フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月25日(土) 晴れ

2017-11-26 23:58:29 | Weblog

9時、起床。

サラダ(+玉子焼き)と紅茶の朝食。

朝食を軽めにしたのは妻と「カフェ・スリック」にブランチを食べに行くつもりだから。

抜けるような青空。

「カフェ・スリック」は11時開店。その5分後くらいに到着。すでに先客が一組いた。 

10時に電話をして予約しておいた。

土日のみのパンケーキブランチを注文。

ジャガイモのポタージュスープ。

飲み物は私はオレンジジュース、妻はリンゴジュースをチョイス。

パンケーキ・プレート。

パンケーキが2枚、ソーセージ、ベーコン、サラダ。

パンケーキは一枚目はシロップはかけずにバターだけ塗ってソーセージとベーコンと一緒に食べ、二枚目はシロップをかけて食べた。つまり一枚目は「パン」として、二枚目は「ケーキ」(スイーツ)として食べた。

食事を終えて、シフォンケーキとハーブティーを注文。パンケーキを食べた後にシフォンケーキを食べるのかとびっくりさせる(あきられらる)かもしれないが、パンケーキは食事、シフォンケーキはデザートなのである。こういうときシフォンケーキの軽さがいい。

シフォンケーキはプレーンをチョイス。三種類のベリーがトッピングされている。

いったん帰宅し、30分ほどして再び外出。今日は西荻窪で劇団獣の仕業の公演があるのだ。

西荻北銀座通りを行く。お洒落な店が多いが、その中に古い建物が点在していて、なかなかいい感じの通りだ。

善福寺川を渡る。

橋の上から覗くと白鷺が一羽、川の中でじっとしている。

魚を狙っているのだろうか。

劇場に到着。 西荻窪遊空間がざびぃ(駅から徒歩12分)。

劇団獣の仕業第12回公演「炎天」。

上演開始30分前に入場。例によって舞台上にはすでに役者たちがスタンバイしている(上演開始まで、このまま)。

『炎天』はいわゆる不条理劇である。

李雨(リウ)という女が新宿で殺された。彼女を殺したのは知花(チバナ)。李雨の元彼のピアノ講師白草(シラクサ)の現在の彼女だ。舞台は李雨の弟の秋鹿(アイカ)が姉の葬儀で挨拶しているところから始まる。登場人物はこの4名である。

知花はなぜ李雨を殺したのか。なぜ李雨は殺されねばならなかったのか。そもそも李雨を殺したのは本当に知花なのか。普通の芝居であればこうしたことが焦点となって舞台は進行し、やがて真相が明らかになるだろう。しかし、今回の芝居はそのような進行はしない。4人は(死んだ李雨も含めて)たくさんたくさん語るが、それぞれの語りは自分勝手で、ピントが外れている。たとえば、秋鹿の挨拶は、事件が起きた日、姉との最後の別れの日についてお話したいといいながら、姉のことではなく、姉を迎えに行くために乗った循環バスの話、そのバスの窓から見た歩道を歩く中年男性と彼に向かって駆けていく犬の話をひたすらする。そこに何か特別に変ったことがあるわけではない。循環バスはただの循環バスであり、中年男性は灰色のポロシャツを着ていて、そのため胸や腹や脇の下の部分が汗で湿って黒くなっているということ、「汗をかく日に灰色の服はまずい」ということを彼は知らないのか、誰も彼にそのことを教えてやらなかったのかということ、そして、彼は犬の本当の飼い主ではないのではないかということ、本当はもっと別の話をしたいし、しなくてはならないのだろうけれど、どうしてもそういう話をしてしまっている。

他の登場人物も同じようなものだ。たくさんたくさん話をするけれども、それらが事件の真相に向かって収斂していくことはない。

脚本の意図は明らかだ。「物語」の拒絶だ。少なくとも「わかりやすい物語」の拒絶だ。

「物語」とは何か。それは世界を構成する無数の事象の中からいくつかをピックアップして、それらを因果の連鎖(起承転結)で結びつけることによって、世界を了解可能なものにする、そういう認識作用のことである。「物語」は人間が生きていく上で、無意味で不安定な日々を生き抜いていくために、必要とされるものである。「物語」は無意味な日々に意味を与え、不安定な日々に秩序をもたらす。だから「物語」は商品化する。多くの人が欲する「物語」、わかりやすい、口当たりのいい、あるいは泣ける「物語」が商品としてあふれかえることになる。いわゆる不条理劇はそうしたセラピー作用のある「物語」を拒絶するところに成り立つ芝居である。旗揚げ当初から劇団獣の仕業は「わかりやすい物語」を拒絶してきたが、サルトルの「出口なし」や別役実の「門」の公演を経て、よりラディカルな方向に突き進んだのが今回の「炎天」である。

不条理劇のテーマは明らかだ。「世界に意味などない」ということだ。もう少し正確にいういと、不条理劇には2つのタイプがあり、「世界にもともと意味などないが、その無意味な世界で生き抜いていくことには意味がある」というタイプ、「世界にはもともと意味などなく、その無意味な世界で生き抜いていくことにも意味がない」というタイプである。私の理解では、サルトルは前者で、ベケットは後者だ。そして今日の芝居「炎天」を見る限りでは、立夏は前者(寄り)だ。

誤解のないように書いておくが、「世界に意味などない」というのは、登場人物ひとりひとりが意味のない世界を生きているということではない。人は意味を欲する動物である。ほとんどの場合、各人は各人の「物語」を、世界に意味を付与する「物語」を生きている。不条理劇でもそれは同じだ。ポイントは、各人の「物語」が共鳴し合わないということだ。「不条理」とは「不協和」ということだ。

では、「炎天」の見どころは何か。登場人物がそれぞれに語る、自分勝手で、ピントが外れた語りそれ自体がもっている魅力だ。たとえば秋鹿が執拗に語る循環バスや、中年男性や、犬の話は、なぜか人(観客)を引き付ける。もしかすると観客の中にはその話の中に事件の真相に迫るヒントが隠されているのではないかと思って耳を傾けていた人もいるだろう。しかし、そういう期待をもたずにたんにその話を聞いても、それはやはり人を引き付ける力をもっている。その力の源は、語りの意味そのものよりも、登場人物が各自の語りをしているときの熱量と身体の運動エネルギーだ。それは生きている人間にしかないものだ。「生のエネルギー」を全開で放出している人間だ。「ここに、目の前に、確かに生きている人間がいる」と私たちは感じるのだ。彼らが発するエネルギーは、漆黒の世界の小さな灯りである。その灯りにたとえ意味がなくても、われわれはそれを見つめるのだ。

4人の登場人物を演じた役者たちの力量(語り口と身体所作の魅力)なくしては脚本は芝居にはならなかった。彼らに拍手を送りたい。

そして照明と音楽が、反物語的な、あるいは多重的でパラレルな物語空間に、凝集力を与えていたことを見逃してはならない。

芝居が終わって、劇場の出口のところで、脚本・演出の立夏と言葉を交わす。奇しくも今日は彼女の誕生日だったが、たぶん、そのことに格別の意味はないのだろう。

時刻は4時半。 

日は少し前に沈んだ。 

阿佐ヶ谷で途中下車。

「蒲重」で薩摩揚げを新潟の親戚に送る依頼をする。昔、「蒲重」は蒲田にもあって、彼らはここの薩摩揚げが大好物なのだった。それでいまでも彼らへのお歳暮はここの薩摩揚げと決めている。

妻が伝票を書いている間に店先で売っているおでんをつまむ。

大根と玉子とちくわぶと薩摩揚げ二種を注文。

全部で350円なり。

妻も「私も食べたい」といって追加注文。自分たち用の薩摩揚げと穴子巻きを買って帰る。

蒲田に戻ったのは6時半ごろ。

荷物を家において、そのまま「マーボ屋」に夕食を食べに行く。

まずはサラダ。これは妻と一緒のときは必ず注文する。

蒸し鶏のネギ醤油掛け。前菜的一品だが、ネギ醤油のおかげでご飯のおかずになっている。

牡蠣のカシューナッツの甘辛炒め。最近のヒットメニュー(私的に)。甘辛+牡蠣のほのかな苦味がいい。

海老のフリット(ハーフ)。今秋からメニューに加わった一品。ふわっとして美味しい。新婚時代、綱島に住んでいた頃。「珍珍亭」という中華料理店でよく食べた海老の天ぷらを思い出す。あのときの海老はたぶんブラックタイガーであったと思う。そしてケチャップのほかにハーブ塩が添えられていた。

今秋からのメニューはほとんどハーフサイズの注文にも応じてくれる。ひとり、ふたりであれこれ食べたいときにありがたい。

お腹いっぱい食べたので、ちょっと散歩して帰る。

近所の専門学校の並木がクリスマス仕様になっている。

2時半、就寝。