へんなタイトルを考えついたものである。
眠りながらというのではなく、寝ころがって読んでも理解できる、やさしい入門書ですよ、といいたいのである。少々生意気ないい方をすれば、著者が考えたのか、編集者が発案したのか知らぬが、いかにも座りが悪いことばである。
「入門書」としたのでは、類書にうもれてしまうと判断したのであろう。
現代は「ポスト構造主義」の時代と呼ばれているそうである。
19世紀から20世紀初頭にかけて活躍し、20世紀の思想に決定的な影響をおよぼした三人の思想家。ニーチェ、マルクス、フロイト、・・・この三人の思想を概観するところから筆を起こし、構造主義の先駆者ソシュールと、「四銃士」フーコー、ロラン・バルト、レヴィ・ストロース、ラカンをやさしく噛み砕いて論じている。
学生に向けた講義録がもとになっているらしいので、たいへんわかりやすい入門書である。
20世紀はたしかにイデオロギーの時代であった。
マルキシズムは主としてロシアにおいて、精神分析は主としてアメリカにおいて、その後継者を見出し、世界の歴史を変えたのであった。むろん、現代につながる交通網やマス・メディアの発達が、そういった思想を後押しし、第一次、第二次の世界大戦をくぐりぬけ、国境を組替えたり、多くの独立国を生んだりしたのであった。
著者は「構造主義前史」を飾った三人の思想家を検証するところから説きおこす。
それが予備知識がほとんどない読者のひとりであるわたしにも、説得力を発揮することとなり、引きずり込まれてしまった。
ミッシェル・フーコーの「知の考古学」「監獄の誕生」、ロラン・バルトの「零度の文学」「表徴の帝国」などは、わたしも手に取ったことがある。しかし、これほど難解でこみいった本は、到底歯がたたないと、すぐに投げ出したのであった。
1960年代後半あたりからであったと記憶するが、構造主義の台頭によって、それまで注目を一身にあびていた観のあった実存主義が、みるみる後退し、色あせていったのは、わたしなりに理解していた、と思う。
あたらしい世界観の登場。
これまでのすべての思想を相対化せずにはおかない、ラディカルな新思想。
さて、本書を読んでいちばん興味深かったのは、レヴィ・ストロースの世界観であった。
<「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、そもそも「別の思考」なのであり、比較して優劣を論じること自体無意味>
<あらゆる文明はおのれの思考の客観性指向を過大評価する傾向にある。>
<人間の作り出すすべての社会システムはそれが「同一状態にとどまらないように構造化されている>
こういった考え方によって、われわれは、ヨーロッパ中心主義の桎梏から解放されたのであった。たえず発展し変化しつづける社会は「熱い社会」、原始時代のまま野生の思考が領する社会を「冷たい社会」とする彼の概念は、われわれに、それまで予測できなかったあたらしい基準で、人間というものの在りようを照射したように思われる。
ヨーロッパ・アメリカ型の倨傲は、わが日本のような社会をも、広く被っているようである。「文明の型、思考」はひとつではない、と考えることによって、われわれは別な文明を理解する端緒を手に入れたのであろう。
むろんこのことと、いわゆる「アジア・アフリカ問題」とは別次元の課題ではある。
残念ながら、わたしは思想史・哲学史についてはまったく知識がないので、内田さんの位置を、著者の創見や本書の独自性がどのあたりにあるのかを、正しくいいあてることはできない。手厳しくいえば、たぶん「良質な祖述者」といったところに落ち着くのであろう。
しかし、物事を平易に語るとは、深い理解を前提としているのである。これはわたしの偏見かもしれないが、難解な論述のため構造主義の入口でまごついていた多くの読者にとっては、本書は、疑いなくいくつかの貴重な手がかりをあたえてくれる。
ポスト構造主義。
「21世紀のいま、はたしてどんな思想が台頭し、世の注目をあびることとなるのか?」
本書を読んで、そのことを考えずにはいられない。
それにしても、・・・とわたしは思う。
19世紀はジュラ紀の恐竜のように、知の巨人たちが登場し、地球上を歩きまわって大きな足あとを残した時代であったのだな~という素朴な驚き。
哲学、思想の分野だけでなく、文学においても、ディケンズ、バルザック、メルヴィル、ドストエフスキー、トルストイなどみなこの世紀に活躍した人物である。
むろん、それを準備したのは、18世紀なのだが・・・。
内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書>☆☆☆★
関連link
・内田 樹 「内田樹の研究室」
http://blog.tatsuru.com/
・橋爪大三郎「橋爪大三郎研究室」
http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/index.html
眠りながらというのではなく、寝ころがって読んでも理解できる、やさしい入門書ですよ、といいたいのである。少々生意気ないい方をすれば、著者が考えたのか、編集者が発案したのか知らぬが、いかにも座りが悪いことばである。
「入門書」としたのでは、類書にうもれてしまうと判断したのであろう。
現代は「ポスト構造主義」の時代と呼ばれているそうである。
19世紀から20世紀初頭にかけて活躍し、20世紀の思想に決定的な影響をおよぼした三人の思想家。ニーチェ、マルクス、フロイト、・・・この三人の思想を概観するところから筆を起こし、構造主義の先駆者ソシュールと、「四銃士」フーコー、ロラン・バルト、レヴィ・ストロース、ラカンをやさしく噛み砕いて論じている。
学生に向けた講義録がもとになっているらしいので、たいへんわかりやすい入門書である。
20世紀はたしかにイデオロギーの時代であった。
マルキシズムは主としてロシアにおいて、精神分析は主としてアメリカにおいて、その後継者を見出し、世界の歴史を変えたのであった。むろん、現代につながる交通網やマス・メディアの発達が、そういった思想を後押しし、第一次、第二次の世界大戦をくぐりぬけ、国境を組替えたり、多くの独立国を生んだりしたのであった。
著者は「構造主義前史」を飾った三人の思想家を検証するところから説きおこす。
それが予備知識がほとんどない読者のひとりであるわたしにも、説得力を発揮することとなり、引きずり込まれてしまった。
ミッシェル・フーコーの「知の考古学」「監獄の誕生」、ロラン・バルトの「零度の文学」「表徴の帝国」などは、わたしも手に取ったことがある。しかし、これほど難解でこみいった本は、到底歯がたたないと、すぐに投げ出したのであった。
1960年代後半あたりからであったと記憶するが、構造主義の台頭によって、それまで注目を一身にあびていた観のあった実存主義が、みるみる後退し、色あせていったのは、わたしなりに理解していた、と思う。
あたらしい世界観の登場。
これまでのすべての思想を相対化せずにはおかない、ラディカルな新思想。
さて、本書を読んでいちばん興味深かったのは、レヴィ・ストロースの世界観であった。
<「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、そもそも「別の思考」なのであり、比較して優劣を論じること自体無意味>
<あらゆる文明はおのれの思考の客観性指向を過大評価する傾向にある。>
<人間の作り出すすべての社会システムはそれが「同一状態にとどまらないように構造化されている>
こういった考え方によって、われわれは、ヨーロッパ中心主義の桎梏から解放されたのであった。たえず発展し変化しつづける社会は「熱い社会」、原始時代のまま野生の思考が領する社会を「冷たい社会」とする彼の概念は、われわれに、それまで予測できなかったあたらしい基準で、人間というものの在りようを照射したように思われる。
ヨーロッパ・アメリカ型の倨傲は、わが日本のような社会をも、広く被っているようである。「文明の型、思考」はひとつではない、と考えることによって、われわれは別な文明を理解する端緒を手に入れたのであろう。
むろんこのことと、いわゆる「アジア・アフリカ問題」とは別次元の課題ではある。
残念ながら、わたしは思想史・哲学史についてはまったく知識がないので、内田さんの位置を、著者の創見や本書の独自性がどのあたりにあるのかを、正しくいいあてることはできない。手厳しくいえば、たぶん「良質な祖述者」といったところに落ち着くのであろう。
しかし、物事を平易に語るとは、深い理解を前提としているのである。これはわたしの偏見かもしれないが、難解な論述のため構造主義の入口でまごついていた多くの読者にとっては、本書は、疑いなくいくつかの貴重な手がかりをあたえてくれる。
ポスト構造主義。
「21世紀のいま、はたしてどんな思想が台頭し、世の注目をあびることとなるのか?」
本書を読んで、そのことを考えずにはいられない。
それにしても、・・・とわたしは思う。
19世紀はジュラ紀の恐竜のように、知の巨人たちが登場し、地球上を歩きまわって大きな足あとを残した時代であったのだな~という素朴な驚き。
哲学、思想の分野だけでなく、文学においても、ディケンズ、バルザック、メルヴィル、ドストエフスキー、トルストイなどみなこの世紀に活躍した人物である。
むろん、それを準備したのは、18世紀なのだが・・・。
内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書>☆☆☆★
関連link
・内田 樹 「内田樹の研究室」
http://blog.tatsuru.com/
・橋爪大三郎「橋爪大三郎研究室」
http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/index.html