先日、長い間行方がわからなくなっている「悲しき熱帯」「野生の思考」を買いなおし、スタンバイさせてあるが、どちらも過去に二度、数十ページで挫折した苦い経験がある(ノ_・)。
なので、また同じあやまりをおかさないよう、外濠を埋めてから本丸に取りかかるつもりで、本書を手にした。
このほか小田亮さんの「レヴィ=ストロース入門」(ちくま新書)や渡辺公三さんの「闘うレヴィ=ストロース」(平凡社新書)も持っていて、拾い読みしている。
学生時代に神田の古書店で「野生の思考」を買い、読みはじめたが、何が論じられているのか、皆目見当がつかず、20ページほどで投げ出している。
世界の名著〈第59巻〉「マリノフスキー,レヴィ=ストロース 西太平洋の遠洋航海者 悲しき熱帯」も手許にある。文化人類学、民族学には若いころから関心だけはあった。
いま新刊で買うと「野生の思考」は5185円(税込)もするので、“本棚に飾っておくだけ”にはしたくない。
というわけで、日本におけるレヴィ=ストロースの直弟子・川田順造さんのこの本を買うことにしたのだ。レヴィ=ストロースという高峰に登るためには、ほかに渡辺公三さん、中沢新一さんを登攀路に選んでもいいだろうが、今回は川田さんを選択。
いやはやおもしろかった(^-^*)/ いろいろな雑誌にその都度発表された論考の“集成”なので、凸凹やくり返しはある。それを差し引いても、本書の価値はゆるがない。
川田順造さんの率直かつ誠意あふれる書きぶりに、すっかり魅了され、すばらしい時間を過ごすことができたことを感謝申し上げたい。
冒頭には川田さんご自身が撮影したレヴィ=ストロースの写真が掲げられている。
《レヴィ=ストロース先生 別荘のサロンで、2歳のときの肖像画の前で1986年7月著者撮影》というキャプションが付せられている。本書表紙にカラーでレイアウトされているのがそれ。
この一枚のポートレイトが、本書を読みおえたいま、ずっしりと胸に応えるのは、川田さんが、その写真を撮った経緯を、本文の中で、何度もくり返し語っているからだ。
《世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう》
このことばは川田さんの、いわば座右の銘と称すべきひとこと。227ページには、川田さんがレヴィ=ストロースにねだって書いてもらった色紙(?)が掲載されている。レヴィ=ストロースはじつに長命で亡くなったのは2009年、101歳のとき。「ポスト構造主義」と一括りにされた思想家より長生きであった(ちなみにM・フーコーは1984年58歳で死去)。
親日家で、招きに応じ、5回も来日していることも、この本で知った。
集められたエッセイの読みどころはいろいろある。わたし的には「「なぜ熱帯はいまも悲しいのか」「レヴィ=ストロース、日本へのまなざし」「レヴィ=ストロースへの道/レヴィ=ストロースからの道」「二十世紀の出口で」(レヴィ=ストロース/インタビュー)は読みごたえがあり、ときおり目頭が熱くなった。
巻末には、著者川田順造さんが作成した詳細な年譜が収録されている。
師であったレヴィ=ストロースへの敬愛の念は並々ならぬものがある。それが、この年譜を作らせたのであり、読む者をして「何というすばらしい師に巡り会えたのだろう」と、羨望の念を呼び起こす、そういう類のものである。
レヴィ=ストロースの死と、その直後の様子を夫人から聞いて書いたドキュメントなど、読者に強烈な印象を刻みつける(。・_・)
とくに「二十世紀の出口で」(レヴィ=ストロース/インタビュー、川田さんご自身のインタビューの日本語訳)は、ラディカルなペシミスト・レヴィ=ストロースの面目躍如たるものがあり、あけすけにいえば、わたしは心底感動した。
川田さんは中公クラシクス「悲しき熱帯」の訳者として、わたしは存じあげていた。しかし本書「レヴィ=ストロース論集成」を読んでいて、「曠野から―アフリカで考える」(中公文庫)を、かつて拾い読みしたことを思い出した。
《私は若い時にマルクスの影響を受けたが、私がマルクスから学んでそして忘れなかったただ一つのことは、人間は空虚の中で思考するのではなく、常に彼の生存の条件を起点として思考するのだということだ。》(本書254ページ)
《いずれにせよ人々は不便な「伝統文化」より、便利で快適な画一文化を主体的に選んだのだ。ヨーロッパでもこの時期の変化のすさまじさは、当時パリへの留学生だった私(川田)もフランスの農村を訪ねて唖然とさせられるようなものだった。》(本書108ページ)
グローバル化とか、画一化の波なのである。しかし、たとえば農村で暮らしているわたしの眼から見ると、その波に抵抗しようとすることはほとんど、個人的には不可能に近い。ごくごく例外的な人々を残し、途方もなく大きなうねりが、人々を、そしてわたし自身を呑み込んでいくのがわかる(☍﹏⁰)。
まちがいなくわたしもそれに加担している多数者の側に立つ一人。
祖父や父のことを考えると、胸がしめつけられる。わたしにとってはまさに解決不能なパラドックスといっていいものである。
都市も農村も荒廃していく。それは人々の心の荒廃を、そのまま反映しているはずだ。
頭の先からつま先まで「商品経済」にまみれ、コンビニに象徴されるような「便利で快適な生活」を送っているこの現実!
レヴィ=ストロースについて書いている川田さんのこの一冊は、わたしに猛省をうながしているように思われる。そうだな、そうなのだ。
わたしにはまだ、レヴィ=ストロースがどれほど大きな知性、大きな感性であったのか、十分には理解できていないのだろう。それは確実である。
※晩年のレヴィ=ストロース(ウィキベディアよりお借りしました)
評価:☆☆☆☆☆
なので、また同じあやまりをおかさないよう、外濠を埋めてから本丸に取りかかるつもりで、本書を手にした。
このほか小田亮さんの「レヴィ=ストロース入門」(ちくま新書)や渡辺公三さんの「闘うレヴィ=ストロース」(平凡社新書)も持っていて、拾い読みしている。
学生時代に神田の古書店で「野生の思考」を買い、読みはじめたが、何が論じられているのか、皆目見当がつかず、20ページほどで投げ出している。
世界の名著〈第59巻〉「マリノフスキー,レヴィ=ストロース 西太平洋の遠洋航海者 悲しき熱帯」も手許にある。文化人類学、民族学には若いころから関心だけはあった。
いま新刊で買うと「野生の思考」は5185円(税込)もするので、“本棚に飾っておくだけ”にはしたくない。
というわけで、日本におけるレヴィ=ストロースの直弟子・川田順造さんのこの本を買うことにしたのだ。レヴィ=ストロースという高峰に登るためには、ほかに渡辺公三さん、中沢新一さんを登攀路に選んでもいいだろうが、今回は川田さんを選択。
いやはやおもしろかった(^-^*)/ いろいろな雑誌にその都度発表された論考の“集成”なので、凸凹やくり返しはある。それを差し引いても、本書の価値はゆるがない。
川田順造さんの率直かつ誠意あふれる書きぶりに、すっかり魅了され、すばらしい時間を過ごすことができたことを感謝申し上げたい。
冒頭には川田さんご自身が撮影したレヴィ=ストロースの写真が掲げられている。
《レヴィ=ストロース先生 別荘のサロンで、2歳のときの肖像画の前で1986年7月著者撮影》というキャプションが付せられている。本書表紙にカラーでレイアウトされているのがそれ。
この一枚のポートレイトが、本書を読みおえたいま、ずっしりと胸に応えるのは、川田さんが、その写真を撮った経緯を、本文の中で、何度もくり返し語っているからだ。
《世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう》
このことばは川田さんの、いわば座右の銘と称すべきひとこと。227ページには、川田さんがレヴィ=ストロースにねだって書いてもらった色紙(?)が掲載されている。レヴィ=ストロースはじつに長命で亡くなったのは2009年、101歳のとき。「ポスト構造主義」と一括りにされた思想家より長生きであった(ちなみにM・フーコーは1984年58歳で死去)。
親日家で、招きに応じ、5回も来日していることも、この本で知った。
集められたエッセイの読みどころはいろいろある。わたし的には「「なぜ熱帯はいまも悲しいのか」「レヴィ=ストロース、日本へのまなざし」「レヴィ=ストロースへの道/レヴィ=ストロースからの道」「二十世紀の出口で」(レヴィ=ストロース/インタビュー)は読みごたえがあり、ときおり目頭が熱くなった。
巻末には、著者川田順造さんが作成した詳細な年譜が収録されている。
師であったレヴィ=ストロースへの敬愛の念は並々ならぬものがある。それが、この年譜を作らせたのであり、読む者をして「何というすばらしい師に巡り会えたのだろう」と、羨望の念を呼び起こす、そういう類のものである。
レヴィ=ストロースの死と、その直後の様子を夫人から聞いて書いたドキュメントなど、読者に強烈な印象を刻みつける(。・_・)
とくに「二十世紀の出口で」(レヴィ=ストロース/インタビュー、川田さんご自身のインタビューの日本語訳)は、ラディカルなペシミスト・レヴィ=ストロースの面目躍如たるものがあり、あけすけにいえば、わたしは心底感動した。
川田さんは中公クラシクス「悲しき熱帯」の訳者として、わたしは存じあげていた。しかし本書「レヴィ=ストロース論集成」を読んでいて、「曠野から―アフリカで考える」(中公文庫)を、かつて拾い読みしたことを思い出した。
《私は若い時にマルクスの影響を受けたが、私がマルクスから学んでそして忘れなかったただ一つのことは、人間は空虚の中で思考するのではなく、常に彼の生存の条件を起点として思考するのだということだ。》(本書254ページ)
《いずれにせよ人々は不便な「伝統文化」より、便利で快適な画一文化を主体的に選んだのだ。ヨーロッパでもこの時期の変化のすさまじさは、当時パリへの留学生だった私(川田)もフランスの農村を訪ねて唖然とさせられるようなものだった。》(本書108ページ)
グローバル化とか、画一化の波なのである。しかし、たとえば農村で暮らしているわたしの眼から見ると、その波に抵抗しようとすることはほとんど、個人的には不可能に近い。ごくごく例外的な人々を残し、途方もなく大きなうねりが、人々を、そしてわたし自身を呑み込んでいくのがわかる(☍﹏⁰)。
まちがいなくわたしもそれに加担している多数者の側に立つ一人。
祖父や父のことを考えると、胸がしめつけられる。わたしにとってはまさに解決不能なパラドックスといっていいものである。
都市も農村も荒廃していく。それは人々の心の荒廃を、そのまま反映しているはずだ。
頭の先からつま先まで「商品経済」にまみれ、コンビニに象徴されるような「便利で快適な生活」を送っているこの現実!
レヴィ=ストロースについて書いている川田さんのこの一冊は、わたしに猛省をうながしているように思われる。そうだな、そうなのだ。
わたしにはまだ、レヴィ=ストロースがどれほど大きな知性、大きな感性であったのか、十分には理解できていないのだろう。それは確実である。
※晩年のレヴィ=ストロース(ウィキベディアよりお借りしました)
評価:☆☆☆☆☆