8時、起床。
トースト、ベーコン&エッグ、キャベツ、牛乳、紅茶の朝食。
9時半に家を出て、大学へ。
10時半から教授会。
教授会は昼前に終わる。
昼食は「早稲田軒」に食べに行く。
この店ではたいていこれを注文する。天津麺。あまじょっぱい味がいい。
天気がいいので、正門通りから神楽坂まで歩くことにする。たまに歩くだけだが、おしゃれな店が増えているような気がする(前からあったが気づかなかっただけかもしれない)。
でも、この通りで一番心惹かれるのは「青谷製作所」のこのたたずまいだ。実直な職人さんがいるに違いない。
食後のコーヒーを「トンボロ」で飲む。
Aブレンド(香りと酸味の浅炒り)を注文。ヴェルデが来ている。
私が来たときはカウンターに4人ほど客がいたが、お昼休みが終わったのだろう、いっぺんに空いた。
梅花亭でお土産を買っていく。
早春らしい品揃えになっている。
神楽坂を飯田橋まで歩く。一本脇の軽子坂にある名画座「ギンレイホール」。
2週間のサイクルで2本の映画がかかっているが、今日はぜひ観たい映画があった。
『パターソン』(監督:ジム・ジャームッシュ、主演:アダム・ドライバー)
先月、宙太さんと「男同士カフェ」をしたときに、彼が最近観た映画としてこの映画を出したのである。彼は評論家のように語る人ではないが、「いい映画でした」ときっぱりとした口調で言ったのである。
「ニュージャージー州パターソンに暮らすバス運転手のパターソン。毎朝、妻にキスをして始まり、いつも通り仕事に向かい、心に浮かぶ詩をノートに書きとめる。帰宅後は妻と夕食を取り、愛犬と夜と散歩に出かける。一見代わり映えのない日常をジム・ジャームッシュ監督がユーモラスに映し出した7日間の物語!」(ギンレイホールのHPから)
150字程度で作品を紹介しなくてはならないとすれば、これでよいのかもしれないが、観終わった後にもう一度この文章を読むともの足りなさを感じる。この映画は、この紹介文から予想されるよりも、もっと深みのある映画だ。
パターソンは平日は毎朝6時10分頃に起きる。目覚まし時計を使わずに自然に目が覚めるのだ。枕元に置いてある腕時計にはそういう力がそなわってらしい。魔法の時計だ。
妻とはダブルベッドで寝ている(それほど大きくないダブルベッドで、私なら熟睡できないと思う)。パターソンは半袖シャツとパンツを履いているが、妻は上半身は裸だ(全裸かどうかはわからない)。彼は目を覚ますと、妻にキスをする。妻も目を覚まし夢の話をする(よく覚えているものである)。彼は起きるが、妻はベッドから出ない。
彼は一人で朝食を食べる。シリアルに牛乳をかけて食べる。アメリカ人にはよくある朝食だが、私からすると味気ない朝食だ。
職場(バス会社)まではランチボックス(妻が作ったサンドウィッチ)を下げて歩いて行く。職場と住居が徒歩圏内(同じ町)というのは素晴らしい。
バスの発車の準備を終えて、少しの時間、彼は心に浮かんだ言葉(詩)をノートに書きつける。
生活にいろいろ問題山積の同僚のグチを聞いてやる。
バスを運転しながら、乗客のおしゃべりが耳に入ってくる。
妻は専業主婦だが、彼が外に出ている間は、部屋の壁を塗ったり、ギターの練習をしたり、お菓子を焼いたりしている。生活感のない、魅力的な女性だ。夫のことをとても愛している(彼も妻のことを心から愛している)。
夕方、帰宅。自宅前の郵便受けを設置している柱がなぜかいつも傾いている(朝家を出るときは真っ直ぐなのだが)。
夕食はいつも一緒にとる。
夕食後、飼い犬の散歩は彼の役目である。散歩の途中、彼はカフェバーに寄って、マスターや常連客とおしゃべりをする。家庭と職場のほかにカフェバーという「サードプレイス」を持っているのはいいことだ。
散歩から戻った後は地下の書斎で心に浮かんだ言葉(詩)をノートに書きつける。妻は彼には詩の才能があると思っている。ノートをコピーに取ってほしいと彼にお願いする。彼は今度の週末にはコンビニでコピーをすると約束する。
彼はこんな毎日を送っている。
魅力的な面もあるし、そうでない面もある(私は乗り物酔いをする体質なので、バスの運転手というのは考えられない仕事である)。
彼の日々の生活を追いながら(月→日)、何かが起こって、この生活のパターンが崩壊するのではないかと私は緊張する。実際、映像にはどこか不穏な雰囲気を漂わせている(そう感じるのは私だけだろうか?) たとえば、バスの事故が起きて乗客が死ぬとか、愛犬のブルドッグが誘拐されるとか、彼が道端で少女と詩についておしゃべりをしているときに彼女の親が彼を娘に悪さをしようとしている変質者と誤解するとか、妻がお菓子を市場に運ぶとき交通事故を起こして死んでしまうとか、カフェバーで殺人事件が起きるとか・・・。実際、それに近いようなことも起きるのだが、結局は、何事もない。平穏な日常が何かの出来事によって崩壊するというのは映画にはよくあるパターンで、おそらく監督ジム・ジャームッシュはそれを逆手にとって、観客に肩すかしを食わせたのだ(郵便受けの柱の傾きも、実は、愛犬の仕業だった)。唯一の深刻な事件は、二人が外食をして、映画を観て帰宅すると、愛犬が彼の大切な詩のノートをビリビリに(まるでシュレッダーにかけたみたいに)してしまったことである。彼はまだコピーをとていなかった。落ち込んで、一人で散歩に出た彼は、滝のある公園のベンチで日本人の旅行者(永瀬正敏が演じている)と言葉を交わす。その男はW.C.ウィリアムズの詩のファンで、ウェイリアムズが詩作の日々を送ったパターソンを見てみたいとやってきたのである。その男との会話に彼の気分は明るくなる。男は去り際に彼に一冊の白いノートをプレゼントする。
彼の生活の一番の魅力は、やはり、詩作の習慣というところにある。それが彼が自分の日常に倦むことなく、むしろ瑞々しい気持ちで毎日を生きていくことを、日常生活をこころから味わうことを、可能にしている。彼と世界との間には言葉がある。本当は誰の場合もそうなのだが、その言葉を瑞々しい感性でノートに書きつけていくことは誰もがやっていることではない。彼の妻は彼のそういう美点に誰よりも、たぶん彼本人以上に、気づいている。そういう女性と結婚生活を送っていることも彼の幸福の条件なのだということは見逃してはならない。
詩作は誰にでも簡単にできることではないが、自分と世界の間にある言葉という存在に自覚的であることは、日記を書くことによっても、(手前味噌であることを承知で言えば)ブログを書くことによっても、可能だろうと思う。
帰宅する前に、駅ビル東館の「くまざわ書店」で文庫本を3冊購入。
黒井千次選『「内向の世代」初期作品アンソロジー』(講談社文芸文庫)
亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』(岩波文庫)
勢古浩爾『さらなる定年後のリアル』(草思社文庫)
『アメリカ名詩選』にはW.C.ウィリアムズの「ちょっとひと言」(This Is Just to Say)という詩が収められている。映画の中で朗読されていた詩だ。
冷蔵庫に
入っていた
すもも
たぶん君が
朝食の
ために
とって置いたのを
失敬した
ごめん
うまかった
実に甘くて
冷たくて
I have eaten
the plums
that were in
the icebox
and which
you were probably
saving
for breakfast
Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold
妻は体調は回復したが、まだ感染力はあるので、夕食の用意も夕食を外に一緒に食べにいくこともできない。
「何が食べたい?」と妻に聞いたら、「phono kafe」のお弁当と答えた。
大原さんに電話をして、お弁当を2つ作ってくれるようお願いし、20分ほどして受け取りに行く。
味噌汁は家にあったインスタントのものですます。
お弁当のおかずは4品。
玄米ビーフンの春巻(左上)
切り干し大根のトマト煮(中央上)
白菜とふのりの柚子酢和え(中央下)
里芋と長芋のつまみ揚げ(右下)
「美味しいね」と妻が言った。「うん、美味しいね」と私は答えた。
デザートは「梅花亭」で買ってきた道明寺(京風桜餅)と草餅
さて今日のお八つは草餅桜餅 たかじ
(竹内愉咲書)
『さらなる定年後のリアル』の「まえがき」はなかなかいいことが書いてある。
「ここまできて、定年後の生活も悪くないな、と思えるようになってきた。とくになにをする毎日でもないのに、一日が一日であるだけでいい、これはいいことだ、と思えるのである。ただし、そんための最低限の条件がある。そこを曖昧にすることはできない。そこそこのお金と、そこそこの健康と、そこそこの自由である。これさえあれば、あとはもうなにもいらない、こともないが、とりあえず今日一日はそれで完結することができる。もし明日の心配があるのなら、明日心配することにしよう。
上を見たらきりがない。横を見たら心が惑う。下を見てホッとしてもしかたがない(「下」を見下しているのではない)。前を見ると不安だ。だからなるべく見ない。はるか千日先も万日先も、今日一日がなければ始まらないのだ。なんだか自分を騙しているような気がしないでもないが、前方に「不可」と「無理」しかないのなら、自分を騙すことも必要である。それで最期まで騙し通せれば、いうことはない。見ていいのは、今と、後ろだけである。今には親愛な人々がいる。後ろには懐かしい人々がいる。わたしはいつでも振り返る。」
対句法の多用は漱石の『草枕』の冒頭部分を思わせる。少しばかり筆が滑り過ぎのところがないわけではないが、のびのびとして、いい文章だ。なので書き留めておく。
12時半、就寝。