マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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奈良町の信仰-講の行事とその史料・後期企画展示in奈良市教育委員会史料保存館

2018年09月20日 08時58分00秒 | 民俗を観る
前期の展示を拝見してから、とても忙しくなった。

特に6月半ばから7月にかけてである。

忙しい理由は二つの懸案があるからだ。

民俗行事の取材はそこそこあるが、2件の懸案は大事な案件。

一つは県立民俗博物館の企画展。

第7回目となる今年の「私がとらえた大和の民俗」の大テーマは「水」。

思っていた以上に難儀した。

発想のはじめに出てきた私のテーマは「捻るとジャー」である。

生活に必要な水はどこから湧いてくるか、である。

大阪住之江の町内で育った私はなんの苦労もなく「捻るとジャー」である。

つまりは水道完備ガス見込みで育った戦後の生まれ。

母親の実家は釣瓶のある井戸が水源だった。

三枚構成すべき写真の整理がつかずに断念したが、次から次へと生まれる発想に締切りが近づく。

決め手は発見された尾根に湧きだす山の水は雨乞いの水であった。

纏まったのは締切り日寸前だった。

忙しかったのはそれだけでなく講演会もある。

テーマを決めたのは半年以上も前。聴講される人たちは橿原市民。

そうであれば生活している地域にある民俗行事を紹介したい。

そう思って頭のなかでは構成できるが、いざ整理にかかったらあまりの多さに講演時間を大幅に超えてしまう。

講義は1時間半。

それに見合う行事をどういう流れで上映すればいいのか。

散々悩んでスライドショーで上映する写真の順を決める。

伝えたい行事を、あっちへこっちへ飛ばないように流れを作って〆に持ちこむ。

それにはイントロに何を挙げるか、である。

イントロとエンデイングが決まれば講演時間を考えて並べていく。

こうして作った講演ストーリーに費やした期間は1カ月半。

95%出来上がって施設会場の下見。

それらも済ませて7月21日に終えた。

ほっとしたわけだ。落ち着いた日々が何日か。

ふと思い出したのが「奈良町の信仰-講の行事とその史料」の後期日程だ。

すっかり忘れていた日程は何時までか。

メモを見れば8月6日である。

残り期間はあと数日。

なんとか間に合った。

そう思って出かけた後期展示は山上講と地蔵講。

前期に訪れたときに聞いていた展示物。

館長の話しでは山上講は前期・後期を通じてオール展示。

変化があるのは春日永代太々神楽講・観音講を転じて地蔵講になる。

そろりとやってきた史料保存館。

館内には二人の女性が入館していた。

そこにすっと現れた館長さん。

その女性に解説される展示物は肘塚椚(かいのつかくぬぎ)町の廻り地蔵である。

目が合ってしまったこともあってその女性とともに解説を聞かせていただく。

肘塚椚町にあった地蔵尊は元々が掛軸。

お軸から外して江戸時代に板厨子に納めたものであるらしい。

板紙本著色地蔵菩薩像は傷みがあることから3年前に表装仕直した。

その際に納めていた厨子は処分された。

一年に2度、町内60戸が交替で預かる仕組みがあった。

この日に訪れた自治会長の話しによれば春と夏の2回。

例えば春に預かったお家は夏になれば次の家に申し送る。

送ると云っても、数人が板厨子ごと抱えて人力で運ぶ。

そして次の当番家に移す。

夏に預かって家で祭った地蔵尊は春になれば移動する。

地蔵尊が町内を動いてその都度の家で祭られることから廻り地蔵と呼ばれていた。

県内事例で数か所だけがあるだけに貴重な仕組みの廻り地蔵は負担が大きくなって手放し、どこかに預かってもらって、そこで祭ることにした。

頼んだお寺は元興寺。

それを預かることはできないと断られて、奈良市教育委員会が管理する史料保存館が受託した。

その関係もあって初の一般公開である。

自治会長がいうには地蔵尊の前で西国三十三番ご詠歌唱えていたそうだ。

そのときの作法に数珠繰りがある。

繰る数珠もその回数を数える数取り木札も寄贈された。

その木札に百万遍とある。

つまり数珠繰りは百万遍数珠繰り。

とはいっても百万回も繰るわけでなく百回だったようだが・・。

ご詠歌を唱える時間はおよそ1時間。

23番辺りで一旦は休憩するが唱えている間はずっと数珠繰りをしていた。

ところが町内の数珠繰りしていた人は高齢化。

身体的負担が大きくなって寄贈するということになった。

ちなみに数取り木札は大札と小札組み合わせ。

一回繰るごとに小札は一枚。

十枚になれば大の札が一枚。

こうして大と小の木札で数を数えていた。

また、展示品にやや小型の伏せ鉦がある。

銅製と思われる伏せ鉦は黒光り。

その色具合から300年間も使ってきたように見える。

と、いうのも県内各地でさまざまな鉦を拝見してきたが、その事例に近いのである。

館長曰く、寄贈された際に底面とかを見たが、記銘の刻印はなかったそうだ。

ちなみに肘塚椚町の町名に由来があるという。

肘塚町に付加した「椚」である。

元々は名の無い町に樹齢百年の大樹があった。

大樹である椚のご神木として崇めていたのであれば「椚」を一文字入れて区別化したということだ。

館長の解説を聞いていられた一人の婦人が云った。

所在地は不明であるが、お嫁さんを迎えた旦那さんとともに引っ越した先に地蔵さんの祭りがあった。

旧村の子どもが主役となって数珠繰りをしていた。

ところが旧村の子供が少なくなり、新町も参加できるようになったという。

親は参加していない地蔵さんの数珠繰りに我が子が参加していたので体験話しを聞いていた。

その村は地蔵さんの祭りに提灯を掲げていた。

掲げ方はたまに目にする鳥居型に設えた提灯吊り。

横一列に並べた提灯立てだった。

それが邪魔になったという意見が出ていると話す。

意見の結果はどうなったのかわからないという。

行事を知らない所で育った人の意見であろう。

これまでずっと継承してきた民俗文化は一つの意見によって左右される時代を迎えている。

トンドの火を見て消防車を呼ぶ人もいる時代は今後どうなっていくのだろうか。

展示物はもう一つある。

東向北町が寄贈された町記録古文書の『萬大帳』である。

その文書に「地蔵会式」の文字が見られる。

その項は文久二年(1862)に記載された事項。

「一.六月廿三日地蔵会式に付 町内地蔵尊江御信心御方々より寄進に而 上がりもの左に」、「一. 石花生(石製花活け) 壱本 施主当町 田中 久」とある。しかも、である。「但し高サ三尺 廻り弐尺斗 形丸に而上蓮花に而 下丸なり 年号月日形入有之候」とある。



サイズから形状まで記した石花生は今もなお東向北町地蔵尊祠左横に建っている。

(H29. 8. 3 SB932SH撮影)

箸中・車谷垣内K家の閏年の庚申塔婆

2018年09月19日 11時19分47秒 | 桜井市へ
箸中の地蔵盆はほぼ垣内単位でされている。

隣村の芝もある。

祭りごとには法要どころか数珠繰りも見られない。

ただ、坦々という感じで村人それぞれがやってきては手を合わせるだけである。

垣内によってはそれもせずに地蔵さんの前に座るなり、立つなりしておしゃべりの所もある。

ここ車谷垣内に地蔵盆をしていると知ったのは前年の平成28年のことだ。

地蔵盆のことは別途に伝えておくが、珍しいのは地蔵盆の日に右の庚申さんに「青面金剛」の文字を書いた提灯をぶら下げることだ。

地蔵盆には庚申講の人は現れない。

ずいぶんと昔に解散されたようだが、提灯を吊るしてお供えもする。

地蔵盆の際に庚申さんにも提灯を立てていた桜井市箸中の車谷垣内。

東西を貫く街道筋に40戸の集落。

かつて三輪素麺の原料である小麦を水車でコトコト米ツキならぬ麦ツキをしていた垣内。

今では小さな小川のようになっているが、各戸の家の前を流れる谷川に水車を構築していた。

収穫した小麦を大量に挽いて小麦粉化する水車が多くあったことから「車谷」の名になったという名称事例である。

垣内名の由来を話ししてくださる村人は多い。

なかでも旧家母屋に居を構えるお家の門屋に見慣れた塔婆が残されていた。

庚申講は解散されたが、旧暦閏年の庚申トアゲの塔婆がある。

母屋のご主人の許可を得て撮らせてもらった塔婆に願文がある。

上から五文字の梵字に続いて「奉修 青面金剛童子 天下和順日月清明風雨以時災厲不起國豊民安兵戈無用崇徳興仁務修禮譲 庚申講中功徳成就」であるが、年号は見当たらなかった。

これもまた、庚申講の記念碑である。

(H29. 8. 1 EOS40D撮影)

加茂町・喫茶恭仁の焼きそば

2018年09月18日 09時23分08秒 | 食事が主な周辺をお散歩
午前中いっぱいは笠置町切山の民俗行事の取材。

午後の部の土用垢離も取材をするが、それまではお腹を満たす食事処に向かう。

向かうといっても目的地は決まっていない。

切山にもレストランはある。

村の人が経営しているわけではない。

数か月前に入ってみようと思ったお店はレストラン大扇。

メニューを見て懐の財布に合わない高額定食に涙を呑む。

千円札に5百円玉を要する定食価格の料理に興味をもてないから利用することはない。

では、どうするのだ。

前々から気になっているうどん屋さんがある。

いつ通っても閉店状態だ。

その手前の信号角に喫茶店がある。

いつ見ても駐車する車が多い。

多いということはそれだけの値打ちがある人気店。

しかし、だ。

入店してみなけりゃわからないメニューに商品価格。

注文したとしても食べてみなけりゃわからない。

不安もあるが、とにかくドアを開いた。

テーブル席はほぼ満杯。

とはいってもすべてが団体さんでなく単独のお独りもおられる。

注文を済ませてできあがりを待っているお客さんは話の受け答えから推定するに地元民が3/4。

1/4はビジネス関係者のように思えた平日喫茶の状況である。

メニューは喫茶と食事の裏表表記。

値段ばかりで商品がどんなものなのか写真は一切ない。

つまりは頼んでみなけりゃ正体がわからない、ということだ。

食事メニューは大きくわけて単品と定食。

単品は600円がほとんどで上限は900円のサラダ付カツカレーである。

定食は750円シリーズが圧倒数。

一番の高額定食は800円のカレースパゲテイ定食に焼肉定食、トンカツ定食だ。

なにがお勧めなのか。

注文しようとするころに先に注文されていた料理が運ばれる。

そのほとんどが焼きそばである。

単品注文でなく定食の方だった。

定食には椀盛りいっぱいのご飯がつく。

そりゃ当然だが、あとは味噌汁に香物ぐらいのものだ。

病に陥ってからの私は極端なん小食者になった。

以前ならパクパク食べていたが途中から入らなくなるのだ。

かつての朝食ご飯は盛りいっぱい。

それが今では半分以下に落としている。

豆腐なんてものは一丁も食べられない。

その半分も無理だ。

問題なく食べられる量は一丁の1/4。

それで十分である。

そんな理由をつけて注文したメニューは600円の生玉子付き焼きそばである。

えっ、焼きそばに生玉子。

子どものころはカレーライスに生玉子を落として食べていた。

これが美味かった。

グリコの甘まーいカレーに生玉子。

白身がつるっと喉を通っていくのが魅力である。

すき焼きもそうだが、焼いた牛肉なんぞは生玉子に浸けて食べる。

それと同じようなものでまろやかになるのだ。

尤も昨今の好みのカレーは中辛か大辛に方向転換。

舌がそうなってしまった。

焼きそばに生玉子も食べてみる値打ちがあるかも。

そう期待して注文した。

それから20分後。

ようやく配膳された。

調理は奥で一人がしているのだろう。

注文順に並べたシートがあるのだろう。

それほど多かった客数・・・でもない。

スピード感はどうやら昨今のようなファミリーレストランとは逆方向にあるようだ。

そりゃそうである。

この店に期待するのは間違っている。

テンポの緩やかさが落ち着くのである。

出てきた焼きそばは鉄板プレートにのってやってきた。



ジュウジュウの音は聞こえなかったが、熱いですから気をつけて食べてくださいと伝えられる。

ジュウジュウの音で思い出したレストランがある。

奇しくも切山の節句取材していた4月3日だった。

入店した食事処は木津川市のレストランやましろで食事中に目撃した臨席のジュウジュウも鉄板プレート。

若者はふーふーしながら食べていた。

あれはなんだのか。

焼きスパゲッテイではなく焼きそばだった。

量もボリュームのある焼きそばは650円。

味は食べていないからわからない。

ここ喫茶恭仁の焼きそばは見た目もとにかく多い肉である。

もちろんキャベツの盛りもいい具合。

一口、二口食べて甘い。

ソースはなんであろう。

ウスターソースをちょちょい入れたら濃くなるのだが・・。

塩、胡椒も少ないほうだと思う。

そう思ったら我が家の焼きそばは味が濃い。

毎日でも食べたい料理の最高峰は焼きそばだと思っているぐらいの好みの一品。

もちろん塩焼きそばも食べている。

たんまに、であるが。

では、生玉子を落としてみたら味はどうなるのか。

思った通りのまろやかさ。

これはいける、ね。

生玉子はなんでも合うのであろう。

とても美味しいとは言い難いが、旨い方である。

それは私が一番に揚げる焼きそば好きであるからだ。

ただ、焼きそばは大好きだが、焼きそばパンの焼きそばに旨いものが少ない。

パサパサに焼きそばにはげっそりする。

お弁当の焼きそばも冷凍食品に焼きそばも私の評価は低い。

ただ、100円で売っている日清の冷凍焼きそばはむちゃ美味い。

アレに勝てるものは未だお目にかかったことがない。

木曜日が定休日らしい加茂町の喫茶恭仁の焼きそばの良さはたっぷり入っていた肉である。

これって牛肉ですか、と問えば豚肉ですと返す。

そりゃそうであるが、脂身があまりにも少ない豚肉に飽きがくる。

土曜、日曜祝日は今日以上の客入りになるらしい。

料理時間が気になる喫茶恭仁は駐車場に停まっている量で判断して入店したい。

後日談ではないが、翌日の我が家の昼食は焼きそばだった。

物は試しと思ってできあがりの焼きそばにマヨネーズを落としてたべた。

これが意外と旨いのであった。

実は食べたい焼きそばがある。

それはカレー焼きそば。

どこかで売っていないかな。

ちなみに喫茶恭仁に夏季限定かどうか聞かなかったがぶっかけうどん定食がある。

これもまた味噌汁に香物がついて750円。

これがぶっかけうどん単品なら600円。

お試しに食べてみたいが・・。

私はうどんと云えばほぼぶっかけうどんしか注文しない。

麺の味がわかるのはぶっかけしかない。

温かいうどんなんてものは麺の食感が失われてしまうと思っている。

麺屋の大将もそういう。

その話しを喫茶恭仁の奥さんに話したら、えー、怖いって言葉を発した。

(H29. 8. 1 SB932SH撮影)

笠置町切山・二日目の土用垢離

2018年09月17日 09時43分06秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府相楽郡笠置町の切山を初めて訪問した日はこの年の1月15日だった。

場所だけでも把握しておきたいと訪れた。

その日は寒垢離の初日。

翌日も寒垢離を行っている。

伺った時間帯はすでに行事を終えていた。

他の人は場から離れていたが、そろそろ引き上げようとしていた社寺総代と前総代がおられた。

訪問した主旨をお伝えてして、毎年の1月15日、16日に行われている切山の寒垢離について教えてもらった。

切山はその1月の寒垢離だけでなく、8月には土用垢離もしている。

土用垢離は7月31日が初日で翌日の8月1日は二日目の作法がある。

基本的な作法は同じであるが、初日との違いは垢離の回数だけである。

寒垢離も同じく初日は午前中に2垢離。

社務所で昼ご飯を済ませた午後は2垢離の作法をするが、二日目は、午前が2垢離で午後は1垢離で終える。

初日の7月31日は、同じ京都府の京田辺宮津の茅の輪くぐりの取材に、奈良に戻って月ケ瀬嵩ならびに月瀬の他に桜井市の箸中の行事調査もあったから土用垢離は拝見できていない。

集まる時間帯は1月に訪れた際に聞いていた。

朝に集まってきた男たち。

この年は4人の寺社総代に新旧宮守の2人と宮守経験者の7人で構成していた。

初日にあたってはさまざま作業があるがら二日目よりも1時間早めに集まる。

まずは注連縄である。

垢離をする浅間の井戸(あさまのいど)に浅間神社横にある土山に植わる大樹のご神木。

それと籠り堂の名もある社務所床の間に掛ける注連縄である。



井戸用も土山用も長さ1mの注連縄。

床の間は2mの注連縄。

それぞれに1本ずつ掛ける。

床の間に長めに伐った葉付きの篠竹(シノチク)を左右2本立てる。



土山盛りに挿す御幣は7本。

50cm程度に伐った篠竹(シノチク)に挟んで立てる。

その数は7本。

垢離をする人数分の本数である。

ちなみに切山では篠竹(シノチク)を「ジク」と呼んでいた。

これらは垢離を始める前に調整ならびに設営をしておいたという。

この日は二日目。

籠り堂とも呼ばれる社務所の床の間に浅間神社に供える神饌を供えていた。

神饌は洗米、塩にお神酒。



床の間には浅間神社で灯す行灯もある。

床の間に掲げた掛軸は2幅。

関東の富士山本宮浅間大社から賜った掛軸である。

左側に書けたのが富士浅間大神(ふじせんげんおおかみ)。

右は木花咲耶姫(さくやこのひめ)のお姿である。

掛軸の前に立てているのは3本の金の御幣。

切山に鎮座する氏神社の八幡宮に末社の高良神社、御霊神社に相当する。

なお、床の間付近に立てている詞札がある。

これより始める垢離取りの詞章に浅間神社の参拝真言、般若心経である。

他にも籠り堂の参拝に詠みあげる神名帳詠みもある。

時間ともなれば社務所で着替えた7人は白装束姿。

白足袋に白色の鼻緒草履を履いて出発する。

行灯を手にした人を先頭にみなが揃って浅間の井戸に向かう。



大樹に囲まれた鬱蒼とする森林帯。

井戸手前の参道に鎮座する浅間神社に立ち寄る。

水垢離を終えてからすぐさま作法されるご真言の前に供える神饌や行灯である。



その場に浅間神社の参拝真言の詞札も立てていた。

先に奉っておいて、向かった先が水垢離をされる浅間の井戸である。

浅間の井戸と呼ばれているが、場は八幡宮谷川から谷水を引いた水溜め場である。

水溜め場は砂防指定地の傾斜地にある。

かつては山地傾斜地に設えた石囲いの水溜場。

竹樋で谷水を引いていた。

井戸の周りに板を作法していた。覆い屋などもない状態に冬場に行われる寒垢離は辛かったという。

その当時の状況は、富士市立博物館学芸員の志村博氏が調査・報告された調査報告書が詳しい。

現在は東屋型の覆い屋が建築されたから直接の風当たりは受けることはない。

ただ、夏場はともかく、冬場の寒垢離はやはり寒くて、谷水はとても冷たいという。

地すべり対策が主たる事業の砂防工事は平成13年度から始まって平成26年度に終えた。

その事業に相まって建築された東屋(垢離堂とも)である。



建築された東屋の水溜め場はコンクリートで固めている。

これまでは谷そのものの傾斜地であったが、水平に保たれた場になった。

谷水を堰き止めていた口栓を開けると流れてくる。

ある程度の水深になるまでは時間を要する。

しばらく待てば一定量になる。

水垢離をするには立ったままでもできないし、座ったままでもできない。

板を置いてそこにひざまずく。

一同が並んだところで、垢離始めに手水で清める。



この日の導師を務める代表は一人、一人に谷水を掬った柄杓を手元に運ぶ。

導師以外の6人が清めたら、柄杓は他の人に譲って導師も清めた。

手を清めたら口を濯いで身を清めた。

では、始めますと合図があって始まった水垢離に詞章がある。



「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ」と八ツ唱える際に掌で水を掬って飛ばす。

前方でなく右手で掬った場合は左側に。

左手で掬った場合は右側に飛ばす、という感じで八回繰り返し、連続して「ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」を唱える間も水垢離をする。



これを33回も繰り返す。

33回目のときの水垢離速度はやや緩めて終える。

33回繰り返して1垢離。

およそ5分間であった。

夏場は汗を流すほどの運動量である。

1垢離したら、10分ほどの一旦休憩。

続けて2垢離目の作法をする。

では、お願いしますと合図がかかって始まった。

「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」の唱え詞にチャプチャプの水垢離音が谷間に広がる。

33回の垢離が終わればまた静かな山間地の姿に戻る。

耳を澄まさなくとも野鳥の囀りが聞こえてくる。ホトトギス、イカル、シジュウカラなどの野鳥が鳴く音色に混じって、カナカナカナカナ・・・ヒグラシが鳴らす音も聞こえてくる。

切山に冬場の寒い時季に行われる寒垢離と夏場は土用垢離をしていると教えてくださった人がいる。

平成28年の8月24日に行われた奈良市都祁上深川の富士垢離である。

上深川の富士講の人たちが垢離されると知って来たという大阪在住のF夫妻が、切山の垢離を拝見したことがあるという。

実は、夫妻の話しを聞くまでもなく、切山の寒垢離・土用垢離は先に挙げた『京都府笠置町に伝わる富士垢離について』を事前に読んでいたからある程度のことは把握していた。

「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン・・・」に唱える1から8までの数値である。

富士講或いは浅間講とも呼ばれる講中が夏場の暑い時季に、近くの川に入水する水行がある。

これまで拝見してきた奈良県内の事例である。

奈良市都祁の上深川富士講が営む富士垢離、奈良市阪原町の阪原富士講の富士垢離

また、神社祭祀を務める宮座中が所作される奈良市柳生下町および柳生町の土用垢離がある。

平成29年の5月30日に出かけた奈良市教育委員会史料保存館。

「奈良町信仰・講の行事とその史料」展示企画展で学ばせてもらった富士講行事である。

現在は面影すらないが、次の一文を遺した史料があるらしい。

その一文にあった「南都では、富士登拝のかわりに在所の川に入って入水。身を清める垢離を行う富士垢離が行われていた」である。

奈良町では「毎年六月に吉城川に入って富士講中が垢離をしていたという記録がある」とあった。

何十年も前に途絶えた曽爾村小長尾のセンゲンサンも水垢離をしていた。

川水をかける回数は伝わっていないが、水行に身支度した白装束姿を思い出す長老もおられた。

小長尾の水行の場は曽爾川とも呼ぶ正連寺川であった。

当時、小長尾にあった土用垢離を浅間講はその行事を「センゲンサン」で呼んでいた。

富士講でなく浅間講であった。

切山の水垢離の回数は8回。

私が取材してきた奈良県の富士垢離或いは土用垢離の回数もまた同じ8回。

8回に意味があるとわかったのは、私が公開したブログ記事を読んでくださった大谷正幸氏の教えである。

岩田書院から発刊した『富士講中興の祖・食行身禄伝 中雁丸豊宗『冨士山烏帽子岩身禄之由来記』を読む』の著者である。

論文も多く執筆されている氏が云うには「8」は富士山頂の八つの峰(八神峰)にあるという。

八つの峯を「八葉」と呼ぶこともあるそうだ。

神仏習合に由来する「八葉」は仏教でいうなら八葉蓮華である。

富士山頂の八峰を神仏にたとえた富士信仰。

八つの謎は山頂にあり、ということであった。



33回繰り返した水垢離を終えたら栓を抜いて溜めていた水を流すこの日の午後は3度目の垢離をするが、それまで水を溜めたままにするのでなく、すっかり流して綺麗にしておく。

午後になれば、また東屋に来る。

到着したら、また口栓を開けて新しい谷水を引くのである。

水抜きを終えたら参道にある浅間神社に下っていく。

先に塩、米、お神酒を供えていた。

行灯に火を点けて導師が前に。

手を合わせて拝む詞章は、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」に「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」である。

唱える前にすべきことは神事拝礼。



2礼、2拍手、1礼をしてから唱える。

まずは、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回唱える。

引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回唱えたら、再び神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼をして浅間神社の参拝を2分間で終えた。



ちなみに現浅間神社の建之は平成十年六月吉日と刻印があった。

午後の参拝までは時間がある。

八足台だけ残して籠り堂に戻って切山に関わる神名帳を詠みあげる。



杖の世話になっていた長老は正座ができない身。

膝や腰に持病を抱える人もいるが、正面に掲げた富士浅間大神、木花咲耶姫に向かって、先ほど参った浅間神社のご真言同様に、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回。引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回、唱和した。

そして、最後に神名帳を詠みあげる。

「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊(ごりょう)大神宮、高良(こうら)大神宮、弁天大神宮、九頭(くじつかみ)神社、津島神社、水神宮、山の神様、道楽神社 切山区に 鎮座まします神々様・・・切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊穣にしてくださるよう願い奉る」と締めて神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼で終えた。

こうして午前の部の2垢離を済ませた7人はお茶をいただき一服。

注文していた料理をいただいて、ヒンネ(昼寝)をする。

午後の部の1垢離を始めるまでの時間を籠り堂で過ごす。

こうした在り方は、奈良市都祁の上深川も奈良市の阪原も同市柳生町、柳生下町もみな同じ。

これこそ籠りの在り方である。

その間は一旦切山を離れて取材する私どもも昼食できる場に移動した。

再びやってきた切山。

ヒンネを済ませて身体はすっきりしたという。



白装束に着替えて午前の垢離と同じように作法をする。



先に浅間神社にお供え。

東屋(垢離堂とも)に入って水垢離。



柄杓で掬った水で手を清めて口を濯ぐ。

そうしてから始める1垢離。



「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」。

これを33回。

途切れることなく繰り返す水垢離である。



導師の手が動いていた。「・・・ナムダイボーサツ」と唱えてすぐに動く掌。

よく見れば、何かを動かしているようだ。

終わってから聞いた掌の動き。

それは33回の数取りである。

左手にもっていたカウンターを動かしていたのだった。

かつては大きな葉と小さな葉の組み合わせて数えていたという。

大きい葉は大の位。

小さな葉は小の位の数取りであったろう。

ちなみに垢離(取り)の目的である。

垢離とはその字のごとくである。

神仏への祈願や祭りなどの際に、冷水を浴びて身を清めるとある。

清浄な水を利用して不浄を取り去る行為。

川に入水するなど、禊ぎでもあるが、回数はなぜに33回なのだろうか。

富士講や浅間講に限らず、33回とする地域は多い。

大宇陀地方の栗野で行われている垢離は33回。

隣村の野依もそうであった。桜井の瀧倉、修理枝もかつてしていた願掛けの在り方。

奈良市都祁相河町では薬師籠りに33回の垢離取りをしていた婦人も居たが、いずれも何故にその回数なのか知る人はいなかった。

かつての水垢離は身体に水を浴びて行をしていた。

頭から水を被る行であったという。

水垢離を終えたら午前の部と同じように浅間神社に参る。



「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回唱えて、引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回。

八足台も行灯もすべて引き上げる。

次は籠り堂で行われるご真言に神名帳の詠みあげ。



「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回。

引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回。

「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊(ごりょう)大神宮、高良(こうら)大神宮、弁天大神宮、九頭(くじつかみ)神社、津島神社、水神宮、山の神様、道楽神社 切山区に 鎮座まします神々様・・・切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊穣にしてくださるよう願い奉る」と締めて神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼をもって二日間に亘って行われた土用垢離を終えた。

この年の1月15日に訪れた際に聞いていた在り方がほぼわかった。

そのときに云った「寒垢離も土用垢離も、作法に詞章唱和はまったく同じ。二日間とも見ても同じやから・・」がよくわかるが、写真は撮りようによって違いがでる。

撮影者の腕がものいう取材であった。



二日間に亘って行われた長丁場の垢離を終えた一同はお神酒をいただいて一段落された。

左方の合間に切山の年中行事を教えていただく。

一つは4月3日に行われる節句である。

ヒシモチを供える節句はこの年に取材させていただいた。

気になるのは正月の1月1日に行われる元日祭である。

この日は切山の初祈祷。乱声(らんじょう)と呼ばれる作法がある。

乱声は仏事。

かつては神宮寺があったという証拠である。

朝早くに集まる寺社総代に宮守さん。

ごーさんと呼ばれる宝印がある。

“午王 八幡宮 宝印“の文字があるというごーさん札にその宝印をもって朱印を押している。

そのごーさん札は柳の枝に挟んで供える。

本社殿に登って般若心経を二百巻唱える。

心経10巻でも長いのに二百巻も所作されると思いきや、「ヤーテ ヤーテ」の繰り返しだという。

単調であるが、百巻目と二百巻目に鈴を鳴らすそうだ。

その間、である。

籠り堂に待機していた人は柳の枝木で縁板を叩く。

その際に揚げる「ランジョー」。

叫ぶように声を揚げるというから、オコナイの作法に違いない。

また、正月三日間は自宅から布団を運んで籠りをしていた。

亥の日である。

初穂にウスヒキをした米は糯米であろう。

亥の子の餅を搗いていたその日は宮司が出士されて神事をしていた。

8月28日は二百十日の願掛け。



数週間後の9月15日は願すましがあるという切山は山間地。

鹿に猿、猪、狐にヌートリアまでがやってきて切山の田畑を荒らしているという。

(H29. 8. 1 EOS40D撮影)

京田辺市宮津の茅の輪くぐり

2018年09月16日 10時04分04秒 | もっと遠くへ(京都編)
茅の輪の設営具合を拝見した30日

御幣を手にして茅の輪を3回潜っていた婦人が話してくれた。

潜るのは決まった時間でもなく、集落の各家のめいめいが自由な時間にしているという。

集落道際に茅の輪を設営する京都府京田辺市の宮津。

宮津の集落戸数は40戸。

垣内は白山神社が鎮座する白山を中心に屋敷田、北浦、宮ノ前、塚本、鳥羽田などがある。

茅の輪を立てた地区は北浦垣内。

茅の輪に近い地区の人はその存在に気づく機会が多いことから、潜られる人も多い。

逆に北浦垣内以外の人は場から離れているから気づくのが遅れる。

茅の輪潜りは7月31日に決っているが、つい忘れてしまうことがある。

近くであれば気づきで思い出す。

通ることもない離れた垣内の人は気づかずに終わってしまうこともあるようだと話していた。

ちなみに、前日にお会いした婦人は北浦垣内の住民。

買物帰りに茅の輪の存在を知って潜ったという。

朝早くに潜る人もいるらしい宮津の人たち。

その姿を一人でも拝見できればいいと思って再訪したのである。



北浦垣内に到着した時間帯は午前8時半。

サラリーマンの人であれば潜ってから出かけたのであろうか。

見張りをつけているわけでもないから実態は不明である。

昨日に訪れた時間帯は午後4時半。

夕方近い時間帯と朝の時間帯では光の具合が異なる。

夏場の朝はお日さんが燦々である。

夕方よりも光が明るいから、その状況も撮っておこう、とあっちこちの方角から撮っていた。

昨日と大きな違いは御幣である。

昨夕は村神主のYさんの判断で夜露に濡れないようにどころか雨は降るやもしれないので、御幣にビニール袋を被せて保護したと云っていた。

今朝の茅の輪には袋がない。

今朝は天気の良い快晴の日。

これなら大丈夫と判断されたYさんは朝早くに外したそうだ。

本来の姿になっていた茅の輪をカメラに収める。

朝の8時半から9時前までの時間帯はどなたも来られない。

この日の気温は何度であったのか存知しないが汗がどっと落ちる暑い朝だった。

撮っているときにバイクの音が聞こえてきた。

集配達の人であろうとおもったら、そうではなかった。

茅の輪を設営した南側にゴミ捨て場がある。

そこに袋に詰めたゴミを捨てに来た婦人である。

この日はゴミの収集日。

カラスなどに喰われないよう囲ったゴミ捨て場に入れた婦人は再びバイクに乗ってエンジンをかけた。

用を済ませて家に戻るのだろうと思っていたら、茅の輪に向かってバイクを近づけた。

恐る恐る尋ねた茅の輪潜り。

ゴミ捨てのついでに潜るというので慌てて許可取り。

取材の主旨を伝えて承諾される。

「髪の毛は乱れているし、格好もこんなんで恥ずかしいわ」、と云いつつもはじめた茅の輪潜り。



あんばいカメラを構える間もなくシャッターを押し続けた。

婦人は茅の輪に挿してあった御幣を1本抜く。

左手に御幣をもって茅の輪を潜る。

方角的にいえば南から北に向けて跨ぐ。

左に廻って出発点に戻って再び潜る。

反時計廻りに3回繰り返す茅の輪潜りである。

手にしていた御幣を茅の輪に挿した婦人はバイクに跨って自宅に戻っていった。

茅の輪の場は再び静寂状態に戻った。

またしばらくは茅の輪付近に佇んでいた。

たまたま遭遇した婦人に撮らせてもらった貴重な写真。

この場を借りて感謝申し上げる次第である。



そろそろ引き上げようとしたときである。

昨夕にお会いした婦人もやってきたがゴミ捨てに、である。

おかげさんで記録することができたとお礼申し上げた婦人は「・・・みなづきの・・・」を唱えながら潜っていたが、バイクの婦人は心で唱えていたのだろうか、お声は聞こえなかった。

婦人が云う。

ゴミ収集車が来るまでの時間帯に間に合うように捨てにくる。

朝7時前後から大勢の人たちがゴミ捨てのついでに茅の輪潜りをしていたようだと話していた。

(H29. 7.31 EOS40D撮影)

京田辺市宮津・集落道の茅の輪

2018年09月15日 09時41分44秒 | もっと遠くへ(京都編)
とあるブログが公開していた画像はこれまで見たことのないような光景だった。

その景観に唖然と見ていた。

紹介されていた地域は京都府京田辺市の宮津である。

毎年の伝統行事に茅の輪潜りがある。

これまで私が拝見してきた茅の輪潜りの場はほとんどが神社である。

尤もお寺さんにおいても茅の輪潜りがある。

東大寺は解除会。

法華寺は蓮華会式に茅の輪潜りがある。

かつて大和郡山市井戸野町の常福寺も茅の輪潜りがあった。

お寺さんの茅の輪潜りは数少ないと思うが、宮津の茅の輪潜りはお寺でもなく、神社でもない集落の道端に設営である。

茅の輪を潜るのは宮津の人たち。

茅の輪潜りの際に唱える詞がある。「みな月の 夏越のはらひする人は 千歳(ちとせ)の命 延ぶといふなり」であるが、宮津では唱える作法はないように思える。

その不思議な光景を見たさに訪れた。

茅の輪を作って設営したのは宮さん行事を斎行する朔日講の人たちである。

そのことを知ったのは平成28年の12月30日に訪れた白山神社の砂撒きのときだった。

講中の了解を得て拝見した神社の年中行事・朔日講宮守覚書に茅の輪設営の段取りが書いてあった。

茅の輪を作る日は7月31日より前の日曜日。

朝早くに講中が白山神社に集まって製作する。

設営は30日の夕刻。

設営が終れば、2本の小幣を茅の輪に挿しておき、集落の人たちが、以降いつでも参ることができるように調えておく。

茅の輪を撤去するのは7月31日の夕刻とあった。

拝見したいのは設営状態である。

その設営の場は集落のどこであるのか探索したく夕刻に訪れた。

夕刻であれば設営は終わっているだろうから、と思って出かけた。

まずは白山神社である。

神社、境内にはどなたもおられない。

ある人のブログに公開していた集落の道端はどこになるのか。

探す集落道のだいたいは把握している。

平成28年の12月31日に行われていた籾御供配りに同行したことがある。

時間的な都合もあって集落半分くらいであるが、たぶんにこの道であろうと推定していた。

車を走らせて見つけた設営地にはどなたもおられないが、こんな光景は初めて見る。

円形に整えた美しい姿で立てていた場は今まで見たことのない景観を描く。



とても珍しい景観を目にしたときの感動は忘れることはないだろう。

あり得ない場所に立てていた茅の輪を目の前にしばらくは佇んでいた。

設営された茅の輪をじっと眺めていたら、違いがあることがわかった。

茅の輪の材料は茅でなく笹である。

宮守覚書にも書いてあった材料。

製作日までに調達した材料は笹。

自生する竹を伐って笹の葉を集める。

葉だけでなく枝付きの笹の葉である。

材が笹であっても形は茅の輪である。

数本の笹の葉を束にして崩れないように荒縄で縛る。

製作工程は拝見していないが、一人や二人ではできない作業であったろう。

しばらくその場で佇んでいたら近くに住む婦人がやってきた。

ほんまは明日に参るのであるが、今から潜ろうとしていた。

撮影許可は得ていないからカメラは構えていない。

婦人の話しによれば、つい先ほどに買い物から戻ってきたばかりだという。

出かけるときは立っていることに気がつかなかったそうだ。

出かけるときの時間帯はわからないが、その時点ではまだ設営ができていなかったのだろう。

買物を済ませて戻ってきたら茅の輪があったという。

立ててあるから、「今日のうちにしやなあかん」と思って潜ったという。

潜る際に手にする御幣は茅の輪に挿してある。

一晩中、茅の輪に挿しておく御幣が夜露に濡れてしまっては、不味いのでビニール袋を被せていた。

その袋を外して竹に挿した御幣を手にする。

そして茅の輪を潜る。

潜る回数は3回である。

唱える詞章もなく3回潜って参拝を終える。

3回潜ることによって半年間の穢れを落とす。

そう思うのである。

ちなみに婦人が云うには、茅の輪の設置場所は毎年が同じ。

集落道の中央でなく端寄りに立てる。

潜るのは端寄りでなく集落道の方である。

逆に端寄りを潜れば土手側になる。

斜めの土手側を潜れば土手下に落ちることになるから、道側を潜る。

婦人の話しによれば、茅の輪潜りをしている際に、「・・・みなづきの・・・」と云いながら潜っていたそうだ。

詞章すべてを唱えていたのかどうかわからないが、夏越しの祓え詞だったようだ。

婦人はかれこれ40年間もずっとそうして潜っているという。

「みなづき」と云えば思い出す和菓子の「水無月」。

京都人は皆月といえば、自然と和菓子を思い起こすようだ。

この日の目的はもう一つある。

宮守こと村神主を務めるYさんが住む家を訪ねることである。

訪ねる目的は大晦日に行われた籾御供の印判である。

村神主は一年間のお勤め。

一年ごとに繰り上がっていく。

その宮守交代は2月行事。

御供配りを撮らせてもらったYさんから宮守を引き継いだYさんを訪ねた。

まずは茅の輪の件である。

この年は作業が捗って茅の輪は午前10時ころには出来上がっていた。

夕方にまた一同が集まるのを待たずに、作り終えてすぐに設営したという。

Yさんが云うには、茅の輪を設営した場は、子どものころからずっと同じだという。

材料も茅でなく笹の葉だった。

なぜに集落道にあるのか村の人に聞いたことがないからわからないという。

この年の設営は前日の7月30日に立てた。

潜るのは翌日の31日に決っているというから夏越し祓であろう。

ところで御供配りの紙である。

朱色の判で押した文字は「白山神社 神饌」である。



特にそれ以外の文字はなかった。

気にかけていた紙はこれでなく、正月の1月1日行事に供える紙であった。

五穀豊穣を祈る印がある。

「牛玉」文字にごーさんの宝印を押していた紙であった。

手元にはないが、その紙はお札。割いた竹に巻いているという。

平成23年の1月1日に行われた朔日講行事のことは京都新聞が取材して発刊している。

その誌面に、「伝統の印しは五角形の紙片におし、柳の枝を割って挟む」とあった。

当時は柳の木であったが、現在は竹に移ったようであるが、Yさんがいうにはそのお札は苗代作りの際に立てていたそうだ。

(H29. 7.30 EOS40D撮影)

マルちゃんのあつあつ牛すきやきうどん

2018年09月14日 10時02分43秒 | あれこれインスタント
昨日までの身体は軽かった。

リハビリ歩行運動も快適だった。

毎朝の体重計が楽しみである。

三日前の26日から連続3日間の体重が67kg台。

それまでは68kg~69kgをウロウロしていたけど何故に下がったのか。

原因は今のところ掴めていない。

今朝も体重は67kg台であるが、なぜか重たさを感じる。

排便がうまくいってないからだと思う。

ところで本日の昼食は買い置きのインスタント麺。

以前に食べたことのあるすき焼きうどんであるが、これがそうだったのか記憶にないから、ほんまにっという感じだ。

あっちやこっちやのスーパーを探してみたが見つからない。

格安スーパーでもなかったような。

たしか天理のコスモスだったと思うのだが・・・。

すき焼きうどんがとにかく旨かった。

もっぺん味わいたいと思って購入していた1カップ。

ずいぶん前に買っておいたものだから賞味期限が徐々に迫ってくる。

まだまだ期間は余裕であるが、本日はこれに決めた、というか、一番近かっただけだ。

ただ、塩分含有量は5.6gである。

危険水域に近い含有量に多いなぁとため息はでるが、数か月に一度ぐらいは堪忍して、である。

しかし、それにしてもこの日も暑い。

朝からクマゼミがガンガン鳴いている。

三日前の26日は、ごく近い所からアブラゼミの鳴き声が聞こえてきたが持続しなかった。

この時期のあつあつうどんであるが、クーラーをガンガンきかして食べるしかないだろう。

カップ麺の上蓋に書いてある謳い文句。

「すき焼きをイメージした濃厚感のある甘辛つゆ」の味が忘れられないのである。

よくよく見たら食べ方まで指南してくれる。

「つゆたま」でさらにおいしいという表記である。

「つゆを入れた溶きたまごにつけてたべる」、とあるから別途に生玉子を溶いた器を用意しなければならない。

沸騰したお湯を注いで5分間待つ。

その間に溶きたまごを準備する。

5分間待って蓋を開ける。

その瞬間は熱々だ。

液体のつゆを袋から絞り出してカップに落とし込む。



混ぜなければつゆが入っているようには見えない。

僅かであるが、薄っすらと濃い口つゆの色がわかる。

うどんのあつあつ牛すきやきうどんの具材は味付け牛肉に味付け油揚げ。

大きく切ったネギもあるが、これだけが中国産だ。

その横に溶きたまごを入れた器を置いて撮っておいた。

この段階ではたまごは溶かない。

生玉子がどんなんかな、っていうことで横に置く。

液体スープを入れていたすき焼きうどんを混ぜたらわぁーと湧いて真っ黒な水面になった。

一瞬そうなったが、しばらくしたらやや落ち着いた感の真っ黒である。



その横の生玉子も溶いた。

箸でぐちゅぐちゅ混ぜるのではなく、白身を箸で切るという方法である。

私は子どものころからそうしてきた。

白身の食感、とういか、つるっと感を味わいたいのである。

そこに少しだけうどん麺をよそった。

どれどれどんな味がするのか・・。

期待感が膨らんだが予想に反してぬるい。

すき焼きの味はどこにもない。

そうだ。忘れていた。

上蓋に書いてあった「つゆを入れた溶きたまごに・・・」を失念していたのである。

すき焼きうどんんのつゆを3杯ほどスプーンで掬って器に入れる。

玉子が若干濃くなった。

もう一回、うどん麺を入れて食べてみる。

さっきと違って玉子もうどんも味が濃くなって美味しい。

前回はこういう食べ方はしていない。

とにかくガッツリ食べたすき焼きうどん。

甘い醤油味はとても濃い。

うどん麺とともに口に運ばれる。

これもまた美味かったがお勧めの方法で食べたらそれ以上に美味しいのである。

またまたファンになってしまったマルちゃんのあつあつ牛すきやきうどん。

どこかで目にしたらまた買っておこう。

(H29. 7.28 SB932SH撮影)

箸中・車谷垣内の地蔵盆

2018年09月13日 08時29分38秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の車谷垣内に地蔵盆があると知ったのは前年の平成28年7月24日だ。

大字箸中の地蔵盆はここで紹介する車谷垣内の他、下垣内に中垣内がある。

しかも中垣内には南垣内もあれば川垣内、上垣内の分かれ垣内もある。

垣内によっては23日、24日の両日もあれば、24日だけに限っている場合がある。

車谷垣内は後者になる。

東西を貫く街道筋に40戸の集落が建ち並ぶ車谷垣内。

かつては三輪素麺の原料である小麦を水車でコトコト米ツキならぬ麦ツキをしていた垣内。

今では小さな小川のようになっているが、各戸の家の前を流れる谷川に水車を構築していた。

収穫した小麦を大量に挽いて小麦粉化する水車が多くあったことから「車谷」の名になったという。

この水車は玩具である。

装置していた場は現在の主街道ではなく、元々あった里道(里道)に流れる水路にしていた。

水路とは反対側に建ち並ぶ民家裏手にある川はせせらぎ。



ずっと下っていけば国津神社前に着く。

地蔵盆の日であるが、右にある庚申さんに「青面金剛」の文字を書いた提灯をぶら下げた。

地蔵盆には庚申講の人は現れない。

ずいぶんと昔に解散されているのだが、提灯だけが今もこうして吊っている。



毎日の夕刻に廻り当番がやってくる。

当番を示す道具に蝋燭、線香、マッチに賽銭収納箱がある。

それを持って地蔵尊や庚申さんに大神宮の石塔に燈明をあげる。

それが当番の在り方である。

4月に尋ねた婦人はいつも番が廻ってくるたびに線香鉢を掃除していると話していた。

線香の残り灰が鉢に溜まる。

溜まれば線香を立てるのが難しくなる。

そうであれば、毎回清掃している。

かたや、ある婦人は家で栽培している花を飾る。

地蔵尊に赤い涎掛けがある。

その涎掛けを洗う人もいるという。

心優しい人たちで守られている地蔵さんは年に一度の祭りがある。



御供は当番の人が先に供えていた。

日暮れはまだまだ時間はあるが、何人かがやってきて地蔵さん、庚申さんに手を合わせる。

垣内の上から、下からやってくる。

皆は歩いてやってくる。



独りでくる人もおれば声をかけた隣同士で連れ合ってやってくるのは高齢のご婦人たちだ。

若いお母さんは子どもの手を引いてやってくる。

孫さんも連れてくる家族もおられる。

来る人、来る人に了解を得て撮らせてもらう。



乳母車に乗せた赤ちゃんもやってくる。

一挙に膨れ上がった地蔵盆の参拝者。

これほど大勢の人がやってくるとは・・・。



高齢者、若い夫婦、子供に幼児。

ここでも交わされる言葉は「あんた大きゅうなったね」だ。

参拝を済ませたら、会所に寄り合って、持ってきた家の料理をよばれる。

女性ばかりの会所に男性は居辛い。



それにしても今年の会所に提灯が見られない。

昨年に訪れたときは6個も吊っていた。

そのことを当番さんに伝えたら、そうでしたか、である。



昨年の平成28年7月24日に撮影していた会所の提灯である。

今年はこれがまったくなかった。

会食を終えた子どもたちは楽しみにしていた金魚すくいがお待ちかね。

お弁当を食べて時間を持て余す子どもたちは、会所の外で地蔵さんの記念写真。

ではなく、自撮りである。地蔵さんは被写体になっていない。



微笑ましい子どもたちの様相がとても素敵で思わずシャッターを押した映像は、もちろん地蔵さんを入れて、である。



垣内の地蔵盆の〆は金魚すくい。

小さな子どもから小学生の子どもに混じって大人の女性も参加する金魚すくいに盛り上がる。



初めて体験する幼児も上位の子どもがすくう仕草を真似して、一匹すくえたーと喜ぶ顔が膨らんだ。

名人の誕生に一歩近づいた金魚すくい。



すくった金魚はナイロン袋に入れて持ち帰る。

すくった金魚は川に流さず、予め用意していた水槽に入れて見るのも楽しみの一つ。

水温に注意しておけば長生きするだろう。



こうして夏の始めの地蔵盆を楽しんだ村の人たちは家路についた。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

新地・行者堂の地蔵盆

2018年09月12日 09時36分56秒 | 田原本町へ
かろうじて地蔵盆の状況がわかった南町材木町を拝見して車を走らせる。

旧町を通る道は一方通行に狭い道ばかりだ。

走らせるといっても時速は遅い。

メーターは20km以下。

両サイドの筋道にもあるのか、ないのか、キョロキョロ目で探してみるが、一向に見つからない。

諦めて旧町を離れようとしたときである。

時間帯は午後2時半。

場所は旧町の南の端にある新町である。

南町で拝見したような笹に括り付けた赤白の布が見えた。

そこで緊急停車。

通行の邪魔にならない場所に停めさせてもらって町の人に伺った地蔵盆。

午後の3時には住職が来られて法要されるというのだ。

急なお願いであったが承諾してくださった。

取材させていただけるのは、たいへんありがたいことである。



子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立ては何枚あるのだろうか。

白色が男の子で赤い色は女の子。

奉納してから一年経てば笹に括り付ける。

旗に奉納された年号がある。

平成3年、4年、11年、17年、22年の平成生まれもあれば昭和生まれも何枚かあった。

一枚、一枚を捲って見えるようにしたいが、それは無理。

見える範囲内で調べてみれば昭和51年、昭和55年があった。

「私の子どもやけど、もう42歳になるんや」と云う。

随分前の奉納であるが、綺麗に洗って丁寧の折りたたんで残していると云う。

南町の婦人は笹に飾った子ども祝いの奉納旗は整理していると話していた。

婦人が云うには、大きくなって今では町を離れた子どももいる。

いないか、いるのかもわからないケースもある。

不安性のある子どもの存在に「この子はもうおらんやろう」と除外しているが、新地はずっと残しているそうだ。

地域性によって判断に若干の違いがみられる事例であった。

新地の地蔵尊は地蔵盆のときにだけ移動するという。

地蔵さんが普段におられる場は東を南北に流れる寺川沿いの祠に納めている。

その場で地蔵盆をするには車の往来を気にしなくてはならない。

狭い上に堤防地の斜めに立つ位置。

雨が降っては祭り難い場所。

そこで決めたのは、年に一度の地蔵盆だけは移っていただきましょう、ということで、すぐ近くになる行者堂に来ていただくことにした南の地蔵尊。

前日の夕方までに抱えて行者堂に運ぶそうだ。



史跡案内板に書かれた由来によれば「延享三年(1746)、行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に“本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四拾三間、南北三間 但シ無年貢地”とあり、“この場所から卍模様の小型軒瓦があった”と書いていた。明治時代、地蔵堂が廃絶のため、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、熊野地方から伝来したとされる後鬼像を“戸久屋”の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺に預けた。大正三年頃に風邪が大流行し、これは、役行者倚像、前鬼像、後鬼像を新地で祀ることのなくなった祟りであるので、新地青年団が中心に田原本町陣屋町総堀の三前ほどの南堀を埋め立てて行者堂を建立し、現在に至る」とあった。

ちなみに、ここ新地の行者堂は役行者椅像を安置する田原本町の「御佛三十三ケ所巡礼 第十七番」の一つ。

毎年4月の第一日曜日に加持祈祷の春季護摩法要をしているそうだ。

寄贈者を募り大金を捻出されて昭和34年10月に新造された現在の行者堂。

そのときに新調された幕は三像を安置する前に張って本誓寺住職を待っていた。

本誓寺住職が新地の行者堂に来られる時間帯。



いっこうに、やってくる気配がない。

自治会長さん他、役員の人たちは地区周辺を巡って、今、どこで法要しているのか探された。

現在は近くの大門西に来ていると伝令が戻ってきた。

その次は大門中。

そして大門東などなど。

新地に到着するまでの待つ時間が伸びていくそのころ。

町内の人たちと話していた男性と目があった。

思い出した男性は田原本町法貴寺に住むMさん。

お家まであがらせてもらった元田原本町教育委員長である。

届く年賀状には「いつもブログ拝見し、参考にしています」と書かれているから恐縮する。

その場に慌てて駆け込む男性がおられた。

何故にここにおられるのか・・。

男性が住まいする地は田原本町の佐味。

7月3日にカンピョウ干し作業を取材させてもらったFさんだった。

たまたま立ち寄った新地に見たことのある車が停まっていたので、もしかとしたらと近寄ったら、私だったというわけだ。

何という奇遇であろうか。

ちなみにここ行者堂に掲げている史跡の案内板の写真・文は奈良県文化財保護指導員のNさん。

みなさん、ほんまにお世話になっている。

この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

結果的に云えば本誓寺住職が法要に走ってこられた時間帯は午後4時。

例年通りの時間帯に始められた。

蝋燭、線香に火を灯して法要をされる。



町内の人たちも手を合わせて拝む。

その時間はほぼ2分間。

待っている方が圧倒的に長かったわ、と話す。

参拝されていた町内のある人は行者堂での法要を済ませた住職を我が家に案内すると云っていた。

そこまで着いていくことはしないが、旧町は、自宅内に地蔵尊を安置している家も何軒かあるようだ。

住職が離れたあとの行者堂の飾り付けである。

お供えはばらして分ける。

笹を下ろして紅白の祝い旗も片づける。

かつては大鍋を炊いて作っていたカントダキもあった。

子どもたちには握ったおにぎりも。

盛夏だからスイカも出して食べていたそうだ。

そのころの行者堂の地蔵盆は賑わった。

いつの間にか、町内から長男は出ていくわ、町内は年寄りが多くなった。

回覧を廻すと同時に町内会の集金もする。

そのときに住民の存在を確認する。

昨今は安否確認のようになってしまったという新地もかつては立山も造っていた。

紐を引っ張ったら動く立山だったと回顧される。

ちなみに行者堂に移して地蔵盆をするようになったのは20年前。

いやもっと前だったかもという人も何人かがおられたことを付記しておく。

自治会長ら参拝者に急なお願いして取材をさせてもらった田原本町新地・行者堂の地蔵盆。

終れば元の祠に戻される。時間帯はすぐではないので、場所だけでもと聞いて探してみればあった。



開いていた扉の奥は空っぽであったから間違いない。

新地は22軒。

昔は遊郭もあった町。

北から南へ繋がる中街道の名もある下ツ道は山上詣りのルートにもなっているという。

室町時代、浄土真宗などの寺院や坊を中心に形成された田原本町

寺院が中心体に集落構成の地域を寺内町と呼ぶ。

寺院信者に商工業を寄せ集めた自治の町を守るための構造は濠に土塁を構築した。

奈良県に見られる寺内町は、ここ田原本町の他に橿原市の今井、大和高田市の高田、広陵町の箸尾、御所市の東御所、下市町の下市、吉野町の飯貝などが知られる。

田原本町のHPによれば田原本町の概要は、水陸交通の要衝の地にあることから、中心旧町になる田原本地区は中世に楽田寺の門前として開け、近世は浄土真宗教行寺の寺内町として発展した、とある。

水陸交通と云えば東に流れる寺川がある。

陸は古代の幹道である下ツ道。

中世は中街道と呼ばれた大動脈であった。

江戸時代は交代寄合(参勤交代を行う格式畑旗本家の平野氏の知行地)であった。

平野氏の陣屋町として栄え“大和の大坂”といわれるほど商業が盛んとなったとある。

陣屋は、文禄四年(1595)の戦い賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰が拝領した田原本村の地に二代目長勝が寛永十二年(1635)に着工したそうだ。

長勝は支配権が対立する軋轢があったことから寺内町形成を進めていた真宗教行寺を田原本町の箸尾に転座させ、陣屋を慶安四年(1648)に竣工、明治四年(1871)の廃藩置県までを代々が継いできた平野家であるが、正式に田原本藩になったのは最期の領主の長裕のわずか3年間であった。

平野家の菩提寺である浄土宗本誓寺は元々八幡町であったが、二代目長勝が正保四年(1647)に教行寺の跡地に移した。

本誓寺南にある浄土真宗浄照寺(創建時は円城寺)もまた二代目長勝が創建である。

いわば、平野家が陣屋、寺院を配置して町を形成してきたかのようである。

当時の寺内町の区域はどこまでか判然としないが、町名をみれば理解しやすい。

三輪町の他に味間町、堺町がある。

三輪は桜井、味間は田原本町旧村の味間に大阪の堺町である。

中心部は本町、市町、魚町、茶町、材木町がある。

大和郡山の城下町でもそうだが、これらの町名でわかるように、また、日本各地にある城下町と同じように本町、市町(※市場)、魚町、茶町、材木町がある。

濠で防御した城下町もまた門がある。

ちなみにかつての郡山城の外堀に九条町大門があった。

外堀の北にあった大門である。

その他、北東に鍛冶町大門、東に高田町大門、南に柳町大門。

4つの大門があった。

田原本町に話しを戻す。

本誓寺、浄照寺に出入する濠に橋を架ける。

その橋に門があった。

いわば関所のようなもので門番がついていた大門中。

その両サイドに大門西、大門東もあれば、殿町もある。

浄土宗本誓寺が元々建っていた八幡町もあれば、祇園町、戎通、廓町もある。

他にも南町、根太口、小室、幸町もある寺内町であるが、本村には江戸時代以前(西暦927年の延長五年以降の創建)より牛頭天王を祀る祇園社だった津島神社もある。

津島神社の創建は寺内町が形成される以前からあった。

明治時代中頃に書写された棟札に天治二年(1125)があったことからわかる創建年代。

津島神社の神宮寺は京都祇園社と同様に感神院があった。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

材木町・濠水路にある地蔵盆

2018年09月11日 09時52分32秒 | 田原本町へ
田原本町の中心部。

三輪町・南組の地蔵盆を拝見して北組に向かったが、跡形もなかった。

ぐるりと方角を替えて西の筋道に入っても同様。

地蔵尊の祠は多数見られるが、どこもかしこも店仕舞い。

住職の法要をしてもらったら、直ちに仕舞うようだ。

若干は残っているものの撮るとこまではいかない。

車窓から眺める次の筋道に提灯が見えたが、一方通行の道ではハンドルを切れない。

仕方なくそっち方面に行ける道を探して迂回。

ようやく見られた地蔵尊は材木町のようだ。

濠水路にあった地蔵盆は終わっていない。

用意している蝋燭も線香も火点け前。

住職がいつやってくるのかわからない。

訪ねたい家もあるが、車を停車したら人も通れない幅しかない道に置くわけにもいかないからさっさと撮って車を移動する。



後日、撮った画像を、じっくり眺めて見れば仏飯は山盛りだった。

ニンジン、ピーマン、ナスビの盛り椀に乾物のシイタケ、カンピョウ、コーヤドーフにマメをのせたのは愛嬌のようにも見える。

右上の椀は大葉にのせた茹でのコエビ。

左下の椀はキュウリの漬物に黄色いコウコが良い。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)