マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

預かってもらっていた貴重な農用具のブトクスベが戻ってきた

2024年11月20日 07時39分15秒 | 民俗あれこれ
県立民俗博物館の現在は、一切の寄贈を受け取らない。

溢れてきた博物館収蔵庫の中から、選んで展示する物品は、種類からして多くある。

多くあるから、民俗の謎が解けることもある。

尤も、収蔵品だけでは判明できず、他の施設から知恵と情報と物品をも借用するなどして企画展の内容を深め展示をしてきた、ように思える。

と、いうのもときおりであるが、民俗をとらえた写真展示に協力依頼をいただく場合がある。

つい、先日まで展示していた本館内で開催していたひなまつり展示にも写真提供している。

おまけに、自費で収集した民俗行事に関連する祭具も展示してくださった


写真は、若干の補正を許可しているが、私がとらえた映像である。

五條市・南阿田で行われている流し雛の1シーン。

展示物品に、川流しに千代紙でつくったおひなさんを流す竹皮の小舟。

以前に寄贈していた竹皮の小舟である


かつて26行事、それぞれの行事写真を提供したことがある。

テーマ企画展の「移動―ヒト・モノ・カミ―」。

その解説に、神も、仏も、人も、地蔵さんも動く、とある。

その動く、つまり移動において運ぶ役目にオーコや籠も、すべてが民俗。

実は、民俗写真は積極的に集めてこなかった。

あったのは、おそらく収蔵する際に撮っていた記録であろう。

展示の解説補助に、視覚に訴える考えは乏しかったようだ。

学芸課だけでは、収集するまでは至らない。

企画展といえば、民具、用具などの物品。

その道具を使っていた人たちが、生活、暮らしのなかで使ってきた体験しかない。

人、さまざまなあり方に、一様的要素は多様だ。

学芸課から依頼された写真は、記録でもあるし、解説の補助資料として用いられる。

私の記録は写真だけでなく、手で触れることができる民具や用具、祭具などもできる限り収集してきた。

藁製がほとんどであるが、これら祭具は、小正月のトンドで燃やされる。

すべてではないが、そうしたモノは数多い。

もし、燃やすなら、捨てるなら、私が預かり、県立民俗博物館へ。

これまで収蔵されることがなかった物品を提供・寄贈したことがある。

学芸課=民俗博物館への寄与である。

積極的に意識しだした収集時期は、平成20年のころ。

受け取った貴重な祭具。

これらのほとんどが使用済。

何部か、残っているからと、敢えてくださった物品もある。

年次行事に廃棄処分から免れた祭具をもらってきた。

その祭具が、いつ、どこで、どなたから、その祭具の簡単な説明など、後世の人でもわかるように、記入した紙片。

つまり[F(※百均にも売っている”エフ”)]に記載し、物品がわかるように括っておいた。

また、行事の詳細については、エクセルデータに記録し、これらすべて60点余りを、平成24年3月30日のころに寄贈した。

その2年後、平成26年5月3日から6月23日まで。

博物館内・コーナーに展示してくださった


もちろん写真も提供している。

コーナー展の容量が狭いことから、寄贈した一部の用具になったが、急遽、語りもお願いされ6月8日に講演も受けもった。

その後、である。

用具の寄贈は受け入れできない状況になったようだ。

受け入れられない状況であろうが、私の取材活動は、まだまだ続いている。

初めての寄贈から、さらに増え続け、不要になった祭具は、我が家で保管している。

学芸員のMさんに、一時的に預かっていただいた山添村・切幡でいただいた「ブトクスベ」が、我が家に戻ってきた。



見本につくってくださった切幡のTさんから受け取った「ブトクスベ」も
我が家で所蔵継続・・

不知な人からみれば、これらは「ガタクタ」に見えるだろうが、列記とした暮らしの民俗文化財。

そんなモノは金にならん、という人もおられるだろうが、高価、低額の価値判断ではなく、値打ちの可否を問うものでもなく、すべてが後世に伝える文化財である、と思っている。

(R4. 3.27 SB805SH 撮影)

好評裡に幕を閉じた民俗写真展に花を添えて・・

2024年11月19日 07時54分12秒 | しゃしん(県立民俗博物館展示編)
好評裡に幕を閉じた民俗写真展。



県立民俗博物館の意向によって10年も続いた「私のとらえた大和の民俗」写真展もこの日をもってジ・エンド

展示作品の撤収作業途中にも会場の古民家を訪ねてくる



この日は本館もひなまつり展示終えに後片付け。

明石の地からわざわざ来てくださったご夫婦。

感動したくても写真は、もう束ねていた。

せっかく来ていただいたのに申し訳なくて、旅路の記念にラストになった第10回写真展の図録を差し上げた。



また来たくなった、という夫婦に、園内を彩るお花は、梅から桜。





黄色いレンギョウもあれば、真白なユキヤナギにハクモクレンも・・。



わが家・中庭のシュンランでさえ、咲いていたとは・・・



やがて紫陽花、花しょうぶの時季もやってくる。

ふと我に返った季節の変わり目。

園内だけでなく、自宅周辺の木々も様相を新たにしていた。

そんな環境の変化にときを感じることも難しくなったおふくろが、新しく入居した施設。

お外に咲く春を感じるのはいつになるだろうか・・

(R4. 3.11、17、27、28 SB805SH 撮影)

2年ぶりの発症に効力を発揮してくれたレボフロキサシン錠

2024年11月18日 07時54分17秒 | むびょうそくさい
ひらた泌尿器科月一検査は間違いなく指摘されるだろう。

数日前の桃の節句の3日、朝起床時の排尿が匂う。

ははーん、こりゃ間違いない雑菌が及ぼす仕業に排尿も痛みを伴う。

直ちに飲んだレボフロキサシン錠。

抗生剤の効き目は特効薬に近いが‥‥なにかあればと予め処方してくださっていたレボ錠剤は3日分。

昨日はややまし。

今朝はさらにマシであるが‥‥検尿結果は白血球が15ー20。

膿が検出された。

3日から3日間連続服用して来たがちょっと足らんかったようで、レボ錠を5錠、うち2錠服用し二日間様子みて改善しない場合は来院し、再検査になにもないことを検証しましょう。

また、塩分も検出されたので水分は多めにとってください。

で、その件とは別に痔の薬、腫れ抑えるヘモポリゾン軟膏の残数調整。

箱入りヘモポリザン軟膏が4箱もある。

1箱に2グラムの軟膏が28個も。

1日に2個つかうので一箱が14日間。

4箱なら56日分に。

次回診察まで35日。

今回処方はゼロにしましょう。

二日後の9日。



尿検査した結果、すべてが無印良好。

白血球も塩分もすべてが消えた。

(R4. 3. 7、 9 SB805SH 撮影)

甥っ子ライダーが真っ赤な姿でやってきた

2024年11月17日 07時00分16秒 | いどう
夕方、暗くなりつつある時間帯に、やってきた。

玄関先から聞こえるエンジン音が心地いい。

呼び鈴に出た、そこに立っていた甥っ子。

おふくろからみれば、初孫。

入院している、とわかって大阪から山越えしてきた。

今日も入院中だが、一週間もかからんうちに、入所施設に移る。

その方が、いいだろう、と伝えたら今度はひ孫連れて家族で伺うって。

それにしても、若い。

若造のように見えるが、まま年齢はいってる甥っ子。

おふくろが、大阪住之江に住んでいるときは、絶えず来てくれた。

お嫁さんに孫も連れて、逢いにきてくれた。

また、おふくろは、何かにつけてひ孫に会いに・・

保育園、幼稚園に小学校時代は運動会の参観に出かけていた。

その話は、私もおふくろから聞いている。

今日の甥っ子は、鈴鹿帰りのドライブがてらの立ち寄り。

真っ赤なスーツ姿の甥っ子に似合うライダーが大好きなホンダCBR-600RR



停めた場所が毎週2回にやってくるゴミ収集車の仕事場。

毎回、出てくる自治会員は、ほぼ決まっている。

あそこと、ここと、ここに我が家も。ゴミ当番でなくとも、毎回が顔合わせ。

そのことは、ともかくホンダCBR-600RRはカッコえーから、撮らせてや、と甥っ子にお願いした。

今度は、3人だから車でくるから、と云って走り去った。

(R4. 3.12 SB805SH 撮影)

富本の屋根付き藁積みの名称は全体がススキ、屋根がチョッポ

2024年11月16日 07時31分54秒 | 民俗あれこれ(干す編)
一昨日、今日にも拝見した藁積み。

お家の東側に、かんでん川の西寄りに、据えた藁積みは屋根の形がある家型藁積みの名前は・・

訪問した当主のAさんがいうには、ここらは、本来、心棒を立て、その周りに藁を重ねて、高く、高く積み揚げた藁積みをススキと呼んでいた。

では、その屋根付き家型の藁積みは、と聞けば、なんと「全体をススキと呼び、屋根の部分は“チョッポ”」と、話してくれた。

そのチョッポの呼び名は、私が住まいする大和郡山市の農村田園地と同じだった。

元総代の農家さんが、同様に、“チョッポ”と、呼んでいた。

ようやく見えてきた屋根の形がある家型藁積みの呼び名に、ここ富本に出逢った。

佇んでいると、どこか懐かしさに触れる。

ここだけの景観が嬉しい田原本町・富本(とんもと)の地。

辺りを見渡した、ここは、どこを見ても旧家の人たちが営む集落地。

その近くに広がる田園地。



柑橘の樹に稔りがいっぱい。

その脇にも“チョッポ”がある家型のススキが見られる。



少し引いてみれば、鉄筋コンクリートの橋脚に建つ京奈和道路の一部。

静かに佇む集落に、騒音は届かない東南部の景色。

ふと、振り返り見れば、ごっそり積んだ“チョッポ”のある家型のススキ。

秋の収穫に積んだ藁積みも、風雨さらしの自然まかせの屋外。

あれから3カ月も経つ。

自然と崩れる藁積み。

ちょっと、ちょっと切り崩して、使う本数の藁を抜く。

使う場所はばらばら。

例えば、よく見かけるいんげん豆を育てる際に、蔓を誘導し、真上に伸びるように支柱に藁括り。

ごそっと使う栽培地に敷く、例えば霜よけもあるが・・

土壌の浸食防止、水分の蒸散、地温度などの土壌管理


肥料の流出防止もあれば、繁殖する雑草の防止も。

利用地は、畑もあるが、住まいする田園地帯に栽培している無花果栽培地。

圧倒的に多い用途は無花果の幹周りに敷く藁敷き用途


数年前までは、藁積みチョッポの数は多く見られてきたが、最近は家型が崩れ、かまぼこやドームのような形が増えつつある。



いろんな形、いろんな用途に、藁のすべてが農作業に役立っているんだよな。

(R4. 1.15 EOS7D 撮影)

田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供/後編

2024年11月15日 07時38分21秒 | 田原本町へ
旧来から伝わる小正月は、例年が1月15日。

県内では、1月14日の夕刻から15日の朝方にかけて行われる伝統行事にとんど焼きがある。

カメラマンたちは、そのとんどで燃やされる様相を撮りたくて、あちらこちらに出没する。

私もいっときは、同様な行動をしていたが、とんどに燃やした焼け炭が気になっていた。

取材先に度々耳にする。その焼け炭を持ち帰って、竈の火種に使う。

その火種は、竈に寄せて、準備していたカラカラに乾いた豆木(まめぎ)に火を移す。

火を入れて炊くのは小豆粥だ。

翌朝には、できあがっている小豆粥を口にする。

もちろん、椀によそって食べるのだが、箸は、例えば正月の膳に口にした祝い箸ではなく、自然に生えている、つまり自生しているカヤススキが箸である。

カマで刈ったカヤススキは、家に持ち帰り箸に加工する。

加工って、云ってもそんなたいそうなものでなく、穂付きのカヤススキそのものが箸である。

そう、おわかりになるだろう。

刈った部分の軸が、箸の用途になる。

椀に入れた小豆粥を口にする道具が穂付きのカヤススキ。

食べているとき、耳がこそぼう(※大阪弁のこそぼい。こそばゆいが転じたこそぼい)なる穂先の動き。

丁度の長さが、耳から軸を持つ手の動きが耳をこそばす。

そんな体験話は、少なくない。

カヤススキは、神聖なものとして使われてきた。

その箸で、小豆粥を食べる、ということは邪気を祓う、一種の魔除けのような食べ物

一年のはじめに健康を、無病息災を願う風習でもある。

また、カヤススキは食べた後は、捨てるのではなく、農家では荒起こしをした苗床に立てる。

そこは、春になれば苗代田。

正月はじめに願う豊作祈願に、食べて邪気を祓ったカヤススキを立てる。

奈良県内でそうしてきた、と語る人もおれば、今尚継承している農家さんもおられる。

貴重な取材してきた苗床に立てるカヤススキ。

一つは天理市豊井の事例

二つ目は、五條市上之町の事例

聞き取り事例に、御所市東佐味鴨神がある。

また、京都府も南山城村北大河原の事例もあるが、いずれも後継者の悩みは尽きない。

さて、本日の民俗テーマは、お家で炊いた小豆粥を枇杷の葉にのせて供える状況の記録取材である。

明日香村に2カ所。

一つは、地域の神社や地蔵堂などに供えていた八釣がある。

二つ目は、神社も地蔵さんどころか、至るところ。

例えば道端にも、もとより。

お家内部に庭とかもされていた上(かむら)の事例は、供える箇所が圧倒的に多い。

ここ、田原本町富本(とみもと)の人たちが、富都神社小正月の枇杷の葉のせ小豆粥御供をされている状態を知りたくて、こうしてやってきた。

同行取材に、明日香村・八釣も取材してきた写真家のKさんにも就いてもらった。

午前9時半ころに着いた田原本町富本(とみもと)に鎮座する富都神社。

参拝者を待つよりも、先に撮っておきたい小豆粥御供。



まずは、鳥居をくぐって参拝した富都神社。

扉が締まっている拝殿に気づいた御供。



遠くからではわからなかった御供が、はっきり確認できる。

知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供ではなく、正真正銘の枇杷の葉のせの小豆粥御供

正月の餅に小豆粥。

小豆色に染まったお粥さん。

枇杷の葉は裏返し。

舟のような形の枇杷の葉を、お皿に準えて御供をのせていた。



石造りの狛犬にも供えていた小豆粥。



阿像も、吽像も股座(※またぐら)に供えていた。



県内外に見てきた股座や足元に収める御供は、賽銭もおく神社事例は少なくない。



その股座にピンを合わせて撮った小豆粥。



地べたにも供えていた事例は、下から徐々に見上げた石塔。



「遥拝所」とあるが、どの方角に向けているか、でだいたいがわかるものだが・・・



方角から、推定したお伊勢さんがある。

もっと、手前でいえば、奈良・桜井に鎮座する大神神社が考えられるが、当地に伊勢講の存在があれば、伊勢神宮であろう。

右隣にある石塔は大神宮。



火袋がある常夜灯・石塔があるから、伊勢神宮参拝。

つまりおかげ参りの際に拝んで出発、また帰着に拝礼していたであろう大神宮石塔。

田原本町観光協会資料によれば「天明四歳辰年(1784)九月吉日」の刻印があるようだ。



そのことは、ともかく火袋の前に供えた小豆粥。

乾燥していない瑞々しい小豆粥の状態から、私たちが来る前に供えていたのだろう。

落ちている葉っぱが見られない実に美しい境内。



当番の方なのか、崇敬会かわからないが、境内清掃に欠かせない掃く竹箒や、落葉を掻き集める熊手もある。

よくよく見れば花立て当番であるが、富本忠宮塔当番月表に男性の名はなく、女性ばかり。

富都神社の小豆粥御供状況を拝見し終えて宮前に構築した石橋を渡ろうとした。

そのときである。

まさかの、えっ、である。



ここ田原本町富本の富都神社の宮前橋に見たソレは、盃状穴(※はいじょうけつ)であろう。

宮前橋は、五つの橋柱で構成されており、見た目でもわかる中央の2柱は、石質が異なる。

どちらが旧いかは、わからないが両端に見られた盃状穴。

特長は、それほどではないが、見るからに盃状穴にように思える痕跡。

これまで私が見てきた盃状穴は、奈良市石木町に鎮座する登弥神社(とみじんじゃ)。

鳥居前に建つ大燈籠の台座あたり。

総代の話によれば、訪問された三重大学の教授が、これは「盃状穴」だと、教えてくれた
ようだ。

もう一つは、奈良市の旧五ケ谷村の一カ村。

中畑に鎮座する春日神社。

えっ、ここにあるんだ、と声を揚げてしまった手水鉢。

手水に作法する手前にみる手水鉢の縁
にある。

富都神社の宮前橋の痕跡も、まさしくそう思うのだが・・・

手前に三つ。

深い痕跡の丸い穴。

ネット情報によれば、東大寺・転害門の石階段大神神社・若宮社の石階段山添村中峯山・神波多神社の石段

奈良県外にも多く見られているが、今もなお、「盃状穴」の謎は解けていない



一応、というか念のために確認しておきたい庚申石塔の他、地蔵尊には小豆粥を供えているのか、その有無を確認した結果は、無であった。

さて、冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供を紹介してくださった前県立民俗博物館館長東秀好(あずまひでたか)家にお礼と報告を兼ねて伺った。



ここであろう、とわかった印しがあるお家。

思わず近寄り撮っていた枇杷の葉のせ小豆粥。

先ほどまで滞在していた冨都神社の在り方と同じである。



シャッターを締めているガレージにも供えている。

呼び鈴を押す門屋にも供えていた。

上がって、と伝えられてお家に・・

県立民俗博物館館長を辞し、現在は帝塚山大学に勤務している、という。

御供を拝見してきた場所の報告に、昭和11年生まれのおばあさん時代は、知る人ぞ、知る小豆粥御供であるが、供えていても周りは気づかなかった。

ここ富本は、かつて31軒の集落であったが、今は21軒。

ずいぶん減った、という。

朝に支度を調えて、出かけた神社も、お家にも供えていたのは86歳のおばあさん。

出里は千代の地。

はっちょう、と呼んでいた北八条の農家だった。

農業に忙しい時季には、伊勢の海女さんは、出稼ぎにきてくれた。

住み込みのための住まいも用意したようだ。

お正月の門松を立てるための砂を採取し、一輪車に載せてここまで運んだ。

有機農法の田んぼに畑。

すべてはおばあさんが、先祖と同じように仕事をしてきた。

その先祖は、明日香村の細川、今は5代目になる、と。

分家は、大阪に出て米屋を営んでいたことから、嫁入りにもらった木臼。

正月の餅搗きは杵にその木臼で搗いていた。

9(※苦)がつく29日は避けて、翌日の30日が餅搗き。

正月餅は三臼も搗く。

鏡餅は宮さんに供える餅。

床の間に三方を据え、一升枡にごまめを盛った米に挿す。

話の様子から、正月の三宝飾りでは、と思った次第。

ずいぶん前になるが、平成25年の12月31日の大晦日に訪れた大和郡山市に住まいする元藩医家。

おばあさんが、飾りつけしていた三宝飾りを拝見
していた。

若干の相違点が見られるが、京都府山城町の上狛のM家で拝見した三宝飾り。

その日は、平成28年の12月31日の大晦日。

木津川の川砂を採取し、お家のカドニワに撒いていた砂撒き風習。

その作業を終えてから見せてくださった三宝飾り


また、守屋宮司が教えてくださった村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り。

おばさんがしていた三宝飾りと比較するものではないが、豪華な飾りにうっとりしていた神社の三宝飾り


大きな一升枡に盛るのは、米屋の名残かも。

規模はともかく、気になる点は、正月お節のごまめを米盛りに挿していたとは・・

他にも餅二段の鏡餅を供える箇所は、神棚はもとより、屋外倉庫にガレージにも。

正月準備を調え、時間ともなれば紅白歌合戦を見て、雑煮をいただく。

零時過ぎ、神棚に仏壇、床の間に参ってから、神社にむかう初詣。

戻ってからは、お節を広げて、みなでいただく。

きのこ雑煮を食べて、ゆっくりする。



井戸から汲んだ初水から、調理する雑煮。

先に子芋、大根、豆腐などの下ごしらえをするのは、嫁さんやけど、合わせ味噌を調合するのも、雑煮の味つけなどの調理、膳を並べるのも、みなおとこしの役。

正月の話題に会話が弾む一年にいっぺんの、雑煮つくり。

梅の木を植えて、梅干しつくり。



大豆も直栽培。



草履もつくっていたお家の暮らし。

元旦の一日から三日間は、普通に電話をかけた姉さんが戻ってくる。

逆に、嫁さんの実家に出かける。

1月4日は、鏡餅をさげる。

7日は七草粥。

食べるばかりの正月期間。

1月15日は、朝に炊く小豆粥。

10年前までは、トンドをしていた。

若草山の山焼きの夕べに火を点けたトンド。

かつては、子どもたちが役につく。

竹藪に出かけて竹を伐る。「竹、ちょうだいなぁー」と、囃子立て。

正月に飾ったしめ縄をもってきて、燃やしたトンド。

火の勢いが緩くなったときに燃やす書初めの書。

焚火程度になれば、家から持ってきた餅を焼く。

柔らかくなれば、餅を食べていた。

翌月の2月3日は、年越し。

イワシの頭を、柊の木に挿すのは魔除け。

正月行事に風習などの民俗話題は尽きない。

ちなみに、隣接する宮古はおよそ百軒の集落。

大勢の人たちが集まり、トンドをしている、と・・



さて、私が知りたい2件の民俗。

お盆の習俗だが、ここ富本にサシサバは、聞いたことがない、と・・

また、一昨日と今日にも拝見した藁積み。



お家の東側に、かんでん川の西寄りに、据えた藁積みは屋根の形がある家型藁積みに名前は・・

ここらは、本来、心棒を立て、その周りに藁を重ねて、高く、高く積み揚げた藁積みをススキと呼んでいた。



では、その屋根付き家型の藁積みは、と聞けば、なんと「全体をススキと呼び、屋根の部分は“チョッポ”」と、話してくれた。

そのチョッポ呼び名は、私が住む大和郡山市の農村田園地。

知り合いの農家さんも同様の“チョッポ”だった。

ようやく見えてきた屋根の形がある家型藁積みの呼び名に、ここ富本に出逢った。

おおかた、2時間余り。

午前10時から2時間。

長居してしまった。

腰をあげようとした、そのときに伝えてくれた県立民俗博物館に勤務する学芸員をよろしく、と頼まれた。

そりゃぁ、もちろんです。

彼ら二人は、よく尽くしてくれました。

Mさんも、Tさんも、真面目な仕事ぶり。

はたで見ていてよくわかる素晴らしき学芸員。

この時は、まだ動きはなかったが、それからは・・まさか、まさかの事態が待っていたとは・・。



お世話になった前館長に御礼を申し上げ、再び立ち寄った富都神社。



あれぇ、2時間前にあった火袋前に供えた小豆粥も枇杷の葉もない。

ふと、目を落とした境内の一角に見つかった枇杷の葉。



念のために探してみた小豆粥は、どこにもない。

考えられるのは、野鳥の餌になった小豆粥。

吹いた風によって飛ばされたワケではなく、カラスなどの野鳥の餌食の痕跡も記録する。



2時間後の天候はやや晴れ。







再撮影したい狛犬の股座。

美味しい光が当たってくれた。

(R4. 1.15 EOS7D/SB805SH 撮影)

生前整理④おふくろが暮らしていた住居は完全撤去に現状回復を・・

2024年11月14日 07時54分23秒 | むびょうそくさい(おかん編)
今日は、おふくろが暮らしていた住居の完全撤去。

作業は、午前10時からはじまる。

それまでに確認しておきたい大阪市営住宅を管理している阿倍野住宅管理センターから届いていた退去の流れ。

まずは、決まった退去日、時間を設定し、管理センターの立ち合いに来てもらうよう報せる。

その件に関しては、自治会にも連絡しておく。

次に、家賃の清算は、退去が月の途中であれば日割り家賃になるから納入通知書が送付される

次に、電気・ガス・水道の契約解除と閉栓

 関西電力、大阪ガス、水道局、それぞれの営業所に連絡し、契約解除し、閉栓をお願いする

そして、撤去と原状回復

 入居中に自身が設置した物品(例;風呂釜等、湯沸かし器、エアコン設備、網戸、サッシ、照明器具、

 カーテンレール、敷物などなど)・・・すべてを撤去

 また、室内を模様替え、改造、手すりなどを設置した場合も、入居した当時に原状回復を

 ただし、入居当初から設置されている物品は、この限りでない

退去前の立ち合い確認点検、
 管理センターの担当者が入居者の立ち合いのもと、チェックし、 「退去前確認書」にレ点、或いは、記入するなり、
 相互確認をする



そして、鍵の返却、

 退去日は玄関、窓などすべて施錠すること

 集合ポスト内を整理し、鍵があれば外す

なお、退去後に住宅管理センターに持参・返却すべきものは3本の鍵

 その他の鍵があれば、台所の流し台の引き出しに収納



 また、大阪市長宛ての「住宅返還」届並びに「誓約書」も持参・返却



撤去作業にかかる前にしておきたい仏壇や写真は、「これから引っ越しさせていただき、奈良の我が家に引っ越しさせていただきます」と、心から念じて、傷つけないよう毛布に包んで、愛車に載せる。



また、生前整理の際に見つかった「少し前の時代の紙幣や切手」とか「家族の記録写真に母親や祖母が使っていた当時の暮らしの用具」も引き取り、我が家で所蔵することにした。

到着した依頼事業者は、天理二階堂にある片付けエース。

遺品整理士が率いる二人の男性に女性はお一人。



見積もりしていた撤去後の養生は管理センター点検者から不要の確認をいただいた。

炊事場・台所から取り出す小物。

包丁は危険物なので、別扱い。

とにかく小物はなんでもナイロン袋に入れて仕舞う。

金属物は、金属物ばかりを集めた袋に詰めていく。

タンスなどがある部屋でも作業開始。

衣服類に小物。

それぞれの袋に詰め込み。



タンスの上に置いていた時計は40周年記念。

おふくろが勤めていた損保の保険会社。

現役は80歳を超えていたが、否が応でも引退せざる得ない体力。

なんせ、両手に抱えたバッグに詰まった保険に関する資料ばかり。

重たい荷物を両手でもって歩きはもちろん。

バスや電車を利用し、市内はもちろん、市外も顧客めぐり。足は丈夫だったが・・

ナイロン袋に詰めた衣服類。



これらは三畳の間に取り敢えず置き。



いやもう、すごいことになってきた。

運ぶ車の用意ができれば、直ちに階下に運び、足場を確保する。

金属に陶器や食器にガラス製品。



さて、金目のものは見つかるでしょうか。

向こうに見える掃除機は、最後の最後まで綺麗にしていく道具。

役目はまだまだ。

終えるのは、最後の最後。

ここまでの作業が、正午いっぱい。

私どもも、近くにあるくら寿司で食事を摂って戻ってきた。

一服休憩されていたみなさん方は、午後1時過ぎから再開した。

それからの作業は詰め込みが主。



足場を確保し、階段を下してきた整理タンスに立派な机なども。



取り敢えずは、通路におかしてもらう。



一般的にみれば、大型ゴミの搬出作業である。

準備を調えたカーゴ・トラックに詰め込む作業。

詰め方に基本的な考えたがあるんでしょう。



ここから見て、奥の方に詰めたモノモノはが倒れないように、冷蔵庫や洗濯機などで壁にする。

なるほどやねぇ。

その境目にはブロック置き。

段差をなくす重たい用具かな?。知らんけど・・



地上に下した家具を並べた。

その様相を、おふくろが居住していた北の窓から覗き込み。



この窓で思い出す、また来てね、と手をふるおふくろの姿。

角を曲がって見えなくなるまで手を振ってたなぁ。

さぁ、再び荷物下し。



下駄箱を下そうとしたシーン。

平成30年の夏場に壊れたエアコン。

大急ぎに動いた買い替え。

緊急要請を受けた実弟三男とともに出かけた交換機種選び。

それはそれですぐには設置できない夏場の据え付け工事人の手配


当時、おふくろの年齢は92歳。

翌日には台風21号がくる予想に一時的避難に我が家に来てもらった。

その対応は正解だった。

大阪湾に属する地域に大きな損失をもたらした台風21号

その後に、なんども発症した圧迫骨折に再び、奈良の病院に入院加療。

退院しても我が家で安静加療の繰り返し。



大阪には戻れずじまいの状況に、無人の部屋に新しく据えたエアコンの出番は、通算でいえば、ほんのちょっとしか稼働していない。

ほぼ、新品同様のエアコンも撤去物品になった。

その奥に見える金属光。



長年暮らしてきた生活に欠かせないステンレス製の入浴風呂も撤去対象。

撤去、撤去しているうちに炊事場が綺麗な姿になっている。



何年も前に、かーさんと二人で敷き詰めたフロアーマットのおかげ。

貼り換えに相当な時間をかけた労力が報われる。

一部分汚れているフロアーも、角度換えてみれば光の加減で輝き。

それもあるが、壁が・・すっかり変化していた。

どことなくわかった台所の壁。

たぶん耐火性の壁であろう。

この1枚は、浴槽をとっぱらった状態。



シャワー器具もきれいが、これも撤去処分。

金属もんは高く売れるだろうな。

玄関入口に集めた廃棄処分行きのいろいろ。



おふくろが来ていたさまざまな衣服のすべてが処分行き。

奥の方に見える場は炊事場。



ほら、フロアーが光っているでしょ。

その向こうはベランダ。

設置していた風呂釜も撤去行き。

すっからかんになった部屋の空間。

こうしてみると、どこともそうだが広いよね。



それにして、この時代になって、真っ青なイグサを見るとは思わなんだ。

タンス置き場が、虫も喰わずに綺麗なイグサ跡が美しい。

昭和52年(1977)に入居してから46年間。

いよいよ、さ・よ・な・らすることになった大和川住宅

地上に下した暮らしのタンスなどが、そろそろ2台のトラックに分散積載。



またまた、窓から見ていた、その作業。

おっと、自転車は現に住んでいる人たちのんだよ。

積み込み作業の時間は、ケッコーかかる。



そのタイムは午後1時40分からはじまり、終わった時間は午後3時5分。

大変な作業だった、と思う。



1階、地上に下りて拝見したカーゴ・トラックの詰め込み具合。

プロの技に、パワーが光る詰め込みの美しさ。

奥に詰めた収納物をガッチリ確保。

運搬に支障をきたさないように詰め込んだ。



軽トラに積んだ物品は衣服類。

崩れないように荷台周りにセッテイングしたボードでガードしている。

時間帯は、午後3時40分。



さまざまな物品は消え、きれい、さっぱりした空間。

外気からの空気が気持ちよく流れていく。



最終的な点検に、桟などに貼っていた紙は綺麗に剥がし、打ち付けていた釘は、引っこ抜く。

押しピン一つも逃さないように、ひとつ、ひとつを丁寧に検証していく。



屋外のベランダなんて、ゴミひとつも見つからない。



給湯器とか風呂釜へ供給していたガス管も水道蛇口も閉栓確認。



浴室も最終点検。



台所の電灯や蛇口はそのままにしておく。



おっと、最後になった換気扇の撤去が残っていた。



べたりと付着したギトギト油も拭いて、なんとか外せた換気扇は、最後の積み込み。



すっきり、気持ちいい片付けをしてくれた皆さんに、厚く御礼申し上げ、ここで解散。



これから、廃棄処分に向かわれる。

鍵を閉め、棟と棟の間の車が通る道にはっと、気づいた。



大阪市の梯子消防車をデザインした消火栓マンホール。

このマンホールの真上に停めてはいけませんよ。

思い出に浸って撮っておいた消防用ホースがあるマンホールも記念の一枚。

午後4時25分に、ここ住之江を離れた。

今回の撤去費用は、養生もない、ゴミ清掃だけで済んだから、23万円支払い。

当初クレジットカード決済払いとしていたが、振込手数料が8千円も要する、とわかった。

南都銀行口座に、現金振り込みなら手数料は200円で済むといわれ、そうしようとしたが、大金なので口座から口座振込にしたら手数料なしになると銀行職員が教えてくれたのでそうした。

こうして、原状復帰などの点検も終えたが、鍵の返却は後日にしている。

我が家にもどって、第一に行った大ばぁさんの仏壇は、私がパソコン部屋といっている畳敷きの日本間。



大ばぁさん、今夜からこちらの部屋でくらしてね、と心の中で拝した仏壇。

今は、この状態だけど、只今、楽天市場に発注した桐製の仏壇下台座チェストが、もうすぐ届くまで我慢してや、と伝えた。

(R4. 3.22 SB805SH 撮影)

田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供/中編

2024年11月13日 07時42分49秒 | 田原本町へ
1月13日、下見に訪れた田原本町富本(とんもと)。

遡ること10カ月前の令和3年3月3日のひなまつり。

その日は、予め送ってくれた招待券を持参し、出かけた「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の日。

館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長。

テレビ局や新聞記者に伝える「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の話題提供。

奈良テレビの収録(※その放送は、今もユーチューブ公開されており、大和郡山の金魚養殖の道具も視聴できる)、朝日新聞に産経新聞記者への説明などを終えて、ちょっとした時間にお逢いした。

民俗に造詣が深い館長との会話。広がる民俗の話題。

東館長からのお願いは、是非ともSNS発信、拡散も・・。

その際、本館リニューアルオープンに古民家工事など、大いに宣伝してください、とお願いされた

本館リニューアル工事中に開催した、9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展

古民家開催は、大評判だった

やむを得ない対応に、会場が民俗に相応しい環境とわかり、正解でした。ありがとうございました、とお礼をこの場で伝えた。

民俗の話題、写真の提供などで度々訪れては、取材した貴重な暮らしの民俗を学芸課に報せること、多し。緊急電話の呼び出しに、急遽かけつけ、インタビューを求めていたテレビ取材に応じたこともある。

それは、県内行事の取材の際に、現地の人たちからいただいた、行事に使った祭具や用具の入手。

その数、多くなり60点の用具を寄贈した。

新収蔵品として登録され、一部をコーナー展に展示された。

それらは、二度と入手できない貴重な「祭りの用具」


だからこそ、新収蔵品として扱い、関連する祭りの用具を語ることになった。

そのような話題から、ふと思い出した。

9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展

写真テーマは大きな括りに「つくり」。

私は、それから発想した「かんぴょう」つくり。

図録に記した思いなど。

出展者全員が提出した内容文を読まれた館長。

その際に指摘された件を、学芸員のMさんが、私に伝えてくれて修正した文章。

当初、提出したテーマ及び主旨説明文は、

「カンピョウの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)の国内シェアは、ダントツトップの栃木県。その量は315トンにもおよぶ。
2位は3トンの茨城県。3位に2トンの滋賀県に続いて1トンの埼玉県が並ぶ。
一般市場に出ない0トン生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)は奈良県。(平成26年度のランキングデータより)
悲しいくらいの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)であるが、県内の場合は、ほそぼそと個人的に作られているのが現状とわかったのは、つい数年前のことだ。
カンピョウといえば、三つ葉とともに巻いた巻き寿司を思い出す。スーパーなどで売っている巻き寿司にカンピョウは見られない。回転寿司店に見るカンピョウ巻きは、おそらく中国産のカンピョウ。そのことを残念がる93歳のおふくろ。昔はよう食べた、というが・・。
取材した人たちは、間違いなく高齢者だった。後を継いでくれる者もいなくて途絶えたところは多々ある。数年も経たないうちに、奈良県のカンピョウ干しは消えるだろう。
2年前までは地産地消で販売していた道の駅。地産が消えて栃木産に・・」だった。

私は、参照した国のデータ「カンピョウの生産量(heisei2nen出荷量)の国内シェア」からみても、生産量であると判断。

館長が指摘された理由は、住まいしていた田原本町・富本の暮らしにあった。

在所の富本。

ご自宅にご近所もカンピョウ作りしている関係で、生産量というよりも、現実的に村・自宅では出荷量ととらえているから“出荷量”にしてはどうか、という指摘であった。

特に反論することはない、地元民が、とらえていた“出荷量”・

こうした現実的な対応をした「かんぴょう」のテーマ及び主旨説明文は、「生産量」を「収穫量」。

そして、「出荷量」に言い換え、再提出。

それで、佳し、と承諾されたのであった。

館長との「カンピョウ」話題のつながりは、その年の令和2年2月8日に行われた9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展の座談会に・・・

展示の初日。

旧萩原家にて開催した出展された写真家たちが、作品トークをする写真家座談会が行われた。

竈がある旧萩原家に設けたプロジェクターが映し出すスライドショーをもって解説トークの場。

用意していた椅子の数が足らなくなるほど集まってくださった一般聴衆の方たち。

中には、存じているカメラマン仲間たちに、それぞれの知り合いも。

集まりの後方にずっと聞いておられた館長。

歴代の館長は、そのような姿は、一切見なかったが、東館長は、私たちが語る大和の民俗を終わるまで清聴に聴いておられた。

その立ち姿は、今も脳裏に残っている、印象的なシーン。

実は、写真家座談会を展示初日に実施するのははじめてだ。

のちにわかるが、初日実施は正解だった。

と、いうのも、盛況に終えた座談会の日から20日後の2月27日。

県立民俗博物館から伝えられた突然の発表は、他府県が発表した「イベントや集会は、原則中止。若しくは延期」

大阪事例であるが、奈良県も同調し、8日から開催していた9回目の「私がとらえた大和の民俗」も、突然の中止に・・・

座談会を開催していたころのコロナは、第6波の拡大化は確実性を帯びてきた、とニュースを報じていた。

いつかは、そうなるかも?と、感じていたコロナ禍時代


コロナ禍に仕方のないことであるが、初日に座談会を終えていたので、不幸中の幸いだった。

さて、本題は田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の取材である。

前述に記した「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープンの日」に、館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長との会話にご縁をいただいた行事が、田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供だった。

実家の富本でされていた枇杷の葉のせ小豆粥御供である。

家でつくって小豆粥を枇杷の葉にのせ、最寄りの冨都神社に供える。

館長が、云った言葉。

“今もおばあが、供えている”、と・・・。

ご実家におられる、館長がおばあと呼ぶ母親がされていたのであった。

実家を離れて長年暮らした大阪から生まれ故郷の田原本町・富本(とんもと)に、館長夫妻ともども戻った。

何十年も離れていたが、今ではすっかり富本人、だとおっしゃる。

おばあは、毎年の正月に氏神社の富都(ふつ)神社に鏡餅を供える。

また、小正月には知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供をしていた。

とらえた映像の葉っぱはアオキ
だが、多くは枇杷の葉である。

昔はもっと多く村人が小豆粥御供をしていたが、今はもう1軒のお家と我が家の2軒がしている、という。

葉っぱのせ小豆粥御供習俗の取材を願ったら、どうぞ来てください、だった。

ご自宅は神社より少し離れている。

今は水路のように見える「かんでん川」に架かった橋を渡る。

元は川だったという水路沿いにある民家が暮らしの住処。

なんでも安堵町の富本憲吉先祖は、ここ富本から出たという。

また、もっと南のある十六面。

呼び名はジュウロクセンであるが、かつては富本から分かれの出垣内。

ずいぶん前のことらしく、富本(とんもと;とむもと)村は人も戸数も増え、ひとつの村に。

そして、富本から分離した“別れ(※わかれ)”だから、名称を“とむおもて”に、した。

そこが、水路上流の地。

現在の十六面(※じゅうろくせん)に辺りの地である。

それにしても、その地を「とむおもて」に読むなら、本村(※ほんむら)の富本に同じであったら、まずいとされたのか、充てる漢字を十六面(※じゅうろくというめんが天から落ちてきたという由来から)とした、と教えてくださった。

地名の変遷は、地元で生まれ育った方が「桃おやじの歴史散歩」ブログに書き留めている。

その経緯というか、読みの転化であるが、以下のように綴っている。

「十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)」、「※十三下(とみもと)→とんもと→とむおもて(※十六面)→じゅうろくめん→じゅうろくせんになったのが、史実のよう・・」、と。

なお、「十三」に、ついては、ブログ「エナガ先生の講義メモ」が詳しい。

特に記事中にあった重要と思える「鎮座地の富本(とんもと)は飛鳥川の堤防に接する集落です。富本のトミは、十三(トミ)とも、十三(つつみ)とも読み飛鳥川の堤のことです。堤を十三と、書く事例は大阪市内の淀川堤べりの十三(じゅうそう)にもみられ、同地に富神社が鎮座していました。また、御所市内にも葛城川の堤防沿いに南十三、北十三の大字が現在もあります」と、・・・

この2件のキーワードが「十三(トミ)」。調べれば、さらに深まる経緯に、多くの事例を求めなければならない可能性もありそうだ。

富本話題に惹かれて下見にでかけた13日。

現地の状態を見ておきたい富都(ふつ)神社。



足を運んで歩いた集落内の地蔵尊の場や、屋根付き藁積みも確認できた。

その足で伺った民家に表敬訪問するも不在。

その日は、平日だけにお仕事の関係だろう。

自宅に戻ってからの夕刻であれば、と思って館長に電話をかけたら繋がった。

小正月は、今も例年通りの1月15日。

「土曜日の15日は、父親命日。月参りに広陵町広瀬・常念寺のおっさん(※お住さん/住職)が来てくれるから、お念仏が終る午前10時ころに訪問してほしい」。

それまでに「小豆粥・枇杷の葉の支度を調えている」と、伝えてくださった。

その日の取材に、県立民俗博物館事業の「私がとらえた大和の民俗」写真展に参加している写真家のKさんともども伺っていですか、に快く了承してくださった。

「母親が供える場は、神社に2カ所。地蔵さんに、またほかにも供えるだろう」、と・・・

なお、西の地蔵盆は7月23日。

旧浄土寺前の地蔵盆は8月24日。

「かつて集落に子どもが大勢いたころは、広瀬・常念寺のおっさんが来て念仏を唱えていたが、今は1人になったためわからないが、おっさんは来ないで、地区の年寄りたちが清掃してお供え。調えたら念仏をしている」ことも話してくださった。

お昼は、すぐ近くにある食事処。

台湾料理を提供してくれる台湾料理・美食城竹田店の美味いラーメン丼セットにするつもりが、急展開。

温、温のうどんが食べたくなってハンドルを握った先の食事処は、ここから、それほど遠くない丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・

(R4. 1.13 SB805SH 撮影)

晩食にあがった初チョギレ料理は、ごま油炒めのチョレギサラダレタスのラー油かけ

2024年11月12日 07時47分52秒 | カンタンオリジナル
えっ、これって何味?

ごま油風味が利いている味なんだけど、何料理?

その答えは、ごま油で炒めた、という「チョレギサラダ」。

へぇー、そうやったんや。

サラダレシピを探していたら、チョレギサラダが見つかったそうだ。

実は、韓国現地で「チョレギサラダ」を、注文しても、その料理は知られていない。

ネームが「チョギレ」だから、コッチョリという韓国料理もあるのだが、現地の方たちには通用しない「チョレギサラダ」。

「チョギレ」は、簡単にいえば、朝漬けキムチであるが、「チョレギサラダ」は、そもそも韓国に存在しない。

その「チョレギサラダ」は、日本発祥の調味ドレッシング。

食品メーカーのエバラ食品が売り出した「チョレギサラダ」ドレッシングである。

ドレッシング商品は買わなくとも、ネットに見つけたアレンジレシピを参考に調理した、という。

レタスに空心菜をごま油で炒めて、ラー油かけ。

炒めた鉄板食材のソーセージに添える粒入りマスタード。

もう一味は、合鴨のパストラミ。

脂ののった合鴨の脂身が旨いんだよなぁ。

食べる前に、チョレギサラダが旨い、とわかっておれば、一枚撮っておくべきだった。

まぁ、美味しいチョレギサラダなんだから、食べてる途中経過であっても、ある程度がわかりゃいいさ。

(R4. 3.30 SB805SH 撮影)

田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供/前編

2024年11月11日 07時15分08秒 | 田原本町へ
知人のFさんが、運営しているFBに公開された記事に目が開いた。

発信日は、前年の令和3年1月27日

初めて訪れた田原本町富本・冨都(※ふつ)神社のレポートである。

実際の参拝日は、記されていないから、その日がいつだったか、わからないFBの記事。

ただ、数枚あるうちの一枚に、また大きく目が開いた。

まさに、その様相は、小正月行事のひとコマ。

県内各地、多く聞きおよんでいる小正月行事の在り方。

そのことは、ともかく、Fさんがアップされた記事の主体は、神々である。

富都(ふつ)神社の「御祭神は、登美屋彦命(トミヤヒコ)しかし式内社調査報告(1982)によれば武雷神(タケイカヅチ)・登美屋彦命・登美屋比売命とあり、他にも富都大神・建布都神(タケフツ)とも、言われている」、と報せていた。
また、明細帳では、「登美屋彦・登美屋比売は一対の神と思われており・・・」、

「大日本神名辞書(1972)に、“登美屋毘売、登美は地名、大和国城上郡に在り。夜の義明かならず。登美屋彦の御妹にして、邇藝速日命(ニギハヤヒ)に嫁して宇麻志摩遅命(ウマシマヂ)を生み給う。御別名御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)という”」

さらに、「登美屋比売は饒速日命の妃、御炊屋姫の別名で、この両神は兄妹という(※式内社調査報告)」
と、いうことは、もしかとすれば、神社名『富都』から本当の御祭神は石上神宮と同じ“布都御霊”だったのかもしれません」、と解いていた。

「神話には、天の磐舟で斑鳩の峰、白庭山に降臨した饒速日命を迎え入れた族長・登美長髄彦(※登美屋彦)は、自らの妹三炊屋媛(※登美夜毘売)を饒速日命の妻とし、仕えるようになります」

「その後、神武天皇の大和入りで抵抗した長髄彦は、饒速日命に殺されてしまう、という哀しい運命を辿る事になった」

「それ以前、平和にこの地を治めていたその一場面が、この神社に表現されているような気がしました(※要約しました)」と、伝えていた。

神話の話ではなく、参拝された田原本町富本・冨都(※ふつ)神社に見つけられた御供である。

搭載された中の一枚の映像。

場所は、神社拝殿の扉前。

敷居下に置いていたソレは、どことなくわかる小豆粥のような・・・

その付近に賽銭が4枚。

一人で奉った4枚の賽銭か、若しくは、4人が参拝され、それぞれが一枚ずつ奉った賽銭か。

不明であるが、小豆粥らしい御供をおましていた木の葉っぱである。

葉っぱの曼陀羅模様から、推定した木は、アオキ。

お供えに、このような事例は、初見である。

後述に紹介するが、さまざまな代用の葉にする事例は、ままある、とわかった。

まさか、と思うが、枇杷の葉っぱが近くになく、代用に使用した小豆粥を盛る皿の葉っぱはアオキ。

私は、これまでさまざまな小正月事例を拝見、取材してきた。

小正月、といえば1月15日。

その前夜に行われるとんど焼き。

火が消えそうなころに、持ち帰るとんどの火種。

その火種は、今にも消えてしまいそうな炭。

炭化まではしていない、いわば炭火である。

持ち帰る方法は、さまざま。

昔によく使われた火のし。

或いは燃えない金属製のバケツやスコップ。

提灯や行灯などに火種を移したローソクで持ち帰る人たちもおられる。

その火種は、お家の竈に移す火。

竈にいれておいたシバ(※芝とか雑木、或いはパチパチ燃える豆木)に種火を移す。

その火で炊いたのが、小豆粥である。

炊いた小豆粥は、朝いちばんにいただき、口にする。

それだけでなく、小豆粥を食べる箸を自然に生えているカヤススキ。

朝食に食べる小豆粥を、一口、二口・・・

穂付きのカヤススキで食べたら、カヤススキの茎を折って捨てる、という民俗事例もある。

一方、県内事例に多くみられるのが、とんどの火種で炊いた小豆粥を、屋外に供えるあり方。

その小豆粥を供える平皿が要るのだが、その平皿は、どこの地域に聞いても、みなは枇杷の葉っぱだ、という。

陶器の平皿でなく、枇杷の葉を裏向けにした、その凹みに小豆粥をのせるのだ。

神社やお堂などの施設、それぞれに供える田原本町・蔵堂に鎮座する村屋坐冨都比売神社(※むらやにますみふつひめじんじゃ)の事例

奇遇なことに、田原本町富本の冨都神社も(※ふつじんじゃ)。

一方、小豆粥を枇杷の葉にのせて供えるのは、神社に限っているわけではなく、民家の習俗として、今もされている事例もある。

明日香村の上(※かむら)の地に住むF家は、神棚・家の入口・離れ・庭の神さん・床の間の神さん・(田んぼ)・庚申さん・神社・地蔵、新墓・(古い墓)など云十カ所(ビワの葉は50枚ほどにもなる、と案内してくれた。

下見に話してくれた「枇杷の葉」がないとき。

その場合は、柿の葉を代用するそうだ。

また、同村の上居(※じょうご)に住む前総代のFさんもしていたが、枇杷の葉にのせる御供は、小豆粥に、カイバシラと呼ぶキリコモチ

供える場は、玄関、納屋、車庫から直撒きの苗代や田んぼ・草むら、さらには杉山の頂上にも・・。

それだけでなく、おじいさんが建之した三体の地蔵さんにもおましていた。

さらに、話してくれたFさん。

かつて小豆粥は、供える前に食べていた。粥を口に持っていくのは、スジノコと呼ぶカヤススキの茎を用いた箸であった。

それぞれ、供え方は区々であったが、小豆粥に枇杷の葉は、どこもそうしていたのである。

同じく明日香村の八釣(※やつり)の小正月の小豆粥御供は、氏神社の弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社から庚申石・地蔵立像、妙法寺、稲荷社、弁天さん

以前は、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇にも供えていたそうだ。

こうした事例は、なにも明日香村に限った民俗ではなく県内の何か所かで行われていた。

大和郡山市の南部。

2月1日にとんど行事をしている柏木町にも小豆粥事例がある。

とんど行事に参集されていた役員のO氏。

実は、とんどに行く前に、既にしていた、という。

その件に急ぎの拝見。

先に、カラスや猫などのエサになっているかも・・・そう、思った小走り。

枇杷の葉に小豆粥を供えていた場は、お家の門屋前。

千切ったモチも一緒に供えた


枇杷の葉は、薬になるから皿代わりに盛った。

その年の穢れを祓う意味がある小豆粥御供。

「町内では何軒かがしてはった」と話してくれた。

また、五條市の上之町金光寺の檀家総代家もビワの葉にアズキガユを供える、と話していた。

天理市豊井町も小正月に小豆粥。

しかも、供えるその場は苗代の田。

荒起こしをしたばかりの苗代の田である。

尤も、苗代つくりは、先の先になる5月はじめになるが・・・

小正月に五穀豊穣を願う農耕の予祝行事。

O家では小正月の15日の朝食に小豆粥を炊き、苗代の田に出かけ、正月のモチと小豆粥に煎った米も供える。

半紙に包んで供える御供に、正月のモチと同様にツルシガキ、トコロイモ、ミカンにモチも供えるO家の事例。

供えた場に立てていた穂付きのカヤススキ。

実物を拝見したのは、ここ豊井が初見だった


15日の朝食後に供えたと田んぼの主が話す小正月の風習話題。

極めて珍しい貴重な暮らしの民俗にわくわくするほど感動したものだ。

他の地域でもされていた小正月のとんどの火で翌朝に小豆粥を炊いて食べる風習。

明日香の越(こし)や高取の佐田でも聞いたことがある。

その佐田ではツバキの葉。

越ではカシの葉を皿替わりに盛ると話していた事例もある。

いずれも実態を見たことがなかっただけに、それぞれの地域、民家に拝見した枇杷の葉のせ小豆粥には感動したものだ。

小正月の枇杷の葉のせ小豆粥の在り方をつらつら書いてきたが、長くなってしまった。

さて、富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の民俗調査である。

たまたまであるが、神社の所在地は、存じていた。

遡ること9年前の平成26年9月14日。

田原本町・佐味の八王子講の聞き取り調査


お昼に摂った食事処は、西竹田の地にある台湾食堂・美食城

食後に、ふらりと立ち寄った田原本町・富本(とんもと)に鎮座する冨都(※ふつ)神社

集落までは行けなかったが、村の風景、佇まいにどこか感じるものがあった。

1月13日に立ち寄り、富本(とんもと)の集落景観や雰囲気を感じておこう。

ぶらりと散歩する気分に、車が停められる場も探しておこう。

着いた時間は、午前11時過ぎ。

1時間ほどの散策に、結局はどなたとも遭遇しなかった。

神社や、寺院、石仏など、気になる場にお供えはあるのか。

正月明けの13日に、暮らしの民俗を探してみる。

まずは、冨都(※ふつ)神社

鳥居の傍に建てた神社の由来などを解説した田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」・・(平成21年度 No4 田観)を頭に入れ、それから参拝する。

境内入口辺りに建てていた常夜燈。



氏子中が寄進、「明和六己丑(1769)年九月吉日」に建之した塔に「牛頭天皇」と、ある。

歴史から見れば、ここは神社であるから「牛頭天皇」ではなく「牛頭天王」が相応しい。



本殿前の拝殿。



その前に阿吽の獅子像がある。



台座に「願主 少庄抄(※若しくは小ノ庄村とも読める) 庄兵衛 天井村 庄吉」、「天保十二辛丑□年吉日 」の刻印が見える。



気になる「天井村」。

大和郡山市内に天井町の地名がある。

もしか・・“天井村“の”庄吉が” 小ノ庄村(※十市郡の下ノ庄村が考えられる)の“庄兵衛”の二人が、寄進した願主ではないだろうか。

あらためて拝見した手水鉢の蛇口。



取材当時は、龍の口では、と思っていたが、よくよく見れば、まるでシンガポールにある「マーライオン」に、さも似たり。

そう、見えただけだが、獅子の顔に見えるこのような意匠ははじめて、だ。

田原本町観光協会・田原本歴史遺産「神々を訪ねて」には、この件に関して記載がないから、文字数の関係から触れないことにしたのだろう。

神社から離れて西の集落をめぐる。

西へ直進したそこは集会所。



すぐ横に整備された場に、2体の石仏地蔵尊。

地蔵堂に安置していた。

左にあるのは庚申塔。



石仏地蔵にはしめ縄は見られないが、庚申塔にはある。

おそらく庚申講の存在が考えられよう。



大字富本の集落については、地元富本自治会が記載、大和磯城ライオンズクラブが、寄贈した「町・村の歴」・・(平成23年度 )LNo.37を参照、としよう。



さらに、奥へ奥へとめぐったが、それらしきものはなく、ここにも地蔵石仏が見つかったが、ここにもしめ縄は見られない。

この向こうは、集落の端。



多分に考えられる環濠集落ではないだろうか。

帰宅して、ネットをぐぐったら、やはり、であった

戻りに拝見した民家それぞれが飾ったしめ縄のカタチ。



市販製品も見られたが、少なくとも旧家は、新米で結った稲藁。



これこそ、日本の文化歴史を感じる暮らしの民俗。

中央にウラジロ、ユズリハ。

みかんをあしらったしめ縄。



きちん、と七・五・三の房を垂らした手つくり感がいい。

一部しか、調査ができなかったが、全戸調査するには、もっと多くの時間、体力を要する。

午前11時からの下見は、集落の人たちとお会いできなかったが、有意義だった。

もう少し時間がある。

見ておきたい富本の田園。

割合、川幅が広い水路(※かんでん川と呼ばれているようだ)は、田園を潤す栽培の命水。

向こう岸に見えた藁積み。

この時期にも使いたい農の道具。

野菜畑に敷く藁もあれば、支柱に茎とか蔓を結わえ固定する道具でもある。

昨今は、地産地消の店とか道の駅に売っている。

家庭菜園をされている方たちのお買い物。

その藁積みは、もう一か所見つかった。

岸の向こう集落地の東側の藁積みは細かい状態を見たいが、橋に戻る距離が遠い。

諦めて歩きだした水路の東。数軒並びの民家の東側にあった藁積みの形状。

私は、この形状を探していた。

やや崩れてはいるが、屋根付きの家型藁積み。

大和郡山市の小南町に住む元一老のUさんが、いうには「ちょっぽ」。

親父さんからは「ちょっぽせぇー」と、云われて、藁を積んでいたそうだ。

もっと、もっと歩いてみたいが、時間帯は正午。

それほど遠くないが、丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・

(R4. 1.13 SB805SH 撮影)