福岡県北九州市小倉北区城内にある小倉城です。
小倉城は南北朝時代以後、大内氏、太宰少弐氏、大友氏、菊地氏ら有力大名の争奪の的となり、めまぐるしく城主は交代しました。
天正14年(1586)九州平定の軍を進めた豊臣秀吉は毛利勝信に8万石を与えて小倉城主とし、勝信は小倉城の改築に着手しました。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦後、豊前一国と豊後二郡32万石で入封した細川忠興は中津城に入りました。中津は地の利が悪いため、慶長7年(1602)から5年の歳月をかけて小倉城の大修築をして五重六層の天守を築き上げました。
寛永9年(1632)熊本の加藤忠広が改易になると、細川忠利は熊本に転封。播磨明石から小笠原忠真が15万石で小倉城主となりました。小笠原氏は九州探題として10代続き幕末を迎えました。
幕府の第二次長州征伐の時、小倉藩は奇襲攻撃をした長州軍に破れ、城を自ら焼き払って敗退しました。現在の天守は続櫓とともに昭和34年(1959)に再建されたものです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
小倉城は南北朝時代以後、大内氏、太宰少弐氏、大友氏、菊地氏ら有力大名の争奪の的となり、めまぐるしく城主は交代しました。
天正14年(1586)九州平定の軍を進めた豊臣秀吉は毛利勝信に8万石を与えて小倉城主とし、勝信は小倉城の改築に着手しました。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦後、豊前一国と豊後二郡32万石で入封した細川忠興は中津城に入りました。中津は地の利が悪いため、慶長7年(1602)から5年の歳月をかけて小倉城の大修築をして五重六層の天守を築き上げました。
寛永9年(1632)熊本の加藤忠広が改易になると、細川忠利は熊本に転封。播磨明石から小笠原忠真が15万石で小倉城主となりました。小笠原氏は九州探題として10代続き幕末を迎えました。
幕府の第二次長州征伐の時、小倉藩は奇襲攻撃をした長州軍に破れ、城を自ら焼き払って敗退しました。現在の天守は続櫓とともに昭和34年(1959)に再建されたものです。
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