マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

上之町金光寺大般若経

2014年06月20日 08時13分52秒 | 五條市へ
上之町は五條市。

五條博物館より少し南側にある旧村である。

昨年1月にセンギョの下見に立ち寄った地に建つ金光寺(きんこうじ)。

お寺傍にある家にご主人がおられた。

その人は金光寺の檀家総代。

正月初めに大般若経が行われるその直前に集まった村の評議員が版木でお札を刷ると話していた。

その様相を拝見したくこの日に訪問した上之町。

到着したときには版木刷りが始まっていた。

墨汁を版木に塗って、一枚、一枚刷っていく。

版木の文字は「□□□大般若経諸願成就祈祷」。

□□□は判読し難いが「懺悔」のようにも見えるし、「奉転讀」にも・・。

次に大般若経とあるだけに、おそらく「奉転讀」であろう。

刷る枚数は村の戸数の33枚。

大般若経の営みを終えれば、役員たちが村に配る。

版木刷りの祈祷札はもう一枚余分に刷っておく、祈祷法要をされる大澤寺(だいたくじ)の分である。

昔はごーさんのお札も刷っていたが、行事がなくなったことから出番はない。

版木はここに納めていると云いながら箱から取り出してくれた版木は「牛玉 金光寺 宝印」の文字がある。



この版木で刷ったお札は朱印も押していた。

炎のような形をした宝印中央には一文字の梵字もある。

下部は蓮の図をあしらっている。

T字型に割いたウルシの木に挟んで本尊前に立てた。

その様子から営みは初祈祷のオコナイであろう。

春ともなれば苗代に立てるというので間違いない。

苗代に「カヤンボ」と呼ぶカヤススキを立てた。

ごーさんと呼ぶ「牛玉宝印」のお札もオマツリして立てていたという。

今ではお札を刷ることもなく、配ることもない。

それゆえ苗代に立てる水口祭りを見ることはないだろう。

オコナイの行事はしなくなった貴重な版木。

「あんたに一枚あげよう」と特別に刷ってくれた。



いただいたお札は宝印まで押してくださった。

ありがたいことである。

この版木を納めていた箱には墨書文字があったが、判読はできなかった。

版木はもう一枚ある。

「金光寺什物」と墨書した箱に納めていたのは「奉修薬師如来護摩供如意満是所」の文字がある版木だ。

その文字から推定するにかつては護摩供も行われていたようだ。

これら3枚のお札は村の戸数を刷っていたと話す役員たち。

大澤寺住職が来られるまでの待ち時間に話してくださったかつてあった数々の上之町の行事。

5月8日はウヅキヨウカだった。

ウヅキヨウカを充てる漢字は卯月八日のことである。

40年も前のことだと話したその様相。

長い竹竿を高く揚げた。

上部は横に一本。

十字のような感じであった。

そこにはヨモギ、ショウブ、ウツギ、ツツジなどの花を括りつけていた。

40年前は子供だったMさんが話すに、そのころはなかったというからそれ以前であろう。

5月8日にウヅキヨウカをしていた時代は5月5日の子供の日に移っていたそうだ。

正月明けに伐り初めをしていたという上之町。

伐るのはカシの木とクリの木。

シバも刈ってきた。

オーコを一本通して両端にシバを括る。

それで一荷(いっか)分。

子供の頃の家の手伝いである。

正月のモチを搗く前のことだ。

雑煮におますときに、一番始めに切ったモチをキリゾメ(伐り初め)と呼んでいた。

年始めの1月7日だったというから山の神の日。

「オオヤマヅミが見にくる7日は山の仕事はしてはあかん」と云われていた。

「オオヤマヅミ」と云っていたのは「大山祇(おおやまつみ)」の神、「大いなる山の神」の意である。

上之町の山の神は八坂神社を登った処にあるそうだ。

手水舎の鉢には「牛頭天王」の刻印があるそうだ。

小字天王山に鎮座する八坂神社は江戸時代まで牛頭天王社であったろう。

4月3日には「ジンムサン」の日で弁当を持っていって花見をしていたというから、「神武レンゾ」のことである。

上之町には5軒の公事家で営まれる八日講がある。

大般若経のお札を刷る役員の一人は公事家(くじや)。

小字水沢(みなも)などの特定家も加えれば上之町の公事家は9軒。

毎年交替する廻り当番のトーヤ家のニワで弓打ちをしているという。

弓は梅ずわい。

矢はしのべ竹と呼ぶ若い竹。

例年なら12本を恵方に向けて矢を放つが、旧暦閏年の場合は13本になる。

昨今では旧暦閏年では判り難いということで新暦になったそうだ。

新暦といえば4年に一度のオリンピックの年である。

ちなみに八日講を話してくださった男性はこの年が当番だったという。

こうした上之町の行事を聞いていた時間帯。

大澤寺のご住職がやって来られたら、ご本尊にお供えをする。



仏飯(ぶっぱん)、各2枚のコーヤドーフとアゲの椀の膳にはブロッコリーやシメジも盛った。

お供えは膳だけでなくミカンやリンゴ、バナナ盛りもある。

村の戸数を搗いたモチもある。

さきほど刷った「奉転讀大般若経諸願成就祈祷」のお札も並べて始まった金光寺の大般若経。



はじめに表白を唱えて、大般若経を転読する。

第一巻目は住職が転読の作法をされる。

次に続くは参集した評議員、区長、檀家総代がされる大般若経の転読作法。

パラパラと経典を広げながら「第何巻 だーいはんにゃきょー」と詠みあげる。



「わしらはにわか僧侶、上手くはできないが・・・」と、云いながら転読をされる。

これまで数々の転読法要を拝見してきたが、村人がされるのは初見だ。

一人が百巻の転読は笑顔もなく作法されていく。



村人は「虫干しや」と云って、「バンバンすれば虫を干したことになる」と云う。

できるだけ大きな声で「だーいはんにゃきょー」と出して転読してくださいと始めに住職から伝えられたとおりに作法をする。

第六百巻を〆に住職が転読されて、最後は全員揃って手を合わせながら般若心経を唱えた。



この日唱えた心経は般若心経を要約したという節もあるようだと住職が話す。

十六善、薬師さんの名も詠みあげたご祈祷はおよそ1時間で終えた。

「大般若理趣分経 初末品」は上之金光寺の什物。

一巻と六百巻目の「大般若沙羅密多経」の経典はその箱に納められる。

祈祷を終えれば作業がある。



供えたモチは祈祷したお札で包みこむように巻き付ける。

汚れないようにと気配りしてビニール袋に入れる御供モチ。

雨にも耐えられるようにそうしたというモチは中垣内、上出、西と下に分かれる下ノ垣内からなる村の各戸に評議員が配る。

(H26. 1.11 EOS40D撮影)

スーパーセンターオークワ御所店・臨時店の広島焼

2014年06月19日 08時53分52秒 | あれこれテイクアウト
スーパーセンターオークワ御所店のドア付近にテント張りの店があった。

売っていたのは焼き立ての広島焼き。

いつもは見ないので臨時に立てたのであろう。

オークワ店内に入って「粉もん処わっぱ蛸」の焼きそば・・と思っていたが、広島焼きは売っていない。

無性に食べたくなって戻って買った。

パックに詰められた広島焼き。



蓋を開ければほのかに香るソースがあがってきた。

見た目はとにかく多い。

薄いお好み焼きの中を箸で割ってみる。

中からでてくるのはキャベツ、キャベツでごった返している。

とにかく多いのである。

焼きそばはどこにあるのだろうかと思える量である。

ソースは甘目だがまんべんなくではない。

ソースがかかっていない部分もある。

偏っているのだ。

焼きそば麺はおそらく半玉。

少量である。

キャベツ以外に何があるんやと云えば、薄い膜ともいえるタマゴ焼きのような感じのお好み焼き。

なんとか豚肉が入っていた。

これで300円。

大和郡山市にある「よってって大和小泉」店でも売っている広島焼きも同じ値段。

味、量とも断然、「よってって」が勝っている。

(H26. 1.11 SB932SH撮影)

五井町の蛇巻き

2014年06月18日 07時21分30秒 | 橿原市へ
度々訪れていたが、橿原市の五井町で正月初めに行われる蛇巻きの在り方を拝見するには始めてだ。

これまで、見たのは蛇巻きを終えた後日ばかりである。

昨年に訪れたときも終わったあとだった。

蛇巻きの日程決めは水利組合。

それが決まれば春日神社の会所などに張り紙で知らされる。

数日前の正月三日に訪れたときは宮守さんとトーヤさんが元旦祭の片付けをしている最中であった。

その際に聞いた春日神社境内にあるお薬師さんの仏像盗難事件。

盗られてしまったことから、仕方なくお薬師さんは新しくしたと話していた。

今年の蛇巻きは11日の朝8時。

成人の日の前々日だ。

境内にとんど場を設けて火を点けた。

各家で正月を飾った注連縄などを燃やす。

氏子たち20人ばかりが作業を始めてだした。

五井町の水利組合は11戸。

旧村全戸で90戸にもなるが、新町も増えて150戸数にもなると云う。

旧村農家一軒、一軒が寄せたモチワラは30束にもなる。

境内にある樹木の幹とか、座石にバンバン打ちつけるワラ打ち作業。

ワラのシビが飛び散って辺り一面は藁埃だらけになった。

正月飾りもとんどで燃やしているから燃えカスがいっぱい。

風に舞ってこれもまた辺り一面に黒い燃えカスが飛んでくる。

それを避けながら、立ち位置は風が舞う度に移動する。

長老らが藁縄を三本拠って編みだした。

太い藁束に括りつけてできあがったのは蛇頭だ。

両端にある丸めた形が「耳」で、まん中にある一本は蛇の「舌」だと云う。

梯子に掛けて三人がかりで太くしていく。



何度か蛇綱作りは交替する。

力仕事だけに体力が要る。

かつては藁だけで胴体を拠っていた。

今では心棒になる部分に市販のロープを入れて作る。



およそ40分かけて作った蛇の胴は長さが23メートルにもなった。

「いつもそれぐらいや」と云う。



かつては作った胴をU字型に持ちあげて子供らを巻いたそうだ。

その行為を蛇巻きと呼んだのかどうか・・判らない。

蛇ができあがれば直ちに高取川の川堤に運んでいく。



長い蛇はくねくねと動く蛇そのものに見えた。

五井橋付近にある二代目のヨノミの木に登って蛇を巻きつける。



「50年ほど前はもっと太いヨノミで、しかもジャはオス、メスともあった」と云う。

子供に巻き付けていたのも同時代。

この日の蛇巻きには子供の姿が見られなかった。



蛇頭の向きはアキの方角。

今年は東北東。

「あっちや」と下から指示があってその方角に蛇頭を向ける。

幣を数カ所取り付けて、幹周りもぐるぐる巻きにする。

この姿が蛇巻きなのであろう。



サカキを立ててお神酒を蛇にふり掛けて終わった。



手を合わせて拝む。

昭和59年から2カ年かけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書によれば「五井のノガミ」はツナクミまたは土橋のノガミサンと呼ばれていたが、蛇を共通項にしているからなのか、どことなくカンジョウナワカケが変化したように思えた五井町の蛇巻きであった。

(H26. 1.11 EOS40D撮影)

塩町エビスの白玉ぜんざい

2014年06月17日 08時37分08秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の塩町えびす

残りえびすはありませんと知ってかーさんとともに大慌てで出かけた。

十日戎で賑わっている恵美須神社に参拝してからいただいた白玉ぜんざい。

これが目当てでもあるのだが・・・。

代表の藤田さんとは久しぶりに顔を合わす。

県立民俗博物館で開催された企画展でたいへんお世話になった。

第二十二代卑弥呼さんを引率していた観光協会のFさんもお会いした。

かつての勤務先へも「また来てね」と云われた。

綿元さんの工房もお伺いしたかったのだが・・・戸が閉まっていた。

(H26. 1.10 SB932SH撮影)

荒蒔勝手神社神縄祭

2014年06月16日 07時19分50秒 | 天理市へ
年末にドウガイの呼び名がある注連縄掛けをしていた天理市荒蒔町の勝手神社。

その際に聞いていたカンジョウナワカケを拝見したく訪問した。

鳥居、拝殿などに掲げていたドウガイは既に外していた。

成人の日の前日朝に行われるとんどで燃やされる。

この日の行事は注連縄でなくカンジョウナワ掛けだ。

一本のアラナワは當家さんが予め結っていた。

それを神社に持ってきた當家さん。

そのころには村神主・五人衆に氏子たちも参集する。

宮座一同が揃ったところで始まったカンジョウナワ作り。

左端から七・五・三・・七・五・三を垂らすように括りつける。

中央が竹の幣で、両端は紙垂れもある。

それぞれの間には境内に生えていたツル性植物のツタを取り付ける。

ツタの種類はなんでもいいと云うが、品種は判らない。

作り終えれば玉垣にある木に括りつける。

梯子を架けて上にあがる。



カンジョウナワを渡されて木に巻きつける。

もう一方も同じようにしたカンジョウナワを掛けた。

それが終われば神饌御供作りに移る。



村神主はご飯をラップに包んで三角形のような形にする。

やや崩れたが、かつてはムシゴハンだったと云う御供だ。

ムシゴハンは冷めれば堅くなる。

御供は下げてもらって家で食べるが食べ難い。

そういうこともあってムシゴハンは柔らかさがある食べやすいご飯にしたと云う。

ご飯であれば型造りが難しい。



御供はムシゴハン以外に、皮を剥いた2個のサトイモとクロメ(若しくはヒジキ)にダイズもある。

神社行事のほとんどの場合に供える御供である。

もう一つの御供は笹の葉の盛り。



それには白いものを振り掛けている。

モチゴメを大量の水で溶いて水分を含ませた。

スリコギですり潰して柔らかくしたモチゴメ御供の名は判らないと云うが、間違いなく「シトギ」である。

県内事例では数少ないシトギの御供。

なかでも天理市杣之内町木堂で行われる彼岸講のトヤ渡しにおける儀式に用いられる五枚笹に載せたシトギと同じ様相のようにも思えた。



これらが揃って神縄祭が始まった。

座中は神饌所向かいの側の参籠所に座る。

村神主は神さんに向かって低頭する。

神饌御供類は一旦、神饌所に置かれて村神主がお祓いをする。

それから献饌。



ムシゴハンは本殿に2膳。

右側の石上社に1膳。

左側の葛神社に1膳。

薬師堂、聚楽さんにそれぞれ1膳を供える。

本殿に供えるムシゴハンの膳だけはヤナギの木で作った箸を添えている。



座中もお祓いしてしばらくしてから御供を撤饌されて神事を終える。

参籠所の直会に移って村の語らいになった。

(H26. 1.10 EOS40D撮影)

久安寺薬師さんのオコナイ

2014年06月15日 08時30分38秒 | 平群町へ
平群町の久安寺は素盞嗚神社の行事を取材したことがあるが、薬師堂で行われるオコナイは始めてだった。

会所で版木刷り作業をされるのは11人のオヤとコ。

オヤは久安寺にある北、久保、南の3垣内それぞれの代表者。

任期は3年間だそうだ。

コも同じく各垣内から選ばれた人たちで2年任期。

ミナライに籠り役と云うイノコリも勤める。

この日は朝から雨が降り続ける日だった。

朝から薬師堂を清掃されて奇麗にしていたと云う。

昔から使っていると云う版木は二枚ある。



一つは「御祈祷寶簡」の文字で、もう一枚は梵字がたくさんあるが、判読不能だ。

その梵字下にあった文字は「火災消除守護」だった。

それぞれ5枚ずつ墨汁を刷毛で塗って半紙に刷っていく。

昔は牛の姿の絵の版木もあったようだと話す。

その版木は20年ほど前に盗難にあった。

村行事に移ったときにはまだあったと云う。

「御祈祷札」は先を割った竹に挟んで苗代に、「火災消除守護札」は三宝さん或いは愛宕さんなど家の火遣いの場に祭ると云う。

平群町は小菊の一大産地。

稲作農家もなく、苗代をしている家はまず無いだろうと話す。

牛の絵札はどこに貼っていたのか、尋ねた結果は牛小屋である。

絵札は小屋の入口の柱に貼っていたと話す。

絵札話しの内容から、昨年9月に聞いた大淀町馬佐の牛滝まつりのかつての様相と同じだと思った。

二枚のお札を薬師堂で祈祷されるのは久安寺の専念寺住職。

融通念仏宗派のお寺である。

薬師堂が建っている場はかつての長生院。



お堂には宝暦四年(1754)に長生院を再建されたと記す棟札が残されていた。

「宝暦甲戌年 和州平群郡久安寺邨 長生院住持□□本住  奉再建房舎一宇天下泰平國家豊樂院内安穏人法紹隆 大工同國同郡法隆寺村辰巳三郎兵衛某」とある。

裏面は「去寶暦三癸酉歳六月三日大雨山崩房舎大破壊□ 今年粗得邨民竹木之助再建之者也 本住記」とある。

棟札が記す宝暦三年の山崩れによって大破した長生院は翌年の四年に法隆寺村に住む大工が建てたとあるのだ。

素盞嗚神社で行われた御湯の湯釜には「牛頭天王宮元文三戌年(1738)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」の刻印があった。

湯釜を寄進された十数年後に山崩れに見舞われたということだ。

しかもだ。



薬師堂に残されていたかつての大型鰐口にあった刻印は慶長七年(1602)である。

400年前にはすでに長生院が存在していたのである。



村の歴史は遺物にあった年号で判明した貴重な什物である。

かつては真言宗であった長生院。

専念寺住職が話すに、「真言宗である信貴山朝護孫子寺の僧侶がオコナイをしていたのであろう」と云う。

この日は薬師さんのオコナイ。

雨が降るなかのお勤めになった。

薬師さんの仏画掛軸三幅掲げて御供を供える。

仏画はいずれも同じようである。

版木で刷ったお札はそれぞれ50枚ずつ。

祭壇に奉って祈祷する。



お念仏は融通念仏勤行。

般若心経、菩提回向、三界万霊などを唱えて終えた。

ときおり磬を打つ音も聞こえてくる。

その磬は貞享四年(1687)の作であるらしい。

雨が降るなかのオコナイは堂内に住職がお一人。



村人が座る位置もなく、境内で傘をささざるを得ない。

祈祷された御祈祷寶簡札を苗代に立てる際にはウルシの木に挟んでいたという長老の話しから伺える薬師さんのお勤めはオコナイに違わない。

この日にカンジョウナワを編んで掛けていたのは昔のこと。

今では年末に「やいのやいの」と云いながら五人がしていたそうだ。

この年のカンジョウナワは前年の12月14日だった。

昔からここであったというナワカケの場は素盞嗚神社の鳥居前。

樹木に掛けて伸ばしている。



かつては集落下を流れる川に掛けていたと思われるカンジョウナワには大きい房が三つある。

カンジョウナワを注連縄だと云う人もおられた。

(H26. 1. 8 EOS40D撮影)

トライアルの彩りちらし寿司

2014年06月14日 08時59分30秒 | あれこれテイクアウト
仕事を終えて平群町に向かいたいが、昼飯はどこで。

通り道にあるトライアルスーパーで求めた弁当は198円の彩りちらし寿司。

時間がないのでがっつくちらし寿司。

酢飯はあまり利いていないのが第一印象、ではなく一口目の印象。

どちらかといえば、味は田舎寿司のように思えた。

それは山菜の味が強いからであろう。

酢飯を感じないのはそのせいだと思う。

錦糸卵がたくさん盛ってあるちらし寿司。

山菜以外の部分では味が良いのだ。

多くは錦糸卵だが、エビ、シイタケ、デンブものっている。

これらはちらし寿司味の決め手ではなかった。

酢飯の彩りは細かく刻んだニンジン、ゴボウだ。食感よろしいちらし寿司の味。

ときおりタケノコも口にあたる。

美味しさを引き立てていた錦糸卵はやや太め。

タマゴの味が美味しい。

山菜を除けば、198円の彩りちらし寿司は上出来なのでは、と思った。

(H26. 1. 8 SB932SH撮影)

平群町信貴畑の勧請の地

2014年06月13日 07時21分26秒 | 平群町へ
福貴畑に立ち寄る際に通る街道。

昨年の1月4日に取材した平群町信貴畑の勧請縄を拝見した。

正月初めに行われる信貴畑の勧請縄は2カ所ある。

そのうちの一つが勧請の地に掛けた勧請縄である。

今年も4日にされたようだと福貴畑の総代が話していた。

(H26. 1. 7 EOS40D撮影)

福貴畑の正月座

2014年06月12日 10時06分55秒 | 平群町へ
度々行事取材に訪問してきた平群町の福貴畑。

正月初めに行われると聞いていた正月ノ座がある。

かつて特定家で行われていた(宮)座があった福貴畑。

「膳」の名で呼ばれていた座中家で作った料理を持ってきていた。

昭和の何時か判らない、随分と前のことだと云う。

80戸の集落全員が福貴畑氏子であることから、戦前に解散した「講」家の行事を村行事として継承してきた福貴畑の座行事である。

正月ノ座と秋のマツリの座の二座行事が継承されている。

「座」の営みは、「膳」の在り方が料理屋の仕出しに移ったぐらいでほとんど変わりなく行われている。

この杵築神社の本殿に供えたのは□型に△型を二段に盛ったムシゴハンである。

高杯に載せたムシゴハンの周りにはサトイモ数個を載せた小皿も見られる。

お神酒も供えたのは正月ノ座を摂待する5軒当家だ。

観音堂の神さんや仏さんにも供えた御供の形が気にかかる。



昼ごろに参集された村氏子は白い幕を張った座小屋に上がった。

一人、一人の座には「オデン」と呼ばれる御膳が置かれた。

「オデン」は「ゴゼン」。

充てる漢字が「御膳」。

「御膳」が訛って「オデン」と呼ぶ。

そう呼ぶ地域は当地だけでなく県内事例に多く見られる呼び名である。

「講」家でされていたときはそれぞれの家が作っていた膳であったが、今ではパック詰め料理の「オデン」。

多くの地域でそうしている仕出し料理のパック膳である。

5軒当家のうち3人は下座に座って代表が口上述べる。

「オツユがとおりましたのでいただいてください」で始まった正月ノ座。



摂待役の二人が上座に座る総代や区長に。

椀に注ぐのは豆腐汁。

銅製の湯とうに入っているのが豆腐汁である。



味噌仕立ての豆腐汁は砂糖を1kgも入れたと云う摂待役を勤める当家の婦人たち。

豆腐汁を椀に注ぐのは上座から年齢順に座った順である。

「あんたも食べてみ」と云われてよばれた豆腐汁の味は甘酒のようなあまーい味噌汁である。

初めて体験する食感であるが、驚くほどの美味さであった。

座中は何杯もおかわりもされるので、接待役はあっちこっちへ忙しく注ぎ回る。

タカの爪も配られてしばらくした時間。

2回目の口上が始まった。

「お神酒を飲んでください」と口上を述べて、神さんに供えた冷酒を注ぐ。

乾杯などの儀式は見られなかった正月ノ座である。



お神酒や豆腐汁、オデン料理をいただくこの日は穏やかな気候で暖房機も要らないくらいの座小屋の営み。

談笑される座の3回目の口上は「ゴシュをいただいてください」だ。

「ゴシュ」を充てる漢字はおそらく「御酒」であろう。

ゴシュの酒は熱燗。

これもまた、座中に酒を注ぎ回る。

お神酒の場合は白いお銚子であったが、燗の酒は茶瓶である。

豆腐汁といえば美味しいものだけに、いずれの酒杯に於いても声がかかるおかわりが忙しい。

福貴畑の正月座はこうしてみれば三献の儀であることがわかるだろう。

台詞に若干の違いが見られるが、「ゴシュ」の名もある川西町吐田の北吐田の「荘厳」も三献の儀。

古式ゆかしい儀式を拝見できて感謝申す揚げる次第だ。

時間を見計らった総代が秋の座を営むマツリの5軒当家を伝えた。

正月ノ座とマツリ(かつて村相撲があった)の座を営む5軒当家は別で、平成10年以来にようやく村をひと回りしたそうだ。

こうして1時間ほどの座を終えた人たちは座小屋を降りた。



それから供えた神さんや仏さんの御供を下げる。

四角い高杯に載せた白いご飯。

□型、△型に盛った2段型のムシゴハンである。



□型のムシゴハンは枡型の木枠に詰め込んで作った。

△型は円錐型である。

ブリキ製の枠に詰め込んで作ったが御供に名は無いと云う。

香芝市下田の鹿島神社で行われる結鎮祭礼も二段のカクメシ。

天理市新泉町の素盞嗚神社で行われる野神祭りも二段のオシゴハン。

但し、上部も四角だ。

山添村北野の津越にある薬師堂で行われる八幡さんの京の飯は丸と四角の二段のメシ盛りだ。

形は若干違うものの同じような「キョウノメシ」によく似ている。

一方、一段だけの盛りもある。

スシメシと呼ぶのは川西町下永のキヨウ行事

桜井市の箸中で行われるノグチサン行事も同じで、それをツノメシと呼んでいた。

それはともかく、福貴畑の正月に供えられた二段のムシゴハンの周りに置いた小皿には茹でたサトイモが三つある。

それぞれの高杯に5皿ずつだ。

かつては石臼でアオマメをすり潰したクルミを載せていたと云う。

「それほどキョウノメシを撮っていただいたなら、あんたにもあげよう」と貰って帰ったムシゴハン。

総代が話すには、いろいろ試してみたが、オカイサンが一番美味しかったという。

こんなお土産を貰ったんだと云ってかーさんに見せたキョウノメシ。

しばらくは台処に置いてあった。

それから数日後の12日の晩。

夜食も終わっていた。

「あんたが貰ってきたんだから食べてや」という。

それは翌日の朝食。

千枚漬けをおかずに食べたオカイサンは美味しいのである。

カラカラに乾いていたムシゴハンは丁度よく柔らかい。

ほうじ茶で炊いたオカイサンはもう一杯と思うのであるがよそってもらった椀がでかい。

今度食べるときには野沢菜の漬物が欲しくなった。

(H26. 1. 7 EOS40D撮影)

モーニング検診の朝

2014年06月11日 07時23分19秒 | むびょうそくさい
申し込みを失念して正月明けの7日になったがん検診。

検診を受ける場はさんて郡山。

大和郡山市の施設である保健センターだ。

これまでにも何回か受診してきた。

この日は市内の行事が重なっていた。

住まいする近くの植槻町にある植槻八幡神社では祭り初めのオンダ祭が行われる。

今日は取材どころではなく我が身の検査。

おろそかにはできない。

さんて郡山の前には消防車がずらりと並んでいた。

云わずと知れた出初め式だ。

これも正月初めの式典である。

それはともかく受診したのは予め申し込んでいた胃がん・肺がん検診である。

費用は2受診で1300円。

肺がん検査はプラス700円で喀痰検査も受けられる。

(H26. 1. 7 SB932SH撮影)