マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

道の駅とれとれ野菜能勢町観光物産センターのふるまい七草粥に舌鼓

2017年10月11日 09時16分35秒 | もっと遠くへ(大阪編)
自宅より阪神高速道路を走り続けて大阪府の能勢町にやってきた。

正月も数日過ぎれば車も多くなると思っていた。

いつもはたいがいが大阪の東大阪辺りで渋滞に巻き込まれる。

そう覚悟していたがさっぱりと遭遇しない。

どこへいったのか知らないが車はすいすい走る阪神高速道路。

1時間10分ほどで能勢町の道の駅に着いてしまった。

1時間も走れば尿意をもよおす。

利尿剤を服用しているからだいたがが1時間おき。

早ければ30分単位で尿意を感じる。

高速道路を走行中であれば一旦は下りなければならないが、難なく道の駅に着いた。

採れたて野菜がいっぱい売っている。

着いた時間は10時半。

お店の前で店員さんが声を揚げていた。

もう少しで七草粥がなくなります。

あと数杯で終わります。



ここで見逃すわけにはいかないふるまいの七草粥はラッキーな時間に到着したから1杯がいただけた。

緩い塩味が美味い七草粥を食べていたら「しゅうーりょーぉーー」の声が揚がった。

(H29. 1. 7 SB932SH撮影)

大西・チョウジャドンの祝い膳

2017年10月10日 08時54分48秒 | 山添村へ
大きな注連縄を玄関にかけているお家を訪ねる。

元日の朝、お家の正月祝いにチョウジャドンの祝い膳のイタダキをしていると話してくださったのは山添村大西在住の婦人だった。

座祭りが終わりそうなときにお会いした婦人が云ったお家の習俗に思わず取材のお願いをした。

お許しいただければ是非とも取材させていただきたいと申し出た結果は、年明けの1月4日になってからだった。

見てはもらいたいが、家の都合もある。

しかも、腱鞘炎まで起こしてしまって重いものを持ち上げるのに苦労している。

お餅は小さくするなど工夫したと云っていた。

ありがたいお言葉に甘えて出かける大字大西。

オコナイ行事を終えてから寄らせてもらいますと伝えていた。

時間帯は午前11時半になってしまった。

ありがたいお言葉をいただいて、お年賀持参の民俗取材に心が弾む。

弾む心に迎えてくれた形が美しく綺麗な注連縄に「笑門」の木札がある。

伊勢の猿田彦の講に属しているので講中に頼んで入手したものだそうだ。

婦人が初めに案内してくれたのはカドニワに奉っていた門松である。



日にちが経過しているから葉は日焼けでチリチリ感がある。

普段であれば砂盛りをしたところに立てる門松。

今年はそうすることもできない重い道具の持ち運びであるが、松、竹(笹竹)、梅を立てた。

ナンテンもあればセンリョウも。

そこにサカキもフクラソウ(フクラシであろう)も添える。

ただ、今年は入手できなくて代替にビシャコを選んだそうだ。

注連縄は眼鏡型。

ユズリハにウラジロを添える。

これらは第二日曜日の朝8時半にトンドで燃やす。

昔は習字焼きの天筆もしていたが、誰も書くことがなくなった現在は見なくなったそうだ。

松は1月4日になれば穂先というのか知らないが、てっぺんの先っちょを伐って仕事始めをするという。

そのときはシバ(柴)を結う。

山行きして伐ってきた枝を束ねるのであろうか。

そのシバはトンド焼きの心棒にするというから、割合長めであると思われる。

カドニワに立てた門松の前にポリバケツがある。

中には若水を入れてある。

若水は正月の三が日。

元日の朝に柄杓を浸けて若水を汲む。

水が溜まれば顔を洗う。

若水は裏木戸の前にある井戸から汲み上げる。

昔は釣瓶で汲んでいたが、今では水道の蛇口にように捻るとジャーである。

手押しのポンプで汲みだした時代もあったが、いつしか電動ポンプの汲み上げ。

ポンプもやがて消えて蛇口を捻ればでてくる仕掛けになった。

その井戸を拝見して、つい「捻るとジャー」やと口が出る。

婦人も同じように「捻るとジャー」。

同世代ならではの生活文化の語彙が出てくる。

こうした門松立てや若水文化の民俗を拝見したら、祝い膳である。

膳は三種。

正月三が日も終えたこの日までわざわざ残してくださった祝いの膳にあっと驚く。



方形や円形のお盆に盛った品々。

丁寧に、そして綺麗に盛り付けされている。

椀からはみ出しそうな大きなカシライモ(頭芋)。

キナコは雑煮餅に漬けて食べる。

あまりにも大きすぎるカシライモ(頭芋)でその下にあるものが見えない。

婦人に具材を教えてもらわないとわからない。

その答えは豆腐に人参、蒟蒻、牛蒡、大根。

すべてが2個ずつ。



カシライモに載せている人参の形を見ていただきたい。

象って切り抜いた形が松(三枚葉)、竹(三枚葉)、梅(五花弁)。

実にお正月らしい飾り野菜である。

クシガキ(串柿)のニコニコ(2個、2個)。

1個であれば、一人もん。

一対の2個であれば、夫婦仲良く睦まじく、である。

お正月の餅は押し餅。

保存するのに最適な餅である。

かつて我が家も正月の餅を搗いていた。

小餅もあれば鏡餅も。

ひと際大きかったのは太く長い形の餅だ。

これをネコモチと呼んでいたことを思い出した。

小正月に切ったネコモチは厚さが1cmぐらいだったか。

ぜんざいに入れて食べていたことも思い出す。

それはともかく取材地民家の祝い膳。



たくさん搗いた餅を保存する場は「ナナワ」の奥の座敷。

ゴザを敷いて餅を並べているという。

髭のあるトコロイモは長寿の印し。

特に髭が長いのが良い。

トコロイモは家族の人数分の数。

栗は2個。

枝軸付き干柿も2個であるが、普段であれば2個でも1個でも構わないという。

それに葉付きのユズ。

昔はミカンだった。



祝い膳は家族の人数分を盛る。

子どもにあげるお年玉の膳に載せて拝む。

拝む順序は長老からだ。

その年の恵方か、若しくはお日さんが昇ってくる東に向かって拝む。

「ちょうじゃどん」と、一回云って座りながら拝む。

この場は座敷ではなく、玄関土間。



「このような感じでしているのです」と云いながら“形”を再現してくださった。

床の間辺りに並べておいて、「ちょうじゃどん」して長机に置く。

お爺ちゃん、お父さん、男の子の次がお婆ちゃん、お母さん、女の子の順でそれぞれが「ちょうじゃどん」の作法をする。

先祖さんを祀るお仏壇にも同じように供える餅、トコロイモ、栗、串柿、ユズのセット盛りである。

神棚さんは床の間。

かつてはそこには三宝も載せていたというから、その形式は年末に拝見した木津川市山城町上狛・M家や大和郡山市雑穀町の元藩医家の三宝飾りと同じであったろう。

方形のお盆に盛ったそれぞれも同じであるが、異なる形の餅もある。

右下角にある餅はまるで乳房のように見えるが、それは山の神さんの餅。

家ではオカイサン(お粥)を足して祭っているという。

山の神さんの餅は男の人数分を用意する。

炊いたオカイサン(お粥)に七草を入れて食べる。

山の神さんに参る行事を拝見したことがある。

場所は山添村の大塩。

小字キトラデ在住のK家の山の神行事である。

1月7日は山の神。

その日は七草の日である。

山の神参りを済ませた親子は家に戻ってから七草粥を食べていた。

ここ大西の住民も同じようにされていたものと思われる。



山の神さんの餅の左横にあるのが三日月餅。

ちょんと、くっつけているのがお星さんだ。

その左横に並べた餅は小判型。

本来は家の蔵に供える蔵の餅。

広げたシダの葉を敷いて、その上に載せる。そのシダは村の人(子供だった可能性もあるが)に頼んで採ってきたもののようだ。

方形盆の右上角に並べた12個の餅はツキノモチ。

12個あるから一年間の月の数。

新暦の閏年の場合は13個にするというから、元々は旧暦の閏年であったろう。

その新暦の閏年の年は伊勢講が揃って参るお伊勢参りがあるという。

方形盆の左下角に並べた10個の餅はそれぞれ。

恵比寿大黒さんに供える餅は2個。

三宝荒神さんは3個。

井戸の神さんは1個。

門松さんも1個。

山の神さんに参る分に1個。

トンドの神さんは2個。

これは先を尖がらせた竹に挿してトンドの残り火で焼く。

ほどよく焼けたら、その場で食べる。

その際、炊いて作った小豆粥を持っていく。

そのトンドの火の燃え殻。

炭としても役立つ燃え殻を拾って帰る。

それを味噌樽の蓋の上に置けば、味噌が美味しくなると云われてきた。

さまざまな神さんに供える正月の餅の数々。

今年は訪問者のために一つの方形盆に盛り合わせてくださったから、例年とは違う形式である。

しかも餅などの大きさは方形盆に乗せられる大きさであることを添えて紹介する。

昔、お婆さんが「丸い栗はダメ」だと云っていたそうだ。

栗の実は蒸すか、茹でるかにして、それを数珠玉のよう吊るして干した。

通すのは布団針のような太くて長い針だった。

そう話す婦人は冷凍して保存しているようだ。

「カンピンタン」は硬くて食べられないからトンドにあげるともいう「カンピンタン」とは・・・。

帰ってから調べた結果は奈良県の宇陀郡や三重県の南牟婁郡、志摩郡、四日市市の方言のようで、干乾びた状態というらしく、充てる漢字は「寒貧短」っていうのが面白い。

さらに調べてみた「カンピンタン」。

小学館の『日本語大辞典』によれば、まったくお金がない無一文のことを「スカンピン」。

子ども時代から使い慣れている「スカンピン」を充てる漢字は「素寒貧」。

なるほど、であるが、「カンピンタン」ははじめて耳にした言葉。

しかも、尾鷲のようにサンマの寒風干しを製品化する場合においてもそう呼ぶ地域もある。

婦人が提供する話題は次々と広がる。

トコロイモは水に浸けておくと元気になる。

籾も水に浸けておくと芽出しが良い。

トコロイモも同じことだと云うトコロイモはモグラが好物のようだ。

恵比寿大黒さんにはカケダイをする。

カケダイモ新品の大型マッチも紐で吊るして供える。

マッチを供えるのは、火が起こせるからだ。

火を起こすマッチ擦り。

マッチは火起こしに欠かせない道具であるから食べられるようになるということから供えるという。

カケダイは三重県伊賀市治田まで出かけて「まるそうスーパー」の魚屋さんで買ってくる。

山添村からそれほど遠くない地であるが、婦人の家では夏のお盆に乾物のトビウオを供える。

トビウオはホントビもあればアオトビもあるらしい。

そのトビウオは両親が揃っておれば2尾。

片親であれば1尾。

ともに亡くなれば買うことも、供えることもないが、祝いに供える場合は、終わってからそのトビウオを下げて、分け合って食べているそうだ。

山添村の北野津越松尾でされているサシサバのイタダキさんと同じ様相である。

東山間に今も聞くサシサバの風習はサシサバでなくてトビウオもあると聞いていた。

それをしていたのはここ大西の婦人宅であった。

なお、婦人が云うには隣村の菅生もトビウオの風習になるという。

話題は替わってカシライモ。

カシライモは赤ズイキでオヤイモになる。

ズイキは芋がらとも呼ばれる芋茎である。

八ツ頭(ヤツガシラ」とか唐の芋(トウノイモ)などのサトイモの葉柄の部分である。

一方、赤ズイキに対して青ズイキもある。

青ズイキの子芋は食べられるから芋串祭りの御供に出しているが、カシライモ(頭芋)になる部分は食べられない。

他にも竃の三宝荒神さんは松の枝に注連縄などなどを飾るなど豊富な在り方にただただ感動するばかりだ。

その上に別途雑煮の用意までしてくださった。



キナコもあれば雑煮の餅に大きなカシライモも。

ありがたく同家のお味を堪能させていただいた。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

(H29. 1. 6 EOS40D撮影)

大西のオコナイ

2017年10月09日 07時44分48秒 | 山添村へ
昨年の平成28年10月9日に行われた山添村大西の座祭りの場。

座祭りの場にもなるし、村の会所でもあるその施設は旧極樂寺跡である。

1月の6日にオコナイと呼ばれる正月初めの初祈祷にランジョーされると聞いていた。

一般的なランジョーはごー杖と呼ばれるウルシの木を寺の縁に叩く作法があるが、大字大西ではその作法は廃れて、僧侶が読経中にオリンを打つ、そのものがランジョーになったと云っていた。

作法はある意味、特殊になったわけだが、初祈祷であることには違いない。

この日のオコナイに参集されたのは区長や檀家総代の人たち。

時間ともなれば隣村になる大字春日の不動院住職がやってくる。

その時間を待っていた会所の屋外。

不思議な景観がある。

会所の窓側下になにがある。

よくよく見れば松である。

違いがある2本の松。

右はオン(雄)松で左はメン(雌)松だ。

旧極樂寺跡会所の元日は扉を閉めていたのだろうか。

聞こうと思った男性はおもむろに動いた。

門松と思われる、その場に移動した。



そこに挿していた松を抜いた。

抜いたのは二本ともだ。



それはどうされるのか。

後ろからついていけば会所へ、である。

松を抜いた男性は屋外に咲いていた椿の花を摘んだ。

紅白それぞれの花が咲いている椿も持ちこんで花瓶に立てた。

花瓶を置いていた場所は床の間の前に組んだ祭壇である。

祭壇は座でも利用されていた長机である。

左側に白花の椿。右が赤色の椿の花瓶に抜いた松も立てた。

仏式の花立てに神式の門松を立てた。

村の人らの話しによれば三段の松を伐って立てた門松の先端部分を正月迎えた三が日を過ぎたら、それを伐って、旧極樂寺跡会所に立てるということだった。

珍しい正月飾りの形態に驚くばかりだ。

祭壇に門松を調えたところで不動院住職が到着された。

早速、始められた祈祷札の墨書。



大字大西の『大西修正㑹牛玉ノ書帳』に記されているごーさんの祈祷札の書き方通りの「牛玉 不動院 寶印」文字を墨書する。

寺名は大字大西の旧極樂寺でもなく大字春日の不動院である。

住職の話しによれば随分と前のことであるとお断りを申される。

その昔はわからないが、山添村大字大西のオコナイ作法が廃れたようである。

きっかけはわからないが、不動院が継いで大字大西の寺行事を務めてきたということである。

転記されていた『修正㑹牛玉ノ書帳』には「修正㑹一月五日廣代(ひろたい)云々・・」の文字があった。

3日後のことであるが、山添村の東の端に大字鵜山がある。

そこでもオコナイ行事を拝見させてもらったが、僧侶は登場されずに村の人たちだけで作法をされる。

そのときに拝見させてもらった資料がある。

その資料によれば、山添村の3カ大字で初祈祷とも呼ばれている修正会の日程がある。

1月5日は広代(ひろたい)で6日は大西。

10日が遅瀬である。

オコナイはその3カ大字であるが、涅槃会は大字上津がある。

彼岸会となれば鵜山、広瀬、吉田、広代、上津、菅生、春日、大西、葛尾にも出向かれる。

つまりは、不動院住職が山添村で兼務している大字はそれだけある、ということだ。

広代のオコナイは平成26年1月5日に取材させていただいた。

遅瀬は未だ取材ができていないが、米寿祝いを兼ねたオコナイ行事はハゼの木を用いると聞いている。

縁かどうか記憶にないが、ダンジョーという名の縁叩きをしていると聞いた。

ハゼの木にお札を挟んだごーさんは見たことがある。

平成22年10月10日の神社行事に訪れた際にそれがあったと認識している。

墨書したごーさん札はご祈祷される。



祭壇のローソクに火を点けて始まった初祈祷のオコナイ。

重箱に詰めたお節料理を供えて線香も火を点ける。

この段階では朱肉をつけない宝印は押さない。

ごーさん札の前に置いてあるだけだ。

大西に迎えたお正月の挨拶を述べた住職はこれより初祈祷の法会を行う。



はじめにお清めの作法。

次に仏さんを詠みあげる諸仏勧請。



その次は全国津々浦々の神さんを詠みあげる神名帳詠み、である。



そして、花餅(けひょう)帳に沿って寄贈者の村人名も詠みあげて般若心経に移った。

ちなみに、花餅(けひょう)帳に記載された名前は家族のうちでも男だけだそうだ。

それからしばらくしたら「ランジョ-」のご発声。

オリンを叩く。

それもリンリンリン・・打ちの連打である。

続いて、祭壇の角にあたる部分も叩く。

それもカタカタカタ打ち・・の連打である。

叩くのは住職お一人。

この作法が大西のオコナイのランジョー作法。

他所では見られない作法である。

正月初めに行われる修正会のお勤めは、村人の健康を願い、村内安全を祈願する。

去年の罪を懺悔する。

広島の因島の僧(因島薬師寺)に教えを乞うた。

神さんも仏さんも拝むが、先祖さんを拝む。

先祖さんをずっと辿っていけば、神、仏に近づく。

神と仏の力を借りて命を繋いできた先祖さんを拝むということ。

先祖さんに感謝するとともに、拝むことによって村ともども子孫繁栄に繋がるということであるとお話しされる。



法会を済まされた住職は祈祷されたごーさん札に押印する。



押印は宝印。

水で溶いたベンガラを宝印に付ける。



朱のベンガラは山に出かけて採取したもの。

水は村の湧き水の若水である。

朱印は「牛玉」、「不動院」、「寶印」それぞれに押す。

朱のベンガラがべったり押されたから印の状態がわかり難いが、炎のような輪郭はよく見える。

朱印を押したごーさんの祈祷札は、これも山で採取してきたハゼウルシに挟む。

木肌を削って真っ白になったハゼウルシの木は年々少なくなってきたという。

どこへもっていくこともなく、旧極樂寺跡会所の床の間に立てて残している。

一番古いものから数えて5本目になるそうだが、今年はそのハゼウルシでなく「ウルシ」の木そのもの。

生のうちに木皮を剥いで作っておく。

翌年は再びハゼウルシ。

持ち回りで入れ替えをするという。

祈祷法会を終えて朱印押し。

ベンガラをべったり塗った宝印が動いた。



実際に動いているのは区長であるが、一人一人の席の前に立って額に押す。

べったり塗られた額の朱印はなかなかとれないものだ。

こうしてオコナイとも呼ばれる修正会お終えた人たちは座敷で直会。

初祈祷に供えた重箱を下げる。

小皿に取って箸で摘まむ。

重箱の蓋を開ければお節料理が見える。

甘く煮た黒豆に甘栗もある。

かつお節を降ったカズノコもあればゴマメもある。



供えたお神酒もいただく直会中に明日の大西の行事を聞く。

1月7日に行われる山の神がある。

時間帯は特に決まっていないが、早い人は今夜の零時の鐘がなったら出かけるそうだ。

持ってきた藁束を燃やす。

山の神のオソナエの形はクラタテを表現しているが、村では単にオソナエと呼んでいる。

山の神の地はジンスケの名がある屋敷跡。

大木のケヤキがある地。

急勾配の地に山の神を祀る土段は事前に調えておく。

オソナエをしてクリの木、或いはオツゲの木で作ったカギの木でカギヒキの作法をする。

そのカギの木にはモチ、或いは砂を詰め込んだ稲藁で作ったクラカケをぶら下げる。

他所であるがオツゲの木は、たしか、ウツギの木だったと記憶する。

山の神に奉る土段に山や農仕事に使う七つ道具を供える。

七つ道具は白い木肌を削った農具を象ったカマ、クワ、スキ、ナタ、ノコ、ヨキにクマデの七種。

すべてニスを塗っているそうだ。

やや太めの刀も作る。

それには五穀豊穣、家内安全の文字を墨書する。

これらを作る木材はホウの木。

イモギの名で呼ぶこともあるホウの木で伐り出す刀。

その形からケン(剣)の木と呼ぶ人もいるらしい。作る人は区長。

奉る人も区長。

かつては、というか、昨年までは、毎年に交替する区長が作って奉っていたが、この年から毎年作ることにはせずに、夕刻に引き上げて区長保管。

翌年に再び登場する使い回しに改正したという。

ところで住職が法会の席についた頭上に何かが見える。

村の人のお許しを得て、法会中も扉を開けていたその内側に安置されている仏像を拝見する。

床の間頭上の仏壇と云えばいいのか、わからないが、左側が行者坐像で、右側は毘沙門立像である。

暗がりで判断は難しいが、右隣の毘沙門立像は木造のようであるが、行者坐像は石造りのように見える。

それとは別に左端に大きな縦長の扉がある。

村の人たちがいうには、そこにはお大師さんを安置しているそうだ。

大西には念仏講がある。

その講中が寄進したお大師さんは四国八十八寺霊場の第45番・岩屋寺のお大師さんを祀っているという旧極樂寺のご本尊は阿弥陀さん。

かつては「座っていたはずだ」と云う。

で、あれば、どこに行ってしまったのだろうか。

(H29. 1. 6 EOS40D撮影)

住之江送りに魚輝住之江店の昼ランチ

2017年10月08日 06時51分14秒 | 食事が主な周辺をお散歩
昨年末の12月30日から我が家で正月を迎えていたおふくろは住之江に帰る。

迎えは長男が行ってくれたが、送りは私の番だ。

食べては寝て、食べてはテレビを見て笑っていた。

動くこともない足、膝は弱る。

これ以上は耐えられんと思って・・・ではなく、例年通りのご帰還である。

昼飯は住之江で食べようと思って出発時間を調整する。

三が日は昨日で終わり。

この日からは一般的なビジネスマンは初出勤。

私もそうだった。電車もバスも運行は平日ダイヤ。

車は多いかと思えばそうではなかった。

我が家から住之江に行くには第二阪奈道路を経て阪神高速道路を利用する。

たいがいは交通渋滞。

料金所を中心に渋滞が伸びていく。

東大阪線はどうしようもないくらいに毎日が渋滞であるが、この日はすっからかん。

すいすい走る車の流れに追い抜き車が多い。

速度は百キロも超えている車がなんと多いことか。

心臓病の私はそれを見るだけで怖くなる。

住之江を下りて一般国道も空いている。

目指すはここからすぐ近くにある魚輝住之江店。

なんと、なんとの満駐状態。

待ち行列に道路まではみ出してしまった。

運よく食事を済ませた車が出庫した。

どどっと3台も空いた。

実にタイミングが良かった時間帯は午後12時半。

店舗内も満席かと思えば違った。

客席数が多い魚輝住之江店ではそうはならんかった。

とはいっても空いている少人数席はほぼ満席。

仕事人もおられるが家族連れ、友達連れが多い。

魚輝住之江店には麺類がない。

そうわかっていても料理が美味しいからついつい入店してしまう。

尤もおふくろが住まいする団地はここから目と鼻の先。

歩いて3分ほどで着く。

かーさんが頼んだ料理は税込み540円の漁師丼定食。



ちょっとピンボケになってしまったが、旨い、旨いを連発して食べていた。

おふくろが選んだ料理は842円の日替わり寿司ランチ。



特上であれば税抜き価格が1580円。

もっと美味しく上等もんを食べたけりゃ桶入りが良いと思うが、我が家ではそこまでいかない。

造りや握りが好きなおふくろも旨い、旨いと云って食べていた。

これまでの私であれば漁師丼にしていたが、本日は味覚を替えてみる。

魚輝は新鮮な魚もんが美味い。

酒飲みに相応しい一品料理も多くあるが、住之江店ではないが、初めて入店した魚輝で思い出すのが、当時ワンコインでいただけた串カツ定食だった。

揚げたての串カツにほくほくに炊いたご飯が美味かった。

それを思い出して注文した料理は税込842円の特大エビ入り串カツ定食。



一番に手にした串をタレに浸ける。

ウスターソースであるが、一般的なソース味でもなくあっさり味。

二度浸け禁止の表示がある。

四角い串が美味い。

美味いは美味いが具材は何である。

メニューには載っていそうもない具材の食感に魅力を感じた。

次はレンコン、その次はウズラの卵。

ウインナーソーセージもある。

右から左に手が伸びる。

何も考えなんだらそうなった。

次は魚。

口にしたとたんにわかったシシャモ。

小さく切った牛カツもある。

ラストに登場したのは特大エビ。

〆に相応しいエビ天は太い。

大晦日に食べた年越しソバに盛ったエビ天とそこそこ良い勝負をしそうだ。

3品とも昼のランチメニューにある定番コース。

いずれの定食にも大きいブリの切り身が入っている赤だしが付いている。

ブリの切り身は大きいであるが、さらに大きな汁椀では目立たなくなってしまう。

昼のランチ定食にはサービスにドリンクも付いている。

お得なコースを堪能する。

レジの支払いはクレジットカード扱い。

これが助かるのである。

そこで店員さんに尋ねたテーブルに置いてあった魚輝特製の「丼のタレ」。



海鮮丼に合うのかどうか。

美味しければ買いたくなるタレを味見。

小皿に落として小指に浸す。

口に入れる。

こりゃあかん、である。

カツオ出汁が強烈に感じるタレはかつてあった天丼用だったという。

我が家の口には合わなかったが、お客さんによってはケッコー利用しているタレだそうで、天丼はメニューから消えたが、好評ということで置いているという。

(H29. 1. 4 SB932SH撮影)

我が家のしめ飾りに添え物

2017年10月07日 07時20分27秒 | もらいもの・おくりもの
大晦日に我が家の玄関を飾ったしめ飾り。

それに貰ったばかりの藁作り亀さんを添えた。

私が送った賀状を見た人から電話があった。

「今、カメラのキタムラ奈良南店に来ている。写真展を拝見させてもらったが、おらへんから電話した」という。

今年のカメラのキタムラ写真展は1月3日から始まった。

賀状にもそう書いていたから見にきたという。

ありがたいことである。

自宅からは10分ぐらいで着く。

おられた人は大和郡山市白土町に住むN夫妻。

年賀に届けてあげたいと思って、この日の朝に作った稲穂付き藁作り亀さんを持ってきた。

自家製の餅いただいた年賀がとてもうれしい。

亀さんを括り付けた画像をFBで公開したら知人のMさんが言った。

亀があれば鶴も・・。

二つが揃えば目出度い。

ご希望を叶えてあげたく、家にあった小さな、小さな折り鶴をちょこんと乗せた。



そこでしゃれっ気の一句。

「目出度さの 鶴は折れま先年 亀はあり万年」。

句の字数がおかしいかもしれないが・・・。

(H29. 1. 3 SB932SH撮影)
(H29. 1. 4 SB932SH撮影)

我が家の正月二日目はすき焼き団欒

2017年10月06日 09時14分15秒 | だんらん(正月編)
正月二日目も民俗取材。

地元の大和郡山市内で行われた正月のフクガユ取材の際にご家族が食べてくださいと云われてよばれたフクガユ(福粥)にお節料理。

美味しくいただいたお腹はぱんぱん。

お昼はどこかで食べようと思っていたが、無理・・。

そんなわけで午後の取材は各地で行われている砂の道を拝見してきた。

たっぷり取材に聞き取りもある程度を得ることができた。

満足な二日目の取材で帰宅したのは午後4時も過ぎていた。

この日の朝に電話を架けてきた甥っ子が座っていた。

一昨年に母親を亡くした甥っ子は兄弟二人。

弟は結婚しているが子供はいない。

兄はつき合っていた女性が阪神大震災に巻き込まれた。

それからずっと独り身で母親を世話してきた。

一昨年は賀状をだせない服忌の年。

大晦日直前出した賀状を見た甥っ子が電話をしてきた。

おふくろがおるし息子もおるからここへおいでと誘ったら飛んできた。

久しぶりに顔を合わせる甥っ子はよくしゃべる。

そんな姿が嬉しいというおふくろ。

今夜は賑わいのすき焼きを囲むことになった。

晩食に残り物のおせち料理はなかった。

たぶんにそうなるであろうと思っていた。

そのこととは関係なく今夜の晩食は牛のすき焼きだ。



年末大晦日に買っておいたすき焼き牛は2店舗買い。

2頭買いではなく2店舗買いである。

一カ所は「産直市場よってって大和郡山店内」にあるお肉屋さん。

二カ所めは奈良県中央卸売市場にある「㈱ビッグウエーブフーズ」。

4人が食べるすき焼きに牛が追い付かない。

焼いても焼いても(実際は炊いても炊いてもだが・・)追いつかない牛のすき焼きが美味すぎる。

普段よりも値を張った櫂がある味覚に感動する。

これぐらいで感動するぐらいだから我が家の舌もたいしたことない。

普段はどんな牛肉を食べているんだと云われそうだが・・・。

すき焼きに買っておいたぶりの切り身を皿に盛る。



帰宅直後に家でさばいたブリの半身。

包丁を入れるたびに脂でギトギト。

切れ、滑りがすぐにダメになる。

その都度、包丁にまとわりついた脂を取り除いてさばく。

造りにするのは腹身。

脂がのってむちゃ美味い。

背身はどうするかと云えば照り焼き用にする。

皮を付けたままで一枚、一枚切ってラップ包み。

おふくろに持ち帰ってもらえるようにそうしておく。

話はすき焼きに戻そう。

いつもより早い時間にスタートした正月二日目のすき焼き料理に堪能する。

何かがおかしいと感じたのは野菜を食べたときだ。

白菜や白ネギではなくタマネギである。

白ネギはともかく白菜は煮れば煮るほど水が出る。

水が出れば味が薄くなる。

薄くなるからすき焼きのタレは追加にタプタプ。

水増しからタレ増しである。

それを防ぐには白菜ではなくタマネギである。



我が家は何十年も前からタマネギすき焼き。

これを覚えたのは淡路島。

テレビが伝えていた淡路島のすき焼きである。

淡路島のタマネギは甘味がある。

すき焼きにぴったしである。

しかも水分が少ない。

少ないから水増しにならない。

甘味があるタマネギだからすき焼きと相性が良い。

食べなおしはいつやってくるのだろうと思いつつ今夜の味に浸っていた。

(H29. 1. 2 SB932SH撮影)

外川町八幡神社の神さんが通らはる参道の砂の道

2017年10月05日 08時45分56秒 | 大和郡山市へ
天理市の檜垣町から同市の遠田町を経て田原本町の唐古八田などの正月飾り状況。

参拝を兼ねて拝見してきた。

福粥」から始まって、大和郡山市の民家の砂撒き状況から、天理市、田原本町のごく一部も調査してきた。

ラストは住まいする大和郡山市。

本日の〆を飾るに相応しいと思って選んだ地は大和郡山市の外川町。

鎮座する八幡神社に砂の道が現存していたことを知ったのは平成25年の1月2日だった。

あれから4年も経った。

消滅している可能性も考えられるし、継続していることも・・。

それを現認しておきたい、と自宅に戻る途中にある外川町。

時間はたっぷりの余裕綽々で立ち寄った八幡神社

この年もされていた砂の道があった。

鳥居のところから一直線。

参拝に登る階段も一直線の砂の道が続く。



登っていけば直会殿の間を通って本社殿がある拝殿前までに繋がる砂の道はここで右折れして方向を替える。



その奥に行けばまたもや直角折れ。



その先は石段も据えている小社がある。

その小社はコミヤ(小宮)と呼んでいるようだが、調べてみれば大鷦(しょう)鷯(りょう)社ではないだろうか。

大鷦鷯(おおさざきのみこと)を祀る、いわゆる若宮さんであろう。

直会殿に数々の絵馬がある。



一枚は明治四拾貳年九月三日に「當村」名で寄進された外川町八幡神社を配置した様相である。

もう一枚は色落ち甚だしく一部は擦れた絵馬であるが、とても興味深い姿を表現していた。

「奉納 御神前 □□天□(たぶん神武天皇であろう)即位紀元貳千五百・・蔵」であろうか。

そうであれば明治時代初期の5年、或いは6年辺りが相当するであろう。



右手に居る女性と思われる人は筵に座ってなにやら作業をしている。

お米の選別であろうか。問題は左に立っている男性の姿だ。

山で伐ってきた薪を担ぐ男性の姿の像を見たことがある。

それがあったのは高取町の丹生谷である。

因光寺境内に建つ清九郎会館の間に建つ銅像は好好人で名高い大和清九郎。

そうであれば、右手の女性は母親である。

その絵馬に奉納したと思われる人の名がある。

判読し難いが「當村氏子 辻本清太郎」のようだ。

その人物は外川町八幡神社と、どのような関係があったのか知る由もないが、何故に大和清九郎の姿を絵馬にしたのか、できるならご本人の“思い”を聞いてみたいものだ。

大和清九郎に関しては社会人だったころの上司であるKさんが纏めた史料があるので、そちらを参考にしていただきたい。

これらの貴重な絵馬を拝見していたときだ。



階段を登ってくる足音が聞こえてきた。

お名前を伺えば氏子のSさん。

長年に亘って宮役員を務めているという。

役員は10人。

仰せつかって15年も役員をしているSさんは一番の年寄りになったという。

砂の道造りは12月25日の日曜日に一度したが、大雨で流れてしまったそうだ。

その関係もあるが、例年は大晦日の31日

午後のはじめに神社・境内の清掃をし終えてから砂の道をするそうだ。

かつての砂の採取地は神社下にある富雄川。

護岸工事をしていない時代である。

川に下りて川砂を掬った。

それをモッコに入れて担いで運んでいたという思い出はSさんが子供のころ。

鮒もタナゴもいっぱい泳いでいた護岸工事をしてからは川の様相はすっかり変わって綺麗な砂が採れなくなるし、魚も消えた。

そういうこともあって今ではスーパーで売っている川砂を用いている。

砂袋は4袋。

量は多い。

外川町の宮役員は1~6組の選抜。

3年任期の宮役員であるが、Sさんは7組。

ずっと継続、継続を引退するまでが任期。

もう75歳にもなったというSさんは相談役みたいなものだという。

Sさんがいうには砂の道は神さんが歩く道。

「八幡神社の神さんが通らはる参道の砂の道だから、踏んだらあかん」という。

盛り砂は神さんが鎮座する。

鳥居とかにも盛り砂するのは神さんを迎えて降りてきてもらう門松。

今では極端に小さくなった松一品になってしまったという。

今では高台に鎮座する八幡神社であるが、かつては富雄川にもっと近い農協辺りの地であった。

いつの時代かわからないが、富雄川の氾濫に見舞われて神社は流された。

そういう大水害の影響は甚だしく、高台に遷したという。

田中町に堤防を作ったのはその関係であるという。

富雄川の決壊によって神社を遷したというのは田中町の氏子らも話していた。

その氾濫年は延宝年間(1673~)のようだ。

氾濫の影響を受けて神社を遷した地域は外川町、田中町の他、隣村の小南町、池之内町、満願寺町にもおよんだ。

氾濫の影響が広範囲に亘ったということだ。

ちなみに外川町には特定家による宮座がある。

奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』資料によれば、外川町は8戸・八人衆の宮座であったが、時代は不明だが、20戸に膨れ上がった。

かつては八人衆が一般座衆の上位にあった。

15歳で入座した宮座とある。

Sさんの話しによれば、12~13軒の宮座は今も継承しており、座の営みはあるが、神社行事を務めることはないそうだ。

続けて話す外川町の年中行事。

昔は1月30日にしていた大トンドがある。

小正月の1月15日に移ったが、サラリーマン構成が多くなった今では第三日曜日の午後2時から3時。

かつては富雄川の河川敷であったが、現在は郡山西中学校向かいのゲートボール場である。

そこで行われる大トンドに振る舞いのぜんざいがあるというから一度は訪れてみたい。

神社行事の八朔祭は9月1日であったが今は第一日曜日。

かつては10月1日だった本宮(ほんぐう)祭も日程が替わって第一土曜日。

午後2時の神事に巫女さんが参席される。

今では三郷町に住む坂本家であったが、ほんの少し前までは大和郡山市若槻町に住む加奥家だった。

それ以前はといえば、村の女児が務めて神楽を舞っていたという。

その後の12月1日の新嘗祭も日程を変更されて第一日曜日。

時間帯も午後3時から2時に移ったというから、3行事すべてが午後2時である。

覚えやすくなった行事日・時間は記憶しやすい。

外川町の座中の一人であったYさん。

座の営みも教えてくださっていたが、平成22年の2月4日に他界されたこともあって行事取材は遠ざかっていた。

この日にお会いしたSさんにもそういうことがあって遠慮するようになったといえば、是非来ていただきたいと云ってくれた。

ありがたいお言葉に、できうる限り、機会を設けて寄せてもらうことにした。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)

八田伊勢降神社の特異な門松砂盛り

2017年10月04日 09時39分13秒 | 田原本町へ
天理市の檜垣町から同市の遠田町を経て田原本町の唐古。

さらに北上して大和郡山市に入ろうとする前に拝見しておきたい地がある。

田原本町の八田(はった)である。

神社は伊勢降神社。

春の御田植祭にたばった松苗を立てる苗代祭りも取材した神社行事である。

もしかとすれば簾型の注連縄があるのでは、と思って寄り道する。

期待は空しく、それはなかったが、砂の盛り方がユニークだった。

伊勢降神社は本社殿内にある社は市杵島社、住吉社、多賀社、春日社の四社。

その他に南側に道祖神社と保食社がある。

その間の境内中央に祖霊社を配置する。

本殿・拝殿前の玉垣前に設えていた松、竹、梅の門松に、である。

これまで拝見した県内各地の神社門松を立てる砂盛りとはちょっと違う。

砂盛りは前へ、前へと伸ばす。

これはいったいどういう意図をもっているのだろうか。

見慣れない形式の砂盛りではあるが、逆にユニークさを醸し出す。

その同じ形式で盛った砂盛りは境内社の祖霊社にも見られた。



拝見していたときに参拝者が訪れた。

お声をかけたら地元の女の子の二人連れ。

お正月の参拝に来られなかったので、今日にしたという。

何故にこのような形式にされているのかの問いには答えられなかったが、よくよく聞けば平成27年の2月26日に訪れた際に八田のさまざまな情報をお話してくださった昭和6年生まれのSさんのお孫さんだった。

なんでもこの年は父親が宮守さんを務めるという。

八田の宮守さんは4人。

その中でも一番若いという。

もう一度お会いしたいSさんは富士講でもある。

ずいぶん前にある学者が話しを聞きに来ていたと話していたことを思い出した。

まさかのお孫さんと遭遇するとは思っても見なかった八田の伊勢降神社の出合い。



南側にある道祖神社と保食社の門松立ても見ておく。

ここでは場所柄の関係かどうかわからないが、本社や祖霊社にあったユニークな砂盛りではなく、一般的な形式であった。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)

柳本町・庚申さんの正月御供

2017年10月03日 09時59分13秒 | 天理市へ
天理市遠田町の南を抜ける街道筋がある。

少し足を伸ばしてみようと東に向けて走る。

集落に入ったとこらへんだ。

そこに建っていた庚申さんに正月のお供えがあった。

その地はどこであろうか。

カーナビゲーションによれば天理市の柳本町の南の端になるようだ。

瓦屋根の立派な造りの祠に奉られた「庚申」石。



正月らしく祠を支える両柱に松、竹、梅に南天を添えた奉書包を紅白の水引で括っていた門松。

祠中央に、これもまた立派な手造りの注連縄を吊るしている。

金銀・朱色の扇を挿して飾り付けもあれば、ウロジロ、ダイダイもある注連縄の簾も美しい。

花立てにも松、竹、梅にイロバナ。

庚申さんにこれほどまで正月を飾っているのは拝見したことがない。

信仰心が篤いと思える丁寧な奉り方に感動する。



花立ての傍には小型パックの二段餅もあれば、紅白水引で括った鏡餅もある。

これもまた、信仰する村の人が供えたのであろう。

左にある石仏はおそらく地蔵さん。

それには松、竹、梅にイロバナ立てだけであるが、庚申さんと見比べたらえらい違いである。

庚申さんの右隣の石塔は「□□十四丁正年八月吉日」の刻印がある太神宮塔。



年号が判読できなかったので判読できた「十四丁」を以って調べてみた。

「十四」は和暦の14年で、その年の干支は「丁」。

それをキーにして調べた結果は、文化十四年(1817)丁丑、若しくは寛永十四年(1637)の丁丑である。

伊勢のおかげ参りが熱狂的になった代表的な年代は、慶安三年(1650)、宝永二年(1705)、明和八年(1771)に文政十三年(1830)。

文化、文政年間に建てられた太神宮塔(大神宮塔の場合もある)は県内各地に多く見られる。

寛永十四年は当て嵌めるには無理があると考えて、柳本町の太神宮塔が建てられた年は「文化十四丁丑年八月吉日」とするのが妥当であろう。

その石塔にもダイダイ付きの注連縄があるが、括るところがなくて火袋に納めていた。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)

遠田町も唐古もゾウガイが消えた

2017年10月02日 08時46分51秒 | 天理市へ
天理市の檜垣町の正月の様相を拝見して帰路の道中に各地の正月状況を調べてみる。

まずは同市内の遠田町(とおだちょう)。

当地の正月飾りは平成26年の1月1日に訪れたことがある。

3年の空白はあるが、もしかとして・・が過った。

その勘はピタリと当たった。

心の中は当てってもほしくない正月の在り方は大きく変容していた。

遠田町には地区中央に春日神社がある。

そのすぐ傍に公民館が建つ。

左横は観音堂である。

神社にお堂ともその場には簾型の注連縄をかけていた。

注連縄は二本の笹に結わえている。

葉付きの笹竹が二本。

両側に葉があるから互い違いに組んでいたことがわかる。

その注連縄を「ゾウガイ」」と呼んでいたのは田原本町蔵堂にお住まいの守屋宮司である。

「ゾウガイ」注連縄はマエトーヤが製作して飾りつけすると聞いていた。

そのゾウガイを拝見する前に先に見てきたかった子守神社の正月飾り。

前回の平成26年は訪れていなかったから先に見ておきたいと思って歩いた。

そこにあった注連縄は本殿に架けていたが、一般的な形式であった。

ところが、だ。



妙なものがある。

本社殿に向けて倒すような恰好で葉付きの竹がある。

それも左右2本ともである。

倒したというか、まるで寝かせるような形式である。

これが形なのか、尋ねる人も居なくてさっぱりわからない。

異様な形式ではあるが、埋め込んだ竹筒に松、竹、梅がある。

左右に立てた門松である。

なんとなく大幅に簡略化されたような気がする。

その本社殿には鏡餅が数台ある。

クシガキもある鏡餅は氏子さんが供えたものだろう。



その状況ではあるが正月参拝を済ませて春日神社に移動する。

あっと驚く変容ぶりである。

先ほど参拝した子守神社とまったく同じ形式になっていた。

どこにも「ゾウガイ」の注連縄は見られないが、門松はある。



すぐ傍の観音堂もまったく同じだった。

遠田町を離れて再び帰路の道中。

たしか田原本町の唐古の神明社も簾型の注連縄があったことを思い出す。

現状はどうしているのか、と思って集落道を行く。

平成24年の9月23日に訪れた神明社の拝殿に簾型の注連縄があったので、綺麗な形、色合いの注連縄を観ておこうと立ち寄ったらなかった。

ここもすることはなくなったことにショックを覚えて現状を撮ることさえ失念してしまった。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)