知人のSさんがFBに挙げていた映像がある。
鳥居の向こう。参道沿いに沿って参っていけば拝殿に着く。
その景観を観てここはどこだかすぐにわかった。
平成25年の6月30日に訪れた天理市檜垣町の三十八社である。
街道を走っていたときである。
人影が見えたので神社行事が判ればと思って尋ねた覚えがある三十八社。
「三十八神社はたぶん檜垣町でしょう。早急に砂盛りの参道道を拝見したく・・。私が聞き取りした範囲では天理市・田原本町は消滅していたと思っていたので驚きです」とメールを送ったのは数日前の大晦日である。
Sさんがとらえた参道にある砂の道の映像が頭に焼き付いた。
自分の眼でも確かめておきたいと足を運んだ檜垣町。
間違いなくあった砂の道に感動する。
高さはどれぐらいだろうか。
計測はしなかったが正面から見れば三角山。
その高さを以って長く、長く伸ばした砂の道。
高さがここまでくれば「道」とは言い難い。
どちらかといえば砂盛りである。
参道に入る鳥居の両足に寄り添うような処に盛っていた砂盛り。
正月飾りの松に竹、梅の門松を立てていた。
それにはウロジロを添えて、金銀の水引で括った注連縄もあった。
頭を垂れて参道を行く。
真っすぐ行けば拝殿に着く。
そこには氏子さんが供えたと断定できそうな鏡餅が並んでいた。
向こうの本殿は三方盛りの鏡餅。
拝殿中央も三方盛り。
おそらくは宮守さんが供えたのであろう。
両側には各家が供えたと思われる丸盆盛りの鏡餅。
稀にクシガキもあれば折敷に盛ったものもある。
こうしてみれば壮観に見える。
このような形式で供える村は意外と多くない。
私が拝見した正月御供の鏡餅盛りがずらりと並べているのは数か所である。
檜垣町は本社殿の他、すべての末社にも鏡餅を供えていた。
本日は正月二日であるが参拝者が来られるかも、と思って待っていたが・・・。
どなたにも遭遇できないので鳥居から向こう側の集落を少し巡ってみる。
お年始参りに来ていた家族連れは村の人ではなさそうに思えたので声はかけずじまい。
ぐるりと周回していたら一人の男性が歩いておられたので声をかけてみた。
男性は70歳。
かつて宮守も務めた人だった。
トーヤもしたことがあるという男性の話しによればかつて大晦日の12月31日に砂の道造りをしていたという。
三十八社の神社名の呼び名は「さんじゅうはっしゃ」と呼んでいた。
相撲神社の末社になるというのも平成25年に訪れた際に聞いた宮守さんと同じである。
三十八社は水の神さん。
砂の道を跨ぐことなくお参りするときは砂を盛った線に沿って左側を歩く。
参拝後は右側を歩く。
車道と同じ左側通行であるから参拝者は重なり鉢合わせすることはあり得ない参拝ルールである。
トーヤは一年交替。
40年前に務めたことがあるという。
そのときの年齢は30歳。
若かったから先輩より教わることは聞くのもするのも初めてのことばかり。
お酒が飲めない体質だったから難儀したそうだ。
砂盛りは近くを流れる大和川にある砂を持ち帰って敷いていた。
何故にそういうことをするのか知らないが、大晦日の日暮れのころにしていたという。
ちなみにこの日も常夜燈に刻まれていた年号を調べることにした。
正面より見て右が「明治廿八乙末九月建之」。
左は「文化五季辰(1808)四月吉日」であった。
(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
鳥居の向こう。参道沿いに沿って参っていけば拝殿に着く。
その景観を観てここはどこだかすぐにわかった。
平成25年の6月30日に訪れた天理市檜垣町の三十八社である。
街道を走っていたときである。
人影が見えたので神社行事が判ればと思って尋ねた覚えがある三十八社。
「三十八神社はたぶん檜垣町でしょう。早急に砂盛りの参道道を拝見したく・・。私が聞き取りした範囲では天理市・田原本町は消滅していたと思っていたので驚きです」とメールを送ったのは数日前の大晦日である。
Sさんがとらえた参道にある砂の道の映像が頭に焼き付いた。
自分の眼でも確かめておきたいと足を運んだ檜垣町。
間違いなくあった砂の道に感動する。
高さはどれぐらいだろうか。
計測はしなかったが正面から見れば三角山。
その高さを以って長く、長く伸ばした砂の道。
高さがここまでくれば「道」とは言い難い。
どちらかといえば砂盛りである。
参道に入る鳥居の両足に寄り添うような処に盛っていた砂盛り。
正月飾りの松に竹、梅の門松を立てていた。
それにはウロジロを添えて、金銀の水引で括った注連縄もあった。
頭を垂れて参道を行く。
真っすぐ行けば拝殿に着く。
そこには氏子さんが供えたと断定できそうな鏡餅が並んでいた。
向こうの本殿は三方盛りの鏡餅。
拝殿中央も三方盛り。
おそらくは宮守さんが供えたのであろう。
両側には各家が供えたと思われる丸盆盛りの鏡餅。
稀にクシガキもあれば折敷に盛ったものもある。
こうしてみれば壮観に見える。
このような形式で供える村は意外と多くない。
私が拝見した正月御供の鏡餅盛りがずらりと並べているのは数か所である。
檜垣町は本社殿の他、すべての末社にも鏡餅を供えていた。
本日は正月二日であるが参拝者が来られるかも、と思って待っていたが・・・。
どなたにも遭遇できないので鳥居から向こう側の集落を少し巡ってみる。
お年始参りに来ていた家族連れは村の人ではなさそうに思えたので声はかけずじまい。
ぐるりと周回していたら一人の男性が歩いておられたので声をかけてみた。
男性は70歳。
かつて宮守も務めた人だった。
トーヤもしたことがあるという男性の話しによればかつて大晦日の12月31日に砂の道造りをしていたという。
三十八社の神社名の呼び名は「さんじゅうはっしゃ」と呼んでいた。
相撲神社の末社になるというのも平成25年に訪れた際に聞いた宮守さんと同じである。
三十八社は水の神さん。
砂の道を跨ぐことなくお参りするときは砂を盛った線に沿って左側を歩く。
参拝後は右側を歩く。
車道と同じ左側通行であるから参拝者は重なり鉢合わせすることはあり得ない参拝ルールである。
トーヤは一年交替。
40年前に務めたことがあるという。
そのときの年齢は30歳。
若かったから先輩より教わることは聞くのもするのも初めてのことばかり。
お酒が飲めない体質だったから難儀したそうだ。
砂盛りは近くを流れる大和川にある砂を持ち帰って敷いていた。
何故にそういうことをするのか知らないが、大晦日の日暮れのころにしていたという。
ちなみにこの日も常夜燈に刻まれていた年号を調べることにした。
正面より見て右が「明治廿八乙末九月建之」。
左は「文化五季辰(1808)四月吉日」であった。
(H29. 1. 2 EOS40D撮影)