連合会が主催する行事である。
昨年の行事日は11月20日の平日の金曜日であった。
毎年替わる行事日はどのようになっているのか聞いたことがある。
行事日本来は11月22日であったが、祭日の23日に移行した。
ところが、町は高取城まつりを23日に行うことに決めた。
決めたことによって神農薬祖神祭の行事日が同一日になった。
これを避けるには他の日に移さざるを得なくなった。
神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。
ところがだ。
23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。
23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。
実にややこしい日程決めであるが、今年は23日が水曜日。
と、いうわけで神農薬祖神祭の日程は自動的に決まって22日。
そういうことであるから祝祭日、土・日曜日はすることがない。
何故にそういう決め方にしたのか。
理由はこの日に参拝される方々の仕事都合である。
先週の16日は御所市宮前町神農社の薬祖神祭だった。
その行事にも本日の下土佐行事にも参列される人たちがいる。
来賓招待に、主に医薬品の製造に関する事務分掌する奈良県庁職員(医療政策部業務課)らも参列される。
薬事に関する啓発として参列される分掌は公務。
で、あれば平日となる。
そういうことであるから御所市の神農社行事もたぶんに平日の行事日であろう。
前年も取材した下土佐の神農薬祖神祭であるが、今年も、という理由がある。
実は御所市の薬祖神祭と同様に直会の場に神農さんの掛図が掲げられることを知ったからである。
そのことを教えてくださったのは高取町丹生谷に住まいするNさんだ。
今年の行事日や神農図を掲げる場所などを連絡していただいたのは11月初めであった。
同日はNさんの知り合いである高取町の製薬会社においても午前11時半ころから神農さんの掛図を掲げて従業員がお祭りをするそうだが、下土佐神農社の神農薬祖神祭の時間帯と同時間帯。
民俗記録に欠かせない神農図の在り方で見逃せない。
来年は同社を訪れてみたいと思っている。
御所市の神農社の薬祖神祭もそうだが、それぞれの代表者に取材の承諾をとってもらっているのでありがたい。
ご本人も知っておきたいということであるが、知り得ることのない薬業関係者に直接アポイトメントをとってくださる今回の件は本当に感謝している。
到着したころは神饌御供の調整中だった。
本日、参拝される高取町・明日香村製薬工業組合の役員さんたちは玉垣に立てる笹竹立て作業もあるし、神社の幕張りも、である。
笹には昨年に見た通りに数々の薬の空箱を吊るしていた。
高取町の薬箱を笹に括って飾っているのは大阪道修町の在り方を模したのであろう。
この日は晴天。
青空に映えていた。
玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もあるが、昨年にあった張子の虎が見られない。
どこにあるのか辺りを見れば、割拝殿に掲げていた「昭和五年四月吉日 高取薬業會」寄進の幕の処に移っていた。
その幕の奥に見えるのが恵比寿神社。
神農社はその左手にある。
本社殿は10年間に亘って積み立てた資金拠出によって賄った改修工事。
資金の一部は現在消滅して活動していない戎講が残した積立金もあるし高取町内外の温かい支援もあって、恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築された。
玉垣なども替えてすっかり新しくなった神社に大勢の関係者がやってくる。
神事の場は恵比寿神社本社殿左に建つ神農社である。
昨年の行事に張っていた幕はみられない。
昨年も今年も斎主を務める宮司(高取町薩摩在住の武村宮司)は気がつかれた。
神農薬祖神祭の行事は恵比寿神社ではなく神農社に向かって行われる。
幕は恵比寿神社に飾るものあるから掛けるものではない。
そう伝えられて一旦は掛けていた幕を下ろした。
「薬」の文字がある薬業連合会の提灯は両脇に吊るす。
神饌御供は神事の前に揃えて並べておく。
鏡餅に鯛、スルメ、野菜、果物に御供餅もある。
右に置いたのは前述した道修町・少彦名神社に出かけて購入した張子の虎の「神虎」。
笹に括っていることからササドラ(笹虎)の名がある「神虎」もある。
そして、薬祖神祭の神事だけに壁際左側に高取町で生産されている数々のお薬も奉納される。
修祓、祓の儀、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに神事が行われる。
高取町薬業連合会が纏めた史料の平成13年11月22日(木)斎行の神農薬祖神祭の「思い出綴り」によれば、昭和43年の「薬祖大神の祭典」がはじまりのようだ。
その年は高取町商工会薬祭奉賛会が大阪道修町の例祭に倣って祭事を主催していたそうだ。
直来の会場は上土佐公民館であった。
翌年の昭和44年に現在の高取町薬業連合会が組織され、今に至っている。
そのときの記事に「2001年(平成13年)11月22日・・・健幸の町・・・たかとり。奈良県高市郡高取町下土佐えびす神社 くすりの町 高取町に継承される薬祖神祭が、今も変わらず開かれる」とある。
神農社ではなく斎行の場は下土佐えびす神社だったようだ。
さらに続く記事に薬祖神祭のかつての原型を詳しく書かれていたので全文を引用させていただく。
「今なお、継承されている“くすりの町・・高取町の薬祖神祭”の原型は、大正14年(1925)、薬業工業組合を結成して同時に三輪明神大神神社の一つである大物主命、辺都磐座(へついはくら)即ち、少彦名命の分身をお下げいただき、執り行われた“薬祖大神の祭典”とされる。伝え聞くところによると、祖神は、大正14年からさかのぼること明治40年(1907)、代表者数名が、若かりし頃、紋付き羽織袴で御分身を乞い奉りに行ったとも伝えられている。」
続けて「明治40年当時の高取町は、特に明治末期から大正にかけて薬業の全盛期でもあり、経済的には勿論のこと、自治政治面にもその覇を握っていた・・と伝えられ、毎年薬祖の神さま信仰崇拝の念を忘れず大祭を厳修され、今日までも代々継承されている。」
「その長きにわたり“薬祖神”が祀られている“えびす神社”・・・、祭神を恵比寿神社、御名 都味歯八事代主命(ツミハヤエコトシヌシノミコト) 初戎 正月十日とし、伊勢から下ってきたことから“クダリエビス”と称され愛されている。しかし、伝えられる資料に限りがある・・・。それは、土佐の大火で創建時の文書が焼失し、あくまでも推測であるが、現在のえびす神社は1705年(宝永二年)新築のものとされ、恵比須のご神体を請来され、神社の創建に努力されたものと思われる」と書いてあった。
前年取材に聞いた分霊を勧請し遷された神さんは三輪大神神社の磐座神社であった。
その話しは確かに合っている。
その神さんは前述した少彦名命、つまり辺都磐座(へついわくら)であった。
その磐座神社は薬の神さんの狭井神社に向かう参道「くすり道」途中にある。
神社略記によれば、480年、第22代清寧天皇の御代に辺都磐座に鎮座したと伝わる。
なお、磐座神社は社殿なく、イワクラ(岩座)をご神座としている。
神事を終えた一行は場を替えて直来会場に移る。
場は高取町役場横に建つ商工会館である。
そこへ行くには土佐街道を近鉄電車壺阪山駅に向かって西へ、であるが、その途中に、これはというモノがあった。
土佐街道の一角にある建物である。
風情がある建物角の屋根瓦に紋がある。
Nさんの話しによれば紋「一山」は高取藩主の家紋になるそうだ。
藩主といえば最後の殿さんこと植村家。
長屋門が有名であるが、所在地はここではないと思う。
ちなみに植村家の家紋は「一文字三剣」。
では、だれなのか。
「一山」が推定するには藩主の「桑山一玄」を想定する。
「桑山一玄」の中央にある二文字をとった「山一」をひっくり返した「一山」が家紋だと思うのだが、よくよく見れば横「一」に三本立てた剣の先だった。
「山」に見えたのは思い込みの誤読。
ここは藩主植村家の家臣屋敷家。
今は自転車屋さんの屋根にその遺構がある。
さて、商工会館である。
その会館角にそびえるような高さに立てた石柱がある。
これは高取町観光協会が建てた「天誅組鳥ケ峰古戦場」の場を示す支柱である。
すぐ下には「鳥ケ峰古戦場」の謂れが書いてあった。
説明文に「文久三年(1863)8月17日 天誅組は、倒幕の狼煙を上げるために五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防御追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました」とあった。
その説明文の上はカラー色の交戦絵図。
当時の高取城に対して対峙する高取勢の位置関係を描いている。
それを見届けて会館2階に上がる。
予め掛けられていた神農図は団体の高取町薬業連合会の了解を得て撮らせていただく。
薬草の葉を舐めるようにして試薬する姿。
角もお顔もどちらかといえば丸い。
絵師の名は「寶寿」であろうか。
ただ、謹寫の文字があることから「寶寿」絵師の描いた掛図より模写したものと推定する。
掛図を納める箱の他「高取薬業會乃旗」箱もある。
会の旗や幕、神農図は当番の第一製薬㈱が保管しているという。
こうした御所市や高取町の製薬会社等が参集されて神農さんを崇敬する薬祖神祭を拝見できたのも高取町に住むNさんのおかげである。
あらためて厚く御礼申し上げる。
そのNさんがさらに情報をもってきてくださった。
一つは大阪道修町にある田辺三菱製薬史料館に展示されている2点の展示物である。
一つは「延享戊辰仲春朔」の文字がある神農図。
延享戊辰は西暦1748年。
江戸時代中後期にあたる。
もう一つは神農座像。
左手で薬草を舐めているように見える。
神農図はもう一つある。
高取町にある近畿医薬品製造㈱である。
同社ではこの日に右向きの神農図を掲げて神饌御供も供えている。
鯛に鏡餅に果物を並べた処には同社製造の薬も供えている。
これら映像はNさんが撮って送ってくださった。
写真を見る限りではあるが、田辺三菱製薬史料館、近畿医薬品製造所有ともデザインが異なる。
図柄、描き方はまったく異なる。
絵師が違うからそうである。
これらを紹介してくださったN家は元配置薬家。
父親はきぬや薬舗専属の配置薬業であった。
同家に残っている神農図は波しぶきにあたる岸壁に座る神農図である。
三者三葉の図柄である。
神農さんを崇敬するようになったはじまりは江戸時代の薬草園の創建である。
前述したように神農像を造って祀った。
やがて、この在り方が医師や薬屋などに守り神として信仰が広まっていくのである。
神農さんは当初、石像や彫像であったが、いつしか頼まれ絵師の仕事となり、頒布、購入しやすい掛図に移っていったのではないだろうか。
絵師の創作力によって描かれた神農さんの姿は千差万別、多種多様。実に多彩な掛図を見るのである。
なお、大和の売薬については奈良県の薬業史・通史が詳しいが、神農さんを崇める神社行事や掛図については一切の記事がない。
薬草や製薬・販売歴史についてはずいぶんと調べておられるものの行事については感心がないのであろう。
(H28.11.22 SB932SH撮影)
(H28.11.22 EOS40D撮影)