フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月19日(火) 小雪

2013-02-20 09:15:06 | Weblog

  8時、起床。朝食はとらず、9時半に家を出て、大学へ。

  10時半から教授会。

  会議が終わって、昼食をとりに出る。小雪が舞っている。今日は本当に冷える。


記念会堂前

  「奈津」のなっちゃんラーメンはこんな寒い日にはうってつけだ。前回食べたときは喉の痛みを堪えながら食べたが、今日は普通の状態で食べる。やっぱり辛い(そして旨い)。汁そのものはそれほど辛くはないが、七味唐辛子がかかっているので(あらかじめかかっているのだ)、それが辛いのである。よくこんな辛いものを喉の痛いときに食べたものである。あのときは一口食べるたびに水を飲んでいた。 

  大学に戻る途中で「カフェ・ゴトー」に寄る。私にとって「カフェ・ゴトー」は社交のための場所なので、めったに一人で来ることはないのだが、今日はチーズケーキを味わいたい気分だった。

  生協の書店を覗くと平置きされている角川ソフィア文庫の表紙が目を引く。何年か前からコミックのような表紙の小説が登場してきているが、とうとう哲学の古典にまでそれが波及するようになったか。小説の場合は表紙に描かれた人物と主人公が重ねられているので、それが読者のイメージする主人公像と重なるかズレるかという問題はあるものの、一応、辻褄は合う。しかし、哲学書の場合は、表紙に描かれているいる人物は登場人物ではなく(プラトンの対話篇を除いて「登場人物」というものは存在しないだろう)、読者のイメージ像である。『君主論』は男性、『方法序説』、『自殺について』、『幸福論』は女性が描かれている。『君主論』の男性は若き企業家だろうか。『幸福論』の女性は女子高生のようである。『方法序説』の女性はなにやらミステリアスで、お金持ちの令嬢のようでもあり、水商売の方のようでもあり、占い師のようでもある。『自殺について』の女性はお昼寝の最中なのだろうか。睡眠薬とかたくさん飲んじゃったわけではないよね。私が『幸福論』を読むときは、表紙の女子高生は、私自身ではなく、読書の同伴者、この子と一緒にこの本を読むという気分になるのだろうか。「おじさん、本当の幸福について、私と一緒に考えましょうね」という感じなのだろうか。それも悪くないけれど、電車の中でカヴァーを付けずに読むことは難しそうである。     

  研究室でゼミ論集の版下の作成(最終チェック)。5時過ぎに作業を終え、理工社(早稲田通りと明治通りの交差点付近にある)に持っていく。 1週間ほどで出来上がってくる。

  理工社を出て、高田馬場の駅まで歩く途中(早稲田松竹の向かい)に「秀永」がある。数年前に閉店した早稲田の「秀永」の姉妹店(?)である。メニューも似ている(ただし値段は少し高い)。一度入ってみたかったので、今日はここで夕食を食べて帰ることにした。 

  早稲田の「秀永」でよく食べていた油淋鶏(鶏の唐揚げのネギソース掛け)を注文する。運ばれてきた油淋鶏は早稲田店のものとは違ってキャベツの千切りが唐揚げの下に敷かれていた(早稲田店ではレタスだった)。味も、料理人が違うから当然なのだが、ちょっと違う。ハーブの風味がする。中華料理ではあるが、南の方、タイ料理やベトナム料理との交流が感じられる。早稲田店の料理は、日本人向きの中華料理という感じで、油淋鶏のネギソースはもっと甘酸っぱく、もっとストレートに食欲を刺激する味だった。一番、早稲田店に近いのは味噌汁だった。油揚げの味噌汁、これは早稲田店のものと区別がつかない。おそらく料理人のDNAは同じなのだと思うが、生息する環境が高田馬場と早稲田では違っていて、それぞれに固有の適応を遂げていったのだろう。

  あの早稲田の「秀永」のご主人と女将さんはいまどうしているのだろう。高田馬場店のご主人にうかがえばわかるかもしれないが、店も混んできたので、やめておいた。

  7時、帰宅。夕食は食べて帰るとメールしておいたので、妻は私がもっと遅く帰ると思っていたようである。

  『書店員ミチルの身の上話』第7回(録画)を観る。原作の小説を読んでいるはずなのに、こんな展開だったのかと驚く。原作と同じなのだろうか、別の話になっているのだろうか、判然としない。豊増(新井浩文)はお気の毒としかいいようがない。