福岡県太宰府市宰府にある大宰府天満宮です。
大宰府天満宮は京都の北野天満宮と並び、全国の天満宮の総本社といわれ、学問の神様、菅原道真を祀っています。「飛梅伝説」でも知られるように、境内には約6千本もの梅の木があります。
菅原道真は昌泰4年(901)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、翌々延喜3年(903)に同地で亡くなります。翌年、安楽寺境内に味酒正行(うまさけのやすゆき)が廟を建てました。
都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、道真の祟りと騒がれました。霊を鎮めるため、醍醐天皇は左大臣藤原仲平に大宰府に下向させました。そして道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919)安楽寺天満宮が創建されたのでした。
明治に入り太宰府神社と名称が変わりましたが、昭和22年(1947)太宰府天満宮になりました。受験合格や学業成就などを祈願する参拝客で、年中賑わい、初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上の参詣者がお参りしていきます。
現在の本殿は天正19年(1591)に小早川隆景が寄進したもので桃山時代の荘厳な造りの「五間社流造り」で国の重要文化財に指定されています。
また長禄2年(1458)に建てられた末社志賀社本殿も国の重要文化財に指定されています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
大宰府天満宮は京都の北野天満宮と並び、全国の天満宮の総本社といわれ、学問の神様、菅原道真を祀っています。「飛梅伝説」でも知られるように、境内には約6千本もの梅の木があります。
菅原道真は昌泰4年(901)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、翌々延喜3年(903)に同地で亡くなります。翌年、安楽寺境内に味酒正行(うまさけのやすゆき)が廟を建てました。
都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、道真の祟りと騒がれました。霊を鎮めるため、醍醐天皇は左大臣藤原仲平に大宰府に下向させました。そして道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919)安楽寺天満宮が創建されたのでした。
明治に入り太宰府神社と名称が変わりましたが、昭和22年(1947)太宰府天満宮になりました。受験合格や学業成就などを祈願する参拝客で、年中賑わい、初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上の参詣者がお参りしていきます。
現在の本殿は天正19年(1591)に小早川隆景が寄進したもので桃山時代の荘厳な造りの「五間社流造り」で国の重要文化財に指定されています。
また長禄2年(1458)に建てられた末社志賀社本殿も国の重要文化財に指定されています。
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福岡県大川市酒見字宮内にある風浪宮(ふうろうぐう)です。
地元でおふろうさんと呼ばれている風浪宮(ふうろうぐう)は1800余年の由緒を持つ古社です。御祭神は少童命(わだつみのみこと)、息長垂姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、住吉大神、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)です。
神功皇后が三韓征伐からの帰途(192年頃)筑後国葦原ノ津(大川榎津)に寄った時、勝運を開いた少童命の化身の白鷺が忽然と現れたそうです。その白鷺が止まったクスのある所に社殿を建て少童命を祀ったのがはじまりです。
白鷺が止まったのが御神木でもある「白鷺の楠」で樹齢2千年といわれ、県の天然記念物に指定されています。
拝殿の脇には阿曇磯良丸(あづみいそらまる)の木像があります。少童命を祖神とする海の神とされ、神功皇后の三韓征伐において軍船の海上指揮をとるなどその成功に大きく貢献したそうです。
拝殿、本殿は戦国時代の筑後国柳川城主、蒲池鑑盛(かまちあきもり)によって永録3年(1560)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。また境内にある石造五重塔も国の重要文化財に指定されています。
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地元でおふろうさんと呼ばれている風浪宮(ふうろうぐう)は1800余年の由緒を持つ古社です。御祭神は少童命(わだつみのみこと)、息長垂姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、住吉大神、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)です。
神功皇后が三韓征伐からの帰途(192年頃)筑後国葦原ノ津(大川榎津)に寄った時、勝運を開いた少童命の化身の白鷺が忽然と現れたそうです。その白鷺が止まったクスのある所に社殿を建て少童命を祀ったのがはじまりです。
白鷺が止まったのが御神木でもある「白鷺の楠」で樹齢2千年といわれ、県の天然記念物に指定されています。
拝殿の脇には阿曇磯良丸(あづみいそらまる)の木像があります。少童命を祖神とする海の神とされ、神功皇后の三韓征伐において軍船の海上指揮をとるなどその成功に大きく貢献したそうです。
拝殿、本殿は戦国時代の筑後国柳川城主、蒲池鑑盛(かまちあきもり)によって永録3年(1560)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。また境内にある石造五重塔も国の重要文化財に指定されています。
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福岡県柳川市本城町にある柳川城跡です。
柳川城は柳川藩主・立花氏10万9600石の居城でした。高い石垣と5層の天守閣を誇りましたが明治5年(1872)に焼失しました。石垣も明治7年(1874)の大風により海岸堤防決壊の際の補強に使ったためわずかしか残っていません。城跡は柳城中学校の校庭の一角の小高い丘とわずかな石垣の一部を残すのみです。
柳川城は永禄年中(1558~1569)、蒲池鑑盛(あきもり)によって本格的な城としてなりました。天正8年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐えましたが、謀略により翌年、応永以来の蒲池一族は滅亡しました。
天正15年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際して、その功により城主になりました。関ヶ原役後、田中吉政が入封しましたが元和6年(1620)吉政の子忠政に後継なく断絶。再び立花宗茂が治めることになり、以来明治維新を迎えるまで250年間立花藩の居城になりました。
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柳川城は柳川藩主・立花氏10万9600石の居城でした。高い石垣と5層の天守閣を誇りましたが明治5年(1872)に焼失しました。石垣も明治7年(1874)の大風により海岸堤防決壊の際の補強に使ったためわずかしか残っていません。城跡は柳城中学校の校庭の一角の小高い丘とわずかな石垣の一部を残すのみです。
柳川城は永禄年中(1558~1569)、蒲池鑑盛(あきもり)によって本格的な城としてなりました。天正8年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐えましたが、謀略により翌年、応永以来の蒲池一族は滅亡しました。
天正15年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際して、その功により城主になりました。関ヶ原役後、田中吉政が入封しましたが元和6年(1620)吉政の子忠政に後継なく断絶。再び立花宗茂が治めることになり、以来明治維新を迎えるまで250年間立花藩の居城になりました。
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福岡県柳川市沖端町にある北原白秋生家です。
代々海産物問屋だったという北原白秋生家には白秋の愛用品や著書などを展示しています。また白秋の幼少期の落書なども残されています。
白秋生誕百年にあたる昭和60年(1985)には敷地の一隅、裏庭に隣接して柳川市により北原白秋記念館(柳川市歴史民俗資料館)が開館しました。平成2年(1990)には母屋の下屋の書斎が復元されています。
北原白秋は明治・大正・昭和という時代を生きぬいた詩人です。「水郷柳川は、我詩歌の母体である」と述べ、57才で亡くなるまで生涯柳川を愛し、数多くのすぐれた詩を残しました。
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北原白秋は明治・大正・昭和という時代を生きぬいた詩人です。「水郷柳川は、我詩歌の母体である」と述べ、57才で亡くなるまで生涯柳川を愛し、数多くのすぐれた詩を残しました。
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福岡県柳川市新外町にある 御花 松濤園 です。
松濤園(しょうとうえん)は福岡県柳川市にある柳川藩主立花氏の別邸「御花」に設けられた日本庭園です。景観は松島を模したもので昭和53年に国の名勝に指定されています。
柳川藩主立花鑑虎が元禄10年(1697)普請方の田尻惟貞に命じ総面積約7千坪の集景亭という別邸を造らせました。この地が花畠という地名であった事から、柳川の人々から御花と呼ばれるようになったそうです。
立花家14代当主の立花寛治によって明治42年(1909)から2年にわたって新築された本館は、当時の宮家、富豪たちの間で流行った「西洋館の正面玄関に続く日本建築の大広間」という形式をそのまま残しています。
園内には約280本のクロマツ、1500の庭石、14の石灯籠があります。沓脱石の巨石は旧天守閣の台石を移したと言われています。池のなかの二つの島と多数の岩島および水面は、冬場には500羽もの飛来する野鴨の飛来地になっています。
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柳川藩主立花鑑虎が元禄10年(1697)普請方の田尻惟貞に命じ総面積約7千坪の集景亭という別邸を造らせました。この地が花畠という地名であった事から、柳川の人々から御花と呼ばれるようになったそうです。
立花家14代当主の立花寛治によって明治42年(1909)から2年にわたって新築された本館は、当時の宮家、富豪たちの間で流行った「西洋館の正面玄関に続く日本建築の大広間」という形式をそのまま残しています。
園内には約280本のクロマツ、1500の庭石、14の石灯籠があります。沓脱石の巨石は旧天守閣の台石を移したと言われています。池のなかの二つの島と多数の岩島および水面は、冬場には500羽もの飛来する野鴨の飛来地になっています。
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福岡県久留米市御井町にある高良大社です。
高良大社は筑後国一の宮で、耳納(みのう)連山の最西端、標高312mの高良山にあります。天下の天下たるは高良の高良たるが故なりの言葉通り、鎮西筆頭の神社です。
履中天皇時代(319~409)の創建であるといわれ、延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」と記載され、名神大社に列しています。
正殿に高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、左殿に八幡大神(はちまんおおかみ)、 右殿に住吉大神の三柱の祭神を祀っています。高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる「筑後国神名帳」によると、朝廷から正一位を授けられたとされています。
現在の社殿は、久留米藩3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660)に本殿が、寛文元年(1661)に幣殿・拝殿が完成しています。
本殿は江戸初期の権現造りで、正面から眺めると幅約17m、高さ13m、奥行き32mで神社建築としては九州最大の大きさを誇っています。
建立年次が明らかな社殿として貴重とされ、本殿、幣殿、拝殿は国の重要文化財に指定されています。また明暦元年(1655)、2代藩主忠頼(ただより)寄進の石造大鳥居も国の重要文化財に指定されています。
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履中天皇時代(319~409)の創建であるといわれ、延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」と記載され、名神大社に列しています。
正殿に高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、左殿に八幡大神(はちまんおおかみ)、 右殿に住吉大神の三柱の祭神を祀っています。高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる「筑後国神名帳」によると、朝廷から正一位を授けられたとされています。
現在の社殿は、久留米藩3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660)に本殿が、寛文元年(1661)に幣殿・拝殿が完成しています。
本殿は江戸初期の権現造りで、正面から眺めると幅約17m、高さ13m、奥行き32mで神社建築としては九州最大の大きさを誇っています。
建立年次が明らかな社殿として貴重とされ、本殿、幣殿、拝殿は国の重要文化財に指定されています。また明暦元年(1655)、2代藩主忠頼(ただより)寄進の石造大鳥居も国の重要文化財に指定されています。
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福岡県久留米市北野町中にある北野天満宮です。
北野天満宮は天喜2年(1054)、後冷泉天皇の勅令により僧真仙(しんせん)が筑後河北に鎮祀した75社の一つで、京都北野天満宮の代官所として創建されたそうです。京都の北野天満宮の祭神である菅原道眞の分霊を祀っています。
源平の争乱で社殿は破壊されましたが、源頼義、頼朝によって社殿は再建されました。足利義満の代になると筑後一円を荘園として認められました。
戦国時代、兵火によって社殿は全焼しましたが、永正15年(1518)草野重永が再興、天正15年(1587)久留米城主毛利秀包(ひでかね)、慶長7年(1602)同、田中吉政など社領寄進されています。
天正15年(1587)豊臣秀吉九州征伐の時、一時社領は没収されました。承応3年(1654)久留米藩主有馬瓊林が社殿を改築し、ほぼ現在の天満宮の景観ができ上がりました。
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源平の争乱で社殿は破壊されましたが、源頼義、頼朝によって社殿は再建されました。足利義満の代になると筑後一円を荘園として認められました。
戦国時代、兵火によって社殿は全焼しましたが、永正15年(1518)草野重永が再興、天正15年(1587)久留米城主毛利秀包(ひでかね)、慶長7年(1602)同、田中吉政など社領寄進されています。
天正15年(1587)豊臣秀吉九州征伐の時、一時社領は没収されました。承応3年(1654)久留米藩主有馬瓊林が社殿を改築し、ほぼ現在の天満宮の景観ができ上がりました。
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長崎県南島原市南有馬町にある原城址です。
原城址は明応5年(1496)、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純(8代目)によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害でした。
城構えは本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、出丸などからなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。有馬晴純の代の時は全盛時代となりました。
有馬義直時代には義直が家臣ともども洗礼をうけ、キリシタンとなりました。このため領民も次々と改宗し、領内の寺社は教会へとかえられていきました。その頃、佐賀の龍造寺により再三侵略されました。島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利することが出き、島原半島の南部をかろうじて維持していました。
義直の子、晴信は一旦キリシタン禁圧策をとりましたが、軍事的な理由でキリシタン保護策に変えました。有馬支配下の大多数の領民がキリシタンになりました。仏教徒は弾圧をうけ、寺社はことごとく破壊されたそうです。晴信は慶長17年(1612)に岡本大八事件に連座し配流・切腹となってしまいました。
岡本大八事件
晴信は、有馬家父祖の代に領していた肥前杵島、藤津、彼杵の3郡が以前龍造寺氏に奪われその後鍋島氏の領地となっていたのをとりもどしたいとの野望を持っていました。本多正純の家臣、岡本大八はポルトガル船撃沈と長崎奉行暗殺実行で願いを聞き入れると密約しました。
本多正純に旧領地の下賜について伺いをたてたところ幕府はそんな約束などしていないことが分かりました。長崎奉行を暗殺しようとするとは不届至極として大八は火刑にされました。晴信も領主としてあるまじき行為であると閉門謹慎を命ぜられ、後に切腹させられました。これが岡本大八事件というものです。
岡本大八事件の後、一時有馬領は没収されました。その後、家康の命により、嫡子直純に有馬領四万石が下賜されました。父が切腹されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例のことでした。15歳の時から側近として仕えていたことと、家康の曾孫国姫を妻にしていたことから許されたようです。
直純は家督相続は許されたものの、藩内でキリスト教を取り締まるよう厳命されました。その直純も2年後には宮崎に転封になってしまいました。
その後、元和2年(1616年)大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となりました。松倉氏は更に過酷なキリスト教追放政策を実施しました。寛永14年(1637)、この廃城となっていた原城に一揆の人々が籠城しました。「島原の乱」の舞台になったのです。
天草四郎時貞の墓碑
小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子で本名は益田四郎時貞です。島原の乱では若干15歳という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対戦しました。88日間原城で籠城しましたが圧倒的な幕府軍勢力の総攻撃で落城しました。本丸で斬首され長崎で晒し首にされました。
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城構えは本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、出丸などからなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。有馬晴純の代の時は全盛時代となりました。
有馬義直時代には義直が家臣ともども洗礼をうけ、キリシタンとなりました。このため領民も次々と改宗し、領内の寺社は教会へとかえられていきました。その頃、佐賀の龍造寺により再三侵略されました。島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利することが出き、島原半島の南部をかろうじて維持していました。
義直の子、晴信は一旦キリシタン禁圧策をとりましたが、軍事的な理由でキリシタン保護策に変えました。有馬支配下の大多数の領民がキリシタンになりました。仏教徒は弾圧をうけ、寺社はことごとく破壊されたそうです。晴信は慶長17年(1612)に岡本大八事件に連座し配流・切腹となってしまいました。
岡本大八事件
晴信は、有馬家父祖の代に領していた肥前杵島、藤津、彼杵の3郡が以前龍造寺氏に奪われその後鍋島氏の領地となっていたのをとりもどしたいとの野望を持っていました。本多正純の家臣、岡本大八はポルトガル船撃沈と長崎奉行暗殺実行で願いを聞き入れると密約しました。
本多正純に旧領地の下賜について伺いをたてたところ幕府はそんな約束などしていないことが分かりました。長崎奉行を暗殺しようとするとは不届至極として大八は火刑にされました。晴信も領主としてあるまじき行為であると閉門謹慎を命ぜられ、後に切腹させられました。これが岡本大八事件というものです。
岡本大八事件の後、一時有馬領は没収されました。その後、家康の命により、嫡子直純に有馬領四万石が下賜されました。父が切腹されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例のことでした。15歳の時から側近として仕えていたことと、家康の曾孫国姫を妻にしていたことから許されたようです。
直純は家督相続は許されたものの、藩内でキリスト教を取り締まるよう厳命されました。その直純も2年後には宮崎に転封になってしまいました。
その後、元和2年(1616年)大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となりました。松倉氏は更に過酷なキリスト教追放政策を実施しました。寛永14年(1637)、この廃城となっていた原城に一揆の人々が籠城しました。「島原の乱」の舞台になったのです。
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