朝7時起床、日曜日なのに早すぎる。習慣で目が覚めてしまうのだ。授業日誌の更新をしてから、朝食(バタートースト、紅茶)。新聞の書評欄を読んでから、もう一眠り。昼食は豚シャブ(昨日の我が家の夕食の残り)。
朝から降っていた小雨が止んだので、散歩に出る。ラオックスでモバイルパソコンの使い心地を試してみる。VAIOのキータッチはなかなか快適。しかし、いかんせん蒲田のラオックスはモバイルパソコンの展示商品が少なすぎる。比較検討の対象であるFMVが置いてなかった。有隣堂で、先日亡くなった絵門ゆう子さんの本を2冊、『がんと一緒にゆっくりと』と『がんでも私は不思議に元気』(共に新潮社)、中村うさぎ『私という病』(新潮社)、小倉千加子・中村うさぎ『幸福論』(岩波書店)を購入。
帰宅して、録画しておいたTVドラマを2つ、「弁護士のくず」と「クロサギ」を観る。評価は微妙。5点満点で3.5点というところか。どちらも相手(裁判の相手、ターゲットになるプロの詐欺師)がいまひとつクレバーでないのだ。その程度の戦略・作戦で勝ててしまうような相手なのかと。だから主人公が勝ってももの足りなさが残るのだ。それと、「クロサギ」の主人公は高校生のときに父親が詐欺にあって一家心中をして自分だけが生き残ったという暗い過去をもっているのだが、何度もフラッシュバックされる凄惨な心中場面と現在の彼の詐欺行為の軽妙さがいかにも不釣り合いなのだ。豊川悦司の演技力の分だけ「弁護士のくず」の方が面白い。「クロサギ」は見切り、「弁護士のくず」は来週も観ることにする。
夜、絵門ゆう子『がんと一緒にゆっくりと』を読む。フィールドノートを書きながら、たまに考えるのだが、もし自分が癌になったら、あるいは妻がそうなったら、自分はフィールドノートにそのことを書くだろうか。そしてフィールドノートを書き続けるだろうか。無理なような気もするし、そうでもないような気もする。自分と妻の場合とでは違うだろうという気もするし、同じだろうという気もする。結局、そういうことはそのときになってみないとわからない。世の中にはたくさんのブログがあるわけだが(このgooブログだけでも50万もある)、そうした事情で更新が停止したブログもあるはずだし、そうした事情で闘病日記や看病日記に様変わりしたブログもあるはずである。ブログと実生活の関係を考える上で、重要な視点のような気がする。「あとがき」の中で絵門さんはこう書いている。
「病気になったら病気を治すことに集中し、治療に専念し復帰を目指す。これは一つの方法だろう。でも、病気になっても病気を忘れ、生きるという使命感を持てることに向かっていく。これも一つの方法だと私は思う。
がんだと言われてから入院するまでの私は前者だったが、原稿に向かうようになってから後者になっていた。乳がんと付き合い始めてからのことを書きながら、自分ががん患者であることを忘れて夢中になっている時が多かった。夢中になれたことは、私の免疫力を上げたと思う。がんのことを考えるのは、中村先生の診察を受ける時だけでいい。生かされている自分がやることは、がんについて悩むことではなく、私ができることに我を忘れて向かっていくこと。一年間、日々原稿に向かったことは、私にとっての心のリハビリになっていた。」
朝から降っていた小雨が止んだので、散歩に出る。ラオックスでモバイルパソコンの使い心地を試してみる。VAIOのキータッチはなかなか快適。しかし、いかんせん蒲田のラオックスはモバイルパソコンの展示商品が少なすぎる。比較検討の対象であるFMVが置いてなかった。有隣堂で、先日亡くなった絵門ゆう子さんの本を2冊、『がんと一緒にゆっくりと』と『がんでも私は不思議に元気』(共に新潮社)、中村うさぎ『私という病』(新潮社)、小倉千加子・中村うさぎ『幸福論』(岩波書店)を購入。
帰宅して、録画しておいたTVドラマを2つ、「弁護士のくず」と「クロサギ」を観る。評価は微妙。5点満点で3.5点というところか。どちらも相手(裁判の相手、ターゲットになるプロの詐欺師)がいまひとつクレバーでないのだ。その程度の戦略・作戦で勝ててしまうような相手なのかと。だから主人公が勝ってももの足りなさが残るのだ。それと、「クロサギ」の主人公は高校生のときに父親が詐欺にあって一家心中をして自分だけが生き残ったという暗い過去をもっているのだが、何度もフラッシュバックされる凄惨な心中場面と現在の彼の詐欺行為の軽妙さがいかにも不釣り合いなのだ。豊川悦司の演技力の分だけ「弁護士のくず」の方が面白い。「クロサギ」は見切り、「弁護士のくず」は来週も観ることにする。
夜、絵門ゆう子『がんと一緒にゆっくりと』を読む。フィールドノートを書きながら、たまに考えるのだが、もし自分が癌になったら、あるいは妻がそうなったら、自分はフィールドノートにそのことを書くだろうか。そしてフィールドノートを書き続けるだろうか。無理なような気もするし、そうでもないような気もする。自分と妻の場合とでは違うだろうという気もするし、同じだろうという気もする。結局、そういうことはそのときになってみないとわからない。世の中にはたくさんのブログがあるわけだが(このgooブログだけでも50万もある)、そうした事情で更新が停止したブログもあるはずだし、そうした事情で闘病日記や看病日記に様変わりしたブログもあるはずである。ブログと実生活の関係を考える上で、重要な視点のような気がする。「あとがき」の中で絵門さんはこう書いている。
「病気になったら病気を治すことに集中し、治療に専念し復帰を目指す。これは一つの方法だろう。でも、病気になっても病気を忘れ、生きるという使命感を持てることに向かっていく。これも一つの方法だと私は思う。
がんだと言われてから入院するまでの私は前者だったが、原稿に向かうようになってから後者になっていた。乳がんと付き合い始めてからのことを書きながら、自分ががん患者であることを忘れて夢中になっている時が多かった。夢中になれたことは、私の免疫力を上げたと思う。がんのことを考えるのは、中村先生の診察を受ける時だけでいい。生かされている自分がやることは、がんについて悩むことではなく、私ができることに我を忘れて向かっていくこと。一年間、日々原稿に向かったことは、私にとっての心のリハビリになっていた。」