9時、起床。モツ鍋の残りでご飯の朝食。
昼から大学へ。3限は選択基礎演習。電車の中で乗客を巻き込んでしりとり遊びをした事例が報告される。最初に、A君が「あ~しりとりがしたいなあ」とつぶやいて、次の駅で電車に乗ってきた人(実はA君の友人)にしりとりをしかけてみる。応じてくれる。さらにそのまた次の駅で電車に乗ってきた人(実はこれまたA君の友人)にしりとりをしかけてみる。応じてくれる。さあ、問題は次で、一般の人にしりとりをしかけて応じてもらえるかどうかだ。はたして見事に応じてもらえた(!)。せっかく広がりかけたしりとりの輪を切ってはいけないと考えたのだろうか。その後、しりとりの輪が車内に広がる。最後、「やあ、楽しかったよ。ありがとう」と言って、電車を降りた乗客もいたそうだ。武蔵野線の三郷付近での出来事だった。昔、やはり私の演習の授業の学生たちが、これと似たようなことを「カエルの歌」の輪唱で試みたことがあるが、なかなかうまくいかなかった。歌よりもしりとりの方が応じてもらいやすいということか、時代の変化というべきか、地域性ということか、あるいはパフォーマーとしてのA君の才能だろうか。
4限は演習「ケーススタディの方法」。見田宗介の有名な戦後日本の時代区分、「理想の時代」(1945-1960)、「夢の時代」(1960-1970年代前半)、「虚構の時代」(1970年代後半ー1990年年代前半(継続中)」について説明し、さらにこれを引き継いだ大澤真幸の時代区分、「理想の時代」(1945-1970)、「虚構の時代」(1970-1995)、「不可能性の時代(1995-(継続中)」について説明し、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の中で行っていることは、大澤の「不可能性の時代」の中でのさらなる時代区分(下位区分)であるということを説明する。大澤のいう「不可能性」とは「他者性のない他者を希求することの不可能性」である。「他者性のない他者」とは自分の思い通りになる他者、自分をまるごと承認してくれる他者のことであり、そうした他者は実在しない。実在したとすればそれは他者とは呼べないものである。なぜなら他者の本質(他者性)とは、自己とは違うということ、自分の思い通りにならないということにあるからだ。自己の思い通りになる他者とは拡張した自己にほかならない。宇野は2001年あたりを境にして、「引きこもり=心理主義」の物語から「生き残り(サヴァイブ)=決断主義」の物語への想像力の移行がみられると指摘する。これは他者性のない他者を希求することの不可能性の認識から他者との接触を回避する「引きこもり」の物語から、自己の拡張路線へと転じる「生き残り」の物語への移行として理解することができる。もちろん自己の拡張である以上、「生き残り」の物語が他者と出会うことはない。「引きこもり」の物語が他者を回避するとすれば、「生き残り」の物語は他者を排除するのである。
今日は夜間当番の日。夕方、少しは早めの夕食をとりに出る(昼食をとっていなのだ)。「早稲田軒」で天津麺を食べる。疲れているときは、甘酢のあんかけが食べたくなる。
9時半頃、教務室を出る。電車の中で、同僚の草柳先生から頂戴した『〈脱・恋愛〉論』(平凡社新書)を読む。さらなる個人化が進行する社会にあって、人はどう孤独と対峙し、そして他者と共に生きていくのか、ということを最近よく考える私には大変に参考になる本である。選択基礎演習の学生たちにも読ませたい。