林(高木) 朗子
理化学研究所 脳神経科学研究センター
多階層精神疾患研究チーム チームリーダー
今もなお、心の健康や精神衛生の問題に悩む人も少なくありませんが、その一方で、心の問題に対する、原因の解明や治療法開発のための研究も飛躍的に進んできています。
今回は、脳科学の視点から心の病についての最新研究がまとめられた話題の本、『「心の病」の脳科学』(講談社ブルーバックス)の中から、統合失調症でおこる「妄想」について紹介しています。統合失調症の研究から見えてきた、「新たな仮説」とはーー。
*本記事は『「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか』を一部再編集の上、紹介しています。
統合失調症では、神経細胞が独裁主義に変化する?
脳のネットワークを構成する神経細胞には、情報を送る軸索と情報を受け取る樹状突起との間に、わずかな「すき間」があり、このつなぎ目のことをシナプスと呼びます。
情報は、電気信号でシナプスまで到達し、前側の神経細胞(シナプス前細胞)から神経伝達物質と呼ばれる化学物質がシナプスへ分泌されます。神経伝達物質は、後ろ側のシナプス(シナプス後細胞)により受け取られ、この化学信号は再び電気信号へ変換されます。
神経細胞の仕組みと構造。神経細胞には、信号を受ける樹状突起と信号を出す軸索という2つの突起があり、周囲の神経細胞とつながっている。軸索にある微小構造物がスパイン。軸索と樹状突起のつなぎ目がシナプス。電気信号が伝わると、シナプスで神経伝達物質に変換され、次の神経細胞に信号が伝えられる
グルタミン酸による興奮とGABAの抑制のバランスが興奮側に傾き、膜電位がある大きさ(閾値[いきち])を超えると、膜電位はさらに上昇し、軸索に電気パルスを出力します。これを神経発火(発火)と呼びます。
本来ならば、多数の神経細胞から同時に信号入力がないと発火しないという民主的な仕組みなのに、統合失調症では、スパインの密度や大きさが変わることで、少数の神経細胞からの信号入力だけで発火してしまうという独裁主義に変化して、それが神経回路の調和を乱しているのではないかと私たちは考えています。
これは非常に新しい仮説です。
「情報の統合」に障害が起きている可能性
少数の神経細胞からの信号入力の影響が大きくなりすぎると、脳の情報処理に何が起きるのでしょうか。脳では、複数の神経細胞が同じタイミングで(同期して)発火することで情報を統合すると考えられます。
たとえば、黒い猫が目の前を歩いているとすると、黒に反応して発火する神経細胞群、猫の形に反応して発火する神経細胞群、物が動いているという事象に反応して発火する神経細胞群というように、多くの神経細胞群が協調して作用することで、「黒い猫が歩いている」という現象を認知できるのです。
もし脳内の発火のタイミングがずれてしまったり、さらに別の記憶、たとえばFBIが容疑者を追跡しているドラマの記憶を保持している神経細胞群が同期発火して同じ回路の中で機能的につながってしまったりしたならば、「今、黒い猫が目の前を通過したのは、FBIが自分を追跡しているからである」と強固に確信する妄想知覚が起こるかもしれません。
統合失調症の多くの患者さんで、電話番号を一時的に覚えるような作業記憶に障害が現れます。電話番号を覚えるときにも、特定の数字に反応する神経細胞群が同期して発火する必要があります。
ところが、少数の神経細胞からの信号入力の影響が大きくなりすぎると、発火のタイミングが変わってしまうと考えられます。入力の影響が大きくなりすぎた神経細胞だけが単独で発火して、同期のタイミングからずれてしまうのです。
これらは、あくまでもまだ仮説の段階で、これから科学的に検証していく必要があります。
シナプスを直接操作して、細胞、回路、行動との関係を調べる
このような仮説を検証するには、シナプスを直接操作し、その結果を定量的に計測し、因果関係を明らかにする必要があります。しかし、ヒトの生きた脳の中でシナプスがはたらく様子を観察することはできません。
CTやMRIなどの脳画像法により、ヒトの脳の構造や機能を調べることはできます。ただし、その解像度はせいぜい1ミリメートルほどです。シナプスは1000分の1ミリメートル(1マイクロメートル)、神経細胞の細胞体の直径も10~20マイクロメートルです。脳画像法によって、シナプスや神経細胞の一つずつのはたらき方を観察することはできないのです。
すなわちシナプスや神経細胞などのマイクロメートルのイベントが病態生理の中核を担うことが、ゲノム研究やモデルマウスで次々と示されてきたにもかかわらず、このスケールの研究は進展が遅れてきたのです。
ヒトでは実施できないシナプスや神経細胞の観察や実験が、マウスならば可能です。21世紀に入り、光遺伝学(オプトジェネティクス)という手法によるマウスの実験が盛んに行われるようになりました。光を当てることにより、任意の神経細胞を発火させたり発火を抑制したりすることができます。
この光遺伝学の手法で特定の神経細胞の発火を操作すると、マウスが走り始めたり、覚えていたことを忘れたりするなど、行動レベルの変化が起きます。こうして、特定の神経細胞の発火と行動との因果関係を生物学的に証明できるようになりました。これは非常に画期的な発見です。しかし、シナプスレベルの因果関係は、少し前までは、ほとんどありませんでした。
そこで、私たちの研究室では、シナプスレベルの光遺伝学の開発に挑戦し、その技術を確立しました。それは大きくなったスパインだけを光で破壊するという技術です(図「スパインだけを光で破壊する方法」)。
スパインだけを光で破壊する方法。スパイン収縮プローブが、局在するスパイン(矢印)だけを破壊する。それにより行動も変化するため、スパインと行動との因果関係が明らかになる(Hayashi-Takagi A. et al., Nature, 2015 をもとに作成)
このシナプス光遺伝学により、シナプスから細胞、神経回路、行動まで、異なるスケールをつないで病気のメカニズムを探るマルチスケールの研究がモデルマウスでできるようになりました。実際に、学習して覚えた記憶を、光照射により忘却できるようになりました。最近、この技術によって、神経発達期に巨大なスパインが形成されないような操作を精神疾患モデルマウスで実行したところ、このモデルマウスで見られる作業記憶障害が正常化することができました。私たちが考えていた仮説を支持する結果であり、まだマウスレベルの知見ですが、統合失調症の病態理解が一歩進んだ瞬間です。
複合的に絡みあった病態生理
これまで統合失調症の原因として多数の仮説が提唱されてきました。
最も有名な仮説はドーパミン仮説と言います。これは、脳内の神経伝達物質であるドーパミンが大脳皮質下という脳領域で過剰に分泌されている結果だという仮説で、広く支持されています。一方で、後述するように、ドーパミン仮説だけで統合失調症のすべての症状を説明することは難しいと考えられています。
ほかにも、GABA作動性神経の活動が弱いというGABA仮説、酸化ストレスという細胞ダメージにより神経細胞の機能に変調が生じるという酸化ストレス仮説など、じつはたくさんの仮説があります。これらの異なる仮説は、お互いに排他的なものではなく、おそらく複合的に絡みあって病態生理を形成していると考えられています。
また統合失調症は単一の疾患ではなく、病因や経過の異なる多様な疾患集合体で、生物学的にはさまざまな種類のグループに分けられると考えられています(不均一性、異質性)。
既存の統合失調症の薬は、ドーパミンの受容体にはたらく拮抗薬です。受容体の穴を塞いで、ドーパミンを受け取れないようにし、症状が改善すると考えられます。しかし、ドーパミン系の薬は、統合失調症の患者さんの社会復帰を難しくしている認知機能障害への効果は不十分なので、違う仕組みの治療法が必要です。
実際にドーパミン拮抗薬だけで完治する患者さんもいらっしゃれば、まったく不十分で認知障害が強く残存する患者さんまでいらっしゃいます。
前者の群は、ドーパミン仮説だけで説明できる要素が強いのかもしれませんし、後者の病態を説明するには、グルタミン酸シナプスやGABA仮説など他の病態生理が必要かもしれません。グルタミン酸とGABAはアクセルとブレーキ役ですので、どちらかの不具合は回りまわって双方の機能の不具合をきたすでしょう。私たちの提唱した新仮説、巨大スパイン仮説もこのような興奮ー抑制バランス仮説と非常に良い整合性があります。
さまざまな仮説を検証して個別化医療を目指す
本記事では、統合失調症についてお話を進めましたが、多かれ少なかれ、すべての精神疾患には何らかのシナプス~神経回路の機能変調があります。そして各々のタイプの疾患に多くの仮説が乱立しています。
大切なことは、患者さんがどのタイプの仮説で説明できそうかを層別化するために、患者さんの病気に関連している遺伝子や体質をより細かく調べ、一人ひとりの病態生理に合わせた個別化医療を進めるプレシジョン・メディシン(精密医療)を開発することです。
そのために、脳科学者たちは、ヒト脳画像の研究、ヒト遺伝子の研究、モデル動物を用いた研究、iPS細胞などを用いた研究などを複合的に組み合わせ、真実を一つひとつ明らかにするために奮闘しています。
(了)
本記事は講談社ブルーバックス公式サイトの記事を転載したものです。
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