フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月14日(月) 曇りのち雨、夜半に雪に変わる

2011-02-15 01:32:51 | Weblog

  7時半、起床。昨日は晴れていたが、今日は曇り日だ。エビチリとご飯の朝食。8時半に家を出て大学へ。
  午前中は入試関連の業務。お弁当が出なければメルシーにチャーシューメンを食べに行こうと思っていたが、やはりお弁当が待っていた。レトルトの味噌汁の素が付いていたので、カップに入れてポットのお湯を注ぐ。インスタントではあっても熱い味噌汁はホッとする。

  なんだか風邪の初期症状(寒気、首回りの筋肉の痛み、喉の痛み)が出ている。本格化しないうちに対処しなければならない。市販の風邪薬(パブロン)と医者からもらって残っているロキソニン(解熱・鎮痛剤)を飲み、ホカロンを背中に貼る。未済試験の採点が済んだら帰ろうと思っていたが、そうは問屋が卸してくれない。あれこれの打ち合わせが入って、結局、夕刻まで大学に滞在することになる。今月も主任会はあるし、教授会も来月の頭にあるので、その準備をしておかなくてはならないのだ。
  6時に大学を出る。電車の中で黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』を読む。蒲田に着いて、「シャノアール」で切りのいいところまで読んでから、帰宅。私にはよくある行動パターンだが、人から見たらきっとおかしな行動に映るだろう。もし帰宅して、そまま書斎に入っていって、読書の続きができるならば、そうするだろうが、家庭はビジネスホテルではないので、そういうわけにはいかないのである。読書の連鎖はいったん断ち切られ、再開するのは夕食後になるだろう。そうした分断を回避するために、喫茶店という擬似書斎を数百円でレンタルするのである。

  深夜、雪が積もる。しんしんと冷える。書庫に行って、『堺利彦全集』の第一巻を持ってくる。「三十歳記」という明治32年から35年にかけて書かれた日記を読む。明治32年3月16日の日記にはこんなことが書かれている。

  「わが将来につきてこのごろさまざまに思いわずらう、政治家、教育家、文学者、いずれをか選ぶべき、純文学者にては何となく不満足なるは数年来経験したるところなり、さればとて政治家、いわゆる政治家が望ましくもあらず、このごろにては教育家ということを少し考う、されどそれもまた、学閥などある教育界を思えばいやなるここちもするなり、教育文学者、道義文学者、宗教文学者、これ望ましきものの第一か。内村のごときはこれなり、されど我は内村と異なりて別に長所特点あるべきを信ず、もとより内村の長所特点については企及すべくもあらざれど。」

 「三十歳記」の名の通り、当時、堺は数え年30歳。維新前後の長州藩史『防長回天史』を書くアルバイトが一段落して、これからの身の振り方について考えていた頃の日記である(「内村」とは内村鑑三のこと)。当時の30歳はいまの40歳くらいであろうか。その年齢で、人生の方向がまだ定まっていなかったのだから、彼は明治版モラトリアム人間というべきだろう。