フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月16日(土) 晴れ

2013-02-17 01:42:37 | Weblog

  8時、起床。朝食前にブログの更新。

   結局、朝食はとらず、朝食兼昼食を食べに出る。さあ、何を食べようか、お腹に聞くと、答えはすぐに出た。「天味」の天ぷらだ。上天ぷら定食の掻き揚げ付き(1400円)を注文し、お好みでタラの芽(400円)と蕗の薹(300円)を追加。春の息吹きを味わう。 

 

 
海老(塩で)                              キス(天つゆで)

 
穴子(塩と天つゆで)                          茄子(天つゆで)

 
海老(塩で)                            南瓜(天つゆで)


かき揚(天丼で)

 
タラの芽(塩で)                              蕗の薹(塩で)

  食後のコーヒーは「ムッシュのんのん」で。

  看護学校の学生と思しき若い女性が2人、国家試験の問題集を片手にクイズのように問題を出し合っていた。不整脈の問題が出たところで、マスターが「不整脈なら僕の専門だ。何度か入院したからね」と割って入った。「入院中は看護婦さんが天使に見えたよ。とても優しくしてくれて、もしかしたらオレに気があるんじゃないかと思ったけど、回復して、退院が決まる頃には、もう相手にしくれなくなっていたね」。女性たちは若干引き気味に笑っている。明日が国家試験なのだそうだ。

  2人の女性と入れ違いで、今度は7人の女性たちが入ってきた。やはり国家試験の問題集を持っている。近所のビジネスホテルに泊まっているようだ(試験会場は日本工学院)。マスターが注文を取りに来ると、一人一人が別々のメニューを注文していた。マスターは困惑気味。同調圧力はこのグループには働いていないようである。あるいは「人とかぶってはいけない」「個性的であれ」という同調圧力が働いているのかもしれない。   

   有隣堂で以下の本を購入。「シャノアール」で目を通す。

     中村肇『和菓子』(河出書房新社)

     本田健の『・・・にしておきたい17のこと』(大和文庫)シリーズ6冊

   本田の本はいわゆる自己啓発本だが(牧野智和さんの研究分野だ)、人生段階別になっているところがミソである。

   ゼミの学生たちのことを思い浮かべなら、『就職する前にしておきたい17のこと』を読み、わが身を省みて、『50代にしておきたい17のこと』を読む(7割方は達成している)。

   カフェで仕事をしようと、「まやんち」へ電話をすると(土曜日は混んでいるのだ)、まやさんが出て、声で私だとわかったようで、「ちょうど席が空いています、いまいらっしゃるのでしたらとっておきますよ」と言われる。「はい、いま駅の辺りですので、お願いします」と答える。

  スタッフさんに新しい方が2人いらした。ただし、1人は以前働いていたスタッフさんで、今日はスタッフのお一人(カナさん)がお休みなのでピンチヒッターで来てもらっているのだとのこと。通りで慣れていらしゃると思った。 

  フレジエとミルクティー(アールグレー)を注文し、1時間ほど原稿の組み立てを考える。  

   帰りがけに、くまざわ書店の新聞書評コーナーで、以下の本を購入。

     窪島誠一郎『父 水上勉』(白水社)

     ジョー・ブレイナード『ぼくは覚えている』(小林久美子訳、白水社)

     坂野徹『フィールドワークの戦後史 宮本常一と九学会連合』(吉川弘文館)

     美馬達哉『リスク化される身体』(青土社)

  一二三堂で、以下の本を購入。

     黒田夏子『abさんご』(文藝春秋)

     伊藤比呂美『閉経記』(中央公論新社)

     『蒲田Walker』(角川マガジンズ)

  一二三堂は商店街の本屋さんなので、入口のドアはなく、外の空気が店内に入ってくる。「寒くありませんか」とご主人に聞くと、「けっこう寒いです」とのこと。でも、風邪はめったに引かないらしい。     

   本日の散歩中に撮った写真から。


「うん」ではなく、「ぅん」なんだ。何かを聞き返しているのだろうか。「ん?」という感じで。

  私のブログの読者の方からメールをいただく。面識のない方だが、ご自身もブログをやられていて、しかし、最近、ブログを書く意義がわからなくなっているとのこと。私がどういうコンセプトでブログを書いているのか教えてほしいと書かれていた。

  語り始めると長くなるが、明日は文学部の入試業務があるので、簡略に書く。

  ブログの機能は「自己表現」と「つながり」である。

  ブログの読者は5種類いる。①日常生活の中で相互作用のある方(たとえば、家族、親戚、教え子、職場の同僚など)、②現在、日常生活の中で相互作用はないが、かつて相互作用のあった方(たとえば小学校の同級生、学生時代に塾の講師をしていたときの生徒、など)。③会ったことはないがメールのやりとりはしたことのある方(たとえば、ブログの読者でメールをいただいた方)、④会ったこともないし、メールのやりとりなどもしたことのない方(読者の大部分)、⑤まだ読者ではない方(潜在的な、可能性としての読者)。どの読者を意識するかでブログを書く意義は異なるだろう。

  ①のカテゴリーの読者を意識するとき、ブログは対面的な相互作用を補完する効果がある。対面的な場面で伝えられなかったメッセージを伝えることができたりする。

  ②のカテゴリーの読者を意識するとき、ブログは久しく会っていない方へのお便りという効果がある。日常生活は「いま」が中心だが、重層的な過去を解凍して「現在という土地」を肥沃なものにすることができる。

  ③のカテゴリーの読者を意識するとき、リアルな空間での(それゆえに限定された)対面的な相互作用を超えて、ネット空間での非対面的な相互作用が「私の世界」を拡張する効果がある。

  ④のカテゴリーの読者を意識するとき、少なくとも常連的な読者は私のブログに何らかの興味をもっていてくださるわけだがから、そういう読者がいてくれることは、自分の生活・人生にも何かしらの意味はあるのだろうと思える効果がある。

  ⑤のカテゴリーの読者を意識するとき、私は宇宙の未知なる知的生命体に向けてメッセージを発信する天文学者のような、あるいは海辺で手紙を入れたボトルを波間に投げ入れる少年のような気分になる。いつか誰かがそのメッセージを拾ってくれるかもしれないと考えることは、人間の絶対的な条件である孤独ということが、孤立の同義語ではなく、交信の可能性を内在したものであることに思い至らせる効果がある。

  5種類の読者は相互に排他的ではない。私はいろいろな読者を意識しながらブログを書いている。したがってブログを書く意義(意味)は多層的である。

  読者の存在ということをひとまず置くとしても、ブログを書くことには、一日を振り返る時間と場所(バーチャル空間の中の居場所)を私に与えてくれる。「自己表現」は「自己確認」でもある。

  ブログは日常生活のコピーではなく、一定の方針に基づいて、編集(構成)されたものである。たとえば、嫌いな人は登場させない、人(や店)の悪口は書かないとか。ブログの中の世界はバーチャル空間における居場所であり、その意味で、一種のユートピアなのである。

  ただし、私はリアルな世界がつらいから、ブログを書いているわけではない。リアルな世界とバーチャルな世界(ブログ)は対称的な関係にあるわけではないし、いわんや断絶しているわけではない。リアルな世界の気分はバーチャルな世界に影響を与え、バーチャルな世界の気分はリアルな世界に影響を与えるだろう。

  とりあえず、こんなところです。

  私にメールをくださった方のブログを拝見して、私はそれを面白いと思った。旅をしているとき、列車の窓から家々の窓の灯りが見える。そこにはそれぞれの生活があり、人生があるのだと、考えことのない人はいないだろう。見知らぬ方のブログを読む気分は、そのときの気分に似ている。