(大手拓次詩集 「青春の詩集 日本編⑫」白鳳社 昭和40年刊。141編の詩が収録されている)
郷土の詩人、大手拓次、明治20~昭和9年(1887~1934)。
これまで、なにかのアンソロジーで、3~4編は読んでいるはずだけど、
気になる詩人というにはほど遠い、風変わりな詩人で片づけていた。
上州(群馬)出身の詩人では、
萩原朔太郎(1886~1942年)
山村暮鳥(1884~1924年)
萩原恭次郎(1899~1938年)
・・・等々の詩人が存在し、1910年代から1930年代にかけて、詩の王国のようなものを形成していた。
しかし比較的よく読んだといえるのは、朔太郎のみ。
なんだかカビくさく、おもしろくないとかんがえて、アンソロジーでサッと読んで、わかったつもりでいた。
ところが、先日、たまたまリサイクルショップで「大手拓次詩集」↑(神保光太郎編 白鳳社)を見つけ、気まぐれに買って帰った。
読んでみたら、これが想像以上のおもしろさ。
詩集「藍色の蟇(ひき)」(昭和11年=1935年刊)から、3編を抜粋してみよう♪
■美の遊行者
そのむかし、わたしの心にさわいだ野獣の嵐が、
初夏の日にひややかによみがへってきた。
すべての空想のあたらしい核(たね)をもとめようとして
南洋のながい髪をたれた女鳥(をんなどり)のやうに、
いたましいほどに狂いみだれたそのときの一途の心が
いまもまた、このおだやかな遊惰の日に法服をきた昔の知り人のやうにやってきた。
なんといふあてもない寂しさだらう。
白磁の皿にもられたこのみのやうに人を魅する冷たい哀愁がながれでる。
わたしはまことに美の遊行者であった。
苗床のなかにめぐむ憂いの芽望みの芽、
わたしのゆくみちには常にかなしい雨がふる。
詩集「藍色の蟇(ひき)」所収
■莟(つぼみ)から莟へあるいてゆく人
まだこころをあかさない
とほいむかふにある恋人のこゑをきいていると、
ゆらゆらする うすあかいつぼみの花を
ひとつ ひとつ あやぶみながらあるいてゆくようです。
その花の
ひとの手にひらかれるのをおそれながら、
かすかな ゆくすゑのにおひをおもひながら、
やはらかにみがかれたしろい足で
そのあたりをあるいてゆくのです。
ゆふやみの花と花とのあいだに
こなをまきちらす花蜂のやうに
あなたのみづみづしいこゑにぬれまみれて、
ねむり心地にあるいてゆくのです。
詩集「藍色の蟇(ひき)」所収
■青青とよみがえる
わたしの過去は 木の葉からわかれてゆく影のやうに
よりどころなく ちりぢりに うすれてゆくけれど、
その笛のねのやうな はかない思いでは消えることなく
ゆふうぐれごとに、
小雨する春の日ごとに、
月光のぬれてながれる夜夜(よるよる)に、
わたしの心のなかに
あをあをと よみがへる。
詩集「藍色の蟇(ひき)」所収
大手拓次論のたぐいは読んだ記憶がないので、本書「大手拓次詩集」の巻末に付された神保光太郎の「美神に憑かれて ―大手拓次の人と作品―」およびWikipediaに掲載された記事を参照する程度の知識しかない。
したがって、多少見当はずれな見方になってしまうかも知れないが、本書の大半をしめる詩集「藍色の蟇(ひき)」に見られる大手拓次は、左耳が不自由であったせいであろうか、香りに敏感な千変万化のイメージをユニークにあやつる幻視者である。
《あなたの詩を読むのは、香水のにほひをかぐような気もちがする。あなたのような詩を今の詩壇でよむことはできません。あなたの詩の香気は、日本語というよりむしろふらんす語に近いものだ》と朔太郎は大手拓次宛の手紙に書いているそうである(本書巻末付録 宮沢章二によるノート)。
(「藍色の蟇」初版本、ネット上の画像をお借りしました)
(※長くなったため、2回に分けて掲載させていただく)
郷土の詩人、大手拓次、明治20~昭和9年(1887~1934)。
これまで、なにかのアンソロジーで、3~4編は読んでいるはずだけど、
気になる詩人というにはほど遠い、風変わりな詩人で片づけていた。
上州(群馬)出身の詩人では、
萩原朔太郎(1886~1942年)
山村暮鳥(1884~1924年)
萩原恭次郎(1899~1938年)
・・・等々の詩人が存在し、1910年代から1930年代にかけて、詩の王国のようなものを形成していた。
しかし比較的よく読んだといえるのは、朔太郎のみ。
なんだかカビくさく、おもしろくないとかんがえて、アンソロジーでサッと読んで、わかったつもりでいた。
ところが、先日、たまたまリサイクルショップで「大手拓次詩集」↑(神保光太郎編 白鳳社)を見つけ、気まぐれに買って帰った。
読んでみたら、これが想像以上のおもしろさ。
詩集「藍色の蟇(ひき)」(昭和11年=1935年刊)から、3編を抜粋してみよう♪
■美の遊行者
そのむかし、わたしの心にさわいだ野獣の嵐が、
初夏の日にひややかによみがへってきた。
すべての空想のあたらしい核(たね)をもとめようとして
南洋のながい髪をたれた女鳥(をんなどり)のやうに、
いたましいほどに狂いみだれたそのときの一途の心が
いまもまた、このおだやかな遊惰の日に法服をきた昔の知り人のやうにやってきた。
なんといふあてもない寂しさだらう。
白磁の皿にもられたこのみのやうに人を魅する冷たい哀愁がながれでる。
わたしはまことに美の遊行者であった。
苗床のなかにめぐむ憂いの芽望みの芽、
わたしのゆくみちには常にかなしい雨がふる。
詩集「藍色の蟇(ひき)」所収
■莟(つぼみ)から莟へあるいてゆく人
まだこころをあかさない
とほいむかふにある恋人のこゑをきいていると、
ゆらゆらする うすあかいつぼみの花を
ひとつ ひとつ あやぶみながらあるいてゆくようです。
その花の
ひとの手にひらかれるのをおそれながら、
かすかな ゆくすゑのにおひをおもひながら、
やはらかにみがかれたしろい足で
そのあたりをあるいてゆくのです。
ゆふやみの花と花とのあいだに
こなをまきちらす花蜂のやうに
あなたのみづみづしいこゑにぬれまみれて、
ねむり心地にあるいてゆくのです。
詩集「藍色の蟇(ひき)」所収
■青青とよみがえる
わたしの過去は 木の葉からわかれてゆく影のやうに
よりどころなく ちりぢりに うすれてゆくけれど、
その笛のねのやうな はかない思いでは消えることなく
ゆふうぐれごとに、
小雨する春の日ごとに、
月光のぬれてながれる夜夜(よるよる)に、
わたしの心のなかに
あをあをと よみがへる。
詩集「藍色の蟇(ひき)」所収
大手拓次論のたぐいは読んだ記憶がないので、本書「大手拓次詩集」の巻末に付された神保光太郎の「美神に憑かれて ―大手拓次の人と作品―」およびWikipediaに掲載された記事を参照する程度の知識しかない。
したがって、多少見当はずれな見方になってしまうかも知れないが、本書の大半をしめる詩集「藍色の蟇(ひき)」に見られる大手拓次は、左耳が不自由であったせいであろうか、香りに敏感な千変万化のイメージをユニークにあやつる幻視者である。
《あなたの詩を読むのは、香水のにほひをかぐような気もちがする。あなたのような詩を今の詩壇でよむことはできません。あなたの詩の香気は、日本語というよりむしろふらんす語に近いものだ》と朔太郎は大手拓次宛の手紙に書いているそうである(本書巻末付録 宮沢章二によるノート)。
(「藍色の蟇」初版本、ネット上の画像をお借りしました)
(※長くなったため、2回に分けて掲載させていただく)