文化逍遥。

良質な文化の紹介。

千葉市の貝塚―みつわ台付近

2017年12月21日 | 考古・エッセイ
 このところ寒くて、今年から始めた自転車による貝塚めぐりにも行っていなかったが、この日12/19日は比較的暖かかったので、近いところにある貝塚を巡ってきた。なにしろ、確認されたいるだけで市内には100ヵ所ほども貝塚がある。全国では1600あまりと言われているので、6%位が少なくとも千葉市内に集中していることになる。おそらく、本格的に調査すればさらに増えるだろう。いたるところで古い貝が出てくるので、あたり前になってしまい、その歴史的な重要性が見落とされてしまっているような気がする。ちなみに、千葉県に範囲を広げると、500ヶ所を超えると言われており、全体の3分の1近くになる。

 さて今回は、千葉市みつわ台という所にある「東寺山貝塚」と、源町にある「廿五里(つうへいじ)貝塚」に行ってきた。千葉市内の中心部にある我が家からは自転車で20~25分くらい。


「東寺山貝塚」。縄文中期から後期の遺跡。現在は鹿島神社と、この裏にある公園になっている。


境内に、落ち葉を焚くために掘られたらしい穴があり、ちょうど貝の層が見えていた。写真では見にくいが、底にあるのが葉っぱで、中間に貝の層が観察できる。


貝の層のあたりを拡大したもの。円で囲んだあたりがそれ。仮に普通の民家で、たまたま家の庭を掘ってみたらこんな貝殻が出てきても、歴史的な遺跡とはだれも思わないだろうなあ。前に住んでた人が、穴掘ってゴミを捨てたんだろう、てなもんだ。しかし、よく見ると、貝殻はかなり整然と置かれている。「再生」を願い、祈り、土に帰されたのだろう。そう考えると、貝塚を神社や公園にするのは良いのかもしれない。祈りの場とし、時に子どもたちの遊ぶ声が聞こえることにより、命が繋がっていることを魂が感じ取れる場になる。


神社の裏手、この奥が公園になっている。よく見ると、小石などに混ざって貝殻が見つけられる。


見つけた貝殻を、落ち葉に載せて撮影してみた。小さな巻貝が、千葉市で出土する中では最も多い「キサゴ」。これで、直径12~3ミリ位だろうか。ほかに、アサリらしい貝の破片もあった。貝塚には埋葬された遺体も出土するが、このキサゴが敷き詰められた上に遺体が置かれ、さらにその上にもキサゴが置かれている例もあるという。ここからも、縄文の人々にとって貝は神聖なものであったことが推測される。



こちらは、東寺山貝塚から300メートルほど離れたところにある「廿五里(つうへいじ)貝塚」。「廿五里」と書いて、「つうへいじ」と読ませるが、普通の人は読めない。もちろん、わたしも読めなかった。いわれを調べてみたが、結局は誰にもわからないらしい。周辺は「殿山ガーデン」という乗馬などができる施設で、勝手に入ることはできない。それにしても、貝塚の上を駐車場にするとは・・現代人の病理としかいいようがない。


市の設置した案内板。案内板を立てるだけでなく、せめて畳一枚程でもいいから貝の層が観察できるようにしておいてもらいたいものだ。


古くなっていて読みづらいが、ここは正確には「廿五里南貝塚」で、ここから100メートルほどの所に「廿五里北貝塚」があるらしい。今は、畑になっているらしいが、今回は見つけられなかった。

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貝塚町までポタリング

2017年11月30日 | 考古・エッセイ
 昨日11/29日(水)は、穏やかな晴天で、気温も19度ほど。自転車に乗って、ゆっくりと走るには最適な気候で、今年も寒くなる前に、と思って千葉市内の貝塚町まで行ってきた。



 荒屋敷貝塚。このブログ10/6でも取り上げたが、その時には雑草がはびこっている状態だった。さすがに、国指定の史跡なので今はきれいに草刈りされ、紅葉も見られる。この辺りは高台で、中世10世紀頃には城があったとも言われている。歴史的にはとても重要な所だ。それを、わたしも含めて、地域住民がちゃんと認識しているのか、というと、残念ながら甚だ心もとない。逆に、ここや加曾利の保存に尽力してくれた人達は偉かった。感謝して、御礼申し上げたい。
 この後、周辺の小さな貝塚を探して少し走ってみたが、なかなか見つけられなかった。案内板や柵などをきちんと整備して、もう少し見つけやすくして地域ぐるみで保存と整備に心掛けたい。

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特別史跡「加曾利貝塚」

2017年10月20日 | 考古・エッセイ
 秋の長雨で太陽の日差しも届かない日々が続くが、10/18(水)は晴れ間がのぞいたので、墓参がてら「加曾利貝塚」に行ってきた。今月、官報で公示されて正式に「特別史跡」に指定されている。携帯で撮影。


復元された住居。ここは、千葉市内の他の貝塚と比してかなり整備されている。


特別史跡に指定され、あらためて発掘調査が行われて始めている。全体では、まだ7割くらいが未調査という。新たな土偶など「歴史の証人」が出てくるかもしれない、と思うとワクワクする。

 ここから半径数キロ内に20ほどの貝塚が密集している。どうせなら、それら全てを「貝塚保存地域」として特別史跡に指定して欲しかった。この国では、漢字が入ってくるまで文字を持っていなかったので、それ以前の歴史は貝塚によってしか知ることが出来ない。宅地開発などで地中に埋もれてしまったり、掘り起こされてしまっては取り返しがつかない。今からでも遅くはない。土地開発を監視・制限して、徹底した保存・整備に努めるべきだ。もし、そのような史跡の整備が実現すれば、国内だけでなく世界から研究者が訪れることは間違いない。実際、縄文期の社会については、1万年近い期間安定して続いたことで考古学だけでなく、文化人類学的にも世界の研究者が注目し始めているのだ。子ども達がこの国にそんな独自の文明が存在したことを知り、誇りを持てるようになるためにも、ぜひとも貝塚の保存を進めたい。

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千葉市、貝塚町貝塚群

2017年10月06日 | 考古・エッセイ
 10月に入り、かなり秋めいてきた。自転車で出かけるにもちょうど良い気候なので、10/5(木)午前、我が家から自転車で30分ほどの所にある「貝塚町貝塚群」に行ってきた。今年は、加曾利貝塚が特別史跡に指定されて、発掘調査が改めて行われる事になり、それなりに盛り上がっている。が、千葉には他にも重要な貝塚が多くある。加曾利貝塚は千葉市若葉区の桜木町という所にあるが、その隣に貝塚町という所があり、地名のとおり到る所に貝が露出している。

 この日は、「草刈場貝塚」「荒屋敷貝塚」「台門貝塚」の三か所を訪れた。それぞれ、数百メートルしか離れていない。


「草刈場貝塚」。案内板も何もないが、白く見えるのは全て縄文時代の人が利用した貝の殻。海からは当時でも数キロメートルはあったろう。近くを流れる川を使って舟でここまで運んだのではないかと推測されている。関西から見学に来る研究者の中には、この光景を見て感動して涙する人もいるという。


こちらが拡大して撮ったもの。


「荒屋敷貝塚」。径が180メートル程ある大きな貝塚で、国の史跡に指定されている。案内板があるだけで、車などで通ってもまず気付かない。


内部は、右端に見える椅子があるだけで、他は雑草に覆われている。この下には京葉道路が通っている。この貝塚を保存するために、切通しではなくトンネルにしたという。


「台門貝塚(跡)」。場所が分からず、住人らしき人に聞いたら、小高くなっている所がそうらしい。見てのとおりで、畑や宅地になってしまっている。聞いた人の話によると、「今はもうなくなっている」と言われた。少し調べたみたら、1966年5月に土地開発のため台門貝塚の大半を未調査のまま壊滅させてしまった、という。実に、寒心に堪えない。高度成長期、人は遺跡のことなど気にも掛けず、ひたすら開発に埋没したのだ。取り返しがつかない、とはこのことだ。


台門貝塚の裏手、台地の下に当たるところ。上から貝が落ちてくるという。下の道路にまで落ちている。


これは、その道路に落ちていたものを拾ってきたイボキサゴという小さな巻貝。千葉市の貝塚にあるのはこのイボキサゴが最も多い。食用というより、この貝を茹でてから干し、調味料に近い「干し貝」を作っていたとも推測されている。なお、史跡内では勝手な採掘はできないので注意したい。


 加曾利貝塚が特別史跡に指定されたのは、それはそれで結構なことだ。が、そのために他の貴重な貝塚群がないがしろにされたのでは元も子もない。貝塚は、数千年、所によっては一万年近い時間が凝縮されている歴史の証人だ。ゴミ捨て場と勘違いされてゴミの不法投棄場所などにならぬよう最低限の保存対策を施し、その貴重さを認識する事を後世に繋げていきたいものだ。

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江戸東京博物館

2017年07月23日 | 考古・エッセイ
 7/21(金)、両国にある江戸東京博物館に行ってきた。
 近年行われた発掘調査から、主な発掘品を展示している「発掘された日本列島2017」展が見たかった。展示は6/3から7/23までで、もっと早くに行こうと思っていたが、まだいいか、と思っているうちに暑くなってさらに日延べ、梅雨が明けて夏休みというもっとも混雑する時期になってしまった。


 携帯で撮影。かなり以前、1990年代中頃にヴァイオリン演歌の故桜井敏雄さんなどが出演した公演で、ここのホールには来たことがあるが、展示室に入るのは初めてのことだ。この日も暑かったが、近くを流れる隅田川からの風が通るためか、それほど辛い暑さではなかった。この吹き抜け?が3階になり、ホールや特別展示室はこの下1・2階、常設および企画展示はこの上の5・6階で行われる。


 こちらは、博物館の反対側。右に見えるのが国技館、左側がJR両国駅。東京まで仕事で通っている頃は、相撲の興行があると、帰りの電車で両国を通る頃に見物客が一斉に出てきて電車がぎゅうぎゅう詰めになるので、相撲の終わる時間を避けて帰宅したものだった。


 

 常設展と同じスペースで行われているので、料金は常設展観覧料600円で見られた。夏休みに入ったので親子連れが多かった。また、外国からの見物客も多くボランティアの通訳が英語で解説していたりしていた。にぎやか、というか落ち着かないというか、やっぱりもっと早く来ればよかった。とは思うものの、展示は充実していて、来て良かった、というのも実感。常設展では、復元された江戸期から昭和期までの庶民の住居などが充実していて良かった。近いうちに、またゆっくり来たい。
 それにしても、縄文期から古墳時代くらいまでの発掘品は見飽きぬ魅力がある。人の手仕事、その温もり、時を超える力を感じ、見飽きない。





 こちらは、JR四ツ谷駅近くで現在発掘されている遺跡から出土した物の中からの展示。江戸期のものなので、時代はぐっと下がってくる。麹が生産されていた所で、それに関連した文化財が多く出土しているようだ。四ツ谷、麹町という地名はそこから来ているらしい。考えてみれば、あたりまえかもしれないが、出土した「現物」を観ると、なるほどなあ、と実感。

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船橋の遺跡

2016年12月04日 | 考古・エッセイ
 12/2(金)、晴れて気温16度。穏やかな陽気の中を、船橋市にある「飛ノ台(とびのだい)史跡公園博物館」に行ってきた。
最寄りの駅は東武野田線の新船橋で、歩いて7~8分といったところ。帰りはJRの船橋駅まで歩いてみたが、20分位だった。


 手前が遺構で、左下白く雪のように積もって見えるのが貝塚の一部を展示してあるもの。奥の建物が博物館。携帯で撮影。



 今月いっぱい、船橋の遺跡から出土した土器や石器などで、他の研究機関や個人が所蔵している資料を集めて「里帰りした資料(モノ)たち」というコンセプトで展示している。入館料100円を払うとこのパンフレット(10ページ)をくれる。

 土器の豊富さもさることながら、黒曜石の石器がとても美しかった。石の産地は信州や栃木、伊豆七島の神津島などであるという。原始的なイメージのある縄文期だが、当時の交流および流通は我々の想像をはるかに超えて進んでいたのだ、と改めて感じた。当時は、やはり物々交換だろうから、黒曜石の原石を得るために何かと交換したのだろう。想像するに、やはり貝などの海産物を干して日持ちするようにした物などではなかったろうか・・・他に何かあるかなあ。

 貝塚から出る貝の種類について、千葉市にある加曾利貝塚ではキサゴという小さな巻貝が圧倒的に多いが、こちら飛ノ台貝塚ではアサリなどが多数であるという。地域によりかなり違いがあるのは興味深い。ちなみに、貝塚の数は千葉県がダントツに多い。現在、確認されている貝塚は1500ほどらしいが、その3分1以上が千葉県に集中しているという。もっとも、あくまで現在確認されている貝塚数であって、特に都市部では現実的に発掘は不可能なので埋もれてしまっている可能性は大きい。
 印象深かったのは、男女の遺体が抱き合うように埋葬された墳墓で、二人の関係は不明だが兄妹か夫婦ではないかという。当時のことなので、流行り病か事故で二人が時を違わずして亡くなったのだろう。哀れだが、昔日の人達の情を感じさせてくれる遺跡だった。

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土器の写真

2016年05月10日 | 考古・エッセイ
 前回、5月5日に行ってきた松戸市立博物館のつづき。

 幸田貝塚出土の土器たちをガラス越しに撮ったのだが、ガラスの反射があり光も不足して、なかなかうまくいかなかった。でもまあ、せっかく撮ってきたので載せておくことにした。これら土器の形状を「稚拙」と見る人とは友達になりたくない。





















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松戸市立博物館

2016年05月06日 | 考古・エッセイ
 千葉でも夏日となった5/5、松戸市立博物館に出かけてきた。
博物館は、JR武蔵野線の新八柱駅又は新京成線の八柱駅から歩いて15分程の「21世紀の森と広場」という自然公園の中にある。今は、同館が所蔵している松戸市北部に位置する幸田(こうで)貝塚の土器などを中心に6/12まで特別展示している。会場は入場無料。常設の展示は300円。その常設展も見たが、太古の世界から現代の団地に至るまで、簡素だが分かりやすく展示されている。芸能に関する独立した展示もあり、虚無僧などの解説やその僧たちが使った尺八の展示が興味深かった。





撮影可との事だったので撮ってみたが、やはりガラスの反射があってうまくいかなかった。
縄文前期の土器たち。素朴で形が実にいい。「自然な揺らぎ」とでも言おうか、見飽きぬ美しさ。まるで土器から風が吹いてくるようだ。他人に見せることなど全く念頭に無く、いわば、自然への捧げものを作る気持ちで作陶したのだろう。


博物館下の遊歩道。気温は高かったが湿度は低く、樹木の中を歩くのは気持ち良かった。


大きな池もある。子供の日だったので、親子連れが多かった。

 この日は総武線から西船橋で乗り換えて武蔵野線を利用したが、スムースに乗り換えられて西千葉から40分ほどで新八柱に着いた。武蔵野線は、京葉線に直結されて本数も多くなり、以前に比べてずっと便利になっている。駅から「21世紀の森と広場」までの道も、桜の街路樹が整備されていて歩きやすかった。

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新緑の加曾利貝塚

2016年04月16日 | 考古・エッセイ
 まずは、4/14夜から4/16未明、熊本県を中心に発生した地震で被災された方々にお見舞いを申し上げたい。
14日のM6.5の地震は「前震」で、4/16未明のM7.3のものが「本震」だったと気象庁の発表。テレビの映像を観ていると、地震に対して無防備な地域だったのだなあ、と感じる。宇土市という所では市役所の4階が潰れてしまっていて、立ち入り禁止になっている。大きな災害時には、対策本部が置かれるべき建物なのに、耐震補強もされていなかったのだろうか。行政は、もっと人の生活に関わる基本的な所にお金をかけるべきだ。さらに言えば、原子力発電はもとより、リスクを伴う建築物などは基本的に作るべきではない。後から「想定外」と言っても、失ったものは帰ってこない。


 話題変わって、地元の話。
 4/15日午前、墓参がてら千葉市若葉区にある加曾利貝塚に寄ってきた。



 すでに、新緑の季節を迎えている。
縄文時代中期から後期に当たる大きな貝塚で、南北二つに分かれているが、こちらは南貝塚。直径は約185メートルという。写真の左後方に見えているトンネルのようなものは、貝の層が観察できるようになっている施設。この下には膨大な量の「歴史の証人」たる貝や土偶、人骨などが眠っている。ざっと5000年分くらいの時の流れを凝縮した史跡、と言えるだろう。中心部には貝は無く、祭祀が執り行われていたのではないか、と言われている。ストーンサークルに近いような、特別な場所だったに違いない。今風にいえば「パワースポット」と言うことになるだろうか。実際、ここに足を踏み入れると、何か神聖な場所に入ったようで、空気も違い、自然に呼吸が深くなるような気がする。

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加曾利貝塚2013/8

2013年09月07日 | 考古・エッセイ
朝日新聞の千葉版に『加曾利再考』という記事が7/31から6回に分けて連載されていた。かなり内容が濃く、地方版だけで掲載されるのは惜しい記事だった。
内容を要約すると、以前は「ゴミ捨て場」とされていた貝塚が最近の研究でなんらかの宗教的な意味を持った重要な場所だったことが明らかになりつつある、ということになろう。
発掘された1960年代は、考古学的に当時重要と思われていた土偶や土器にばかり目が向いていて、貝の種類や量あるいは貝塚の形状などに関してはほとんど無視されていたのだ。

Kc3n0064
撮影は、8月2日。復元された住居が見えている。


Kc3n0068
貝塚の裏手にある都川支流。今は里山のようになっている。この川を利用して海から貝などを船で運んだのではないかと考えられている。ここから海までは数キロだったらしい。湿度の高い海辺を避けるとともに、当時の人々は津波などの自然災害を避けることができる立地を選んだのだろう。縄文人たちは、こと自然に対しては現代人よりもはるかに畏敬しその中で生きていくすべを知っていたのだ。


Kc3n0071
北貝塚にある断層観察施設。実に整然と貝などが積み上げられている。
これを見ただけでも「ゴミ捨て場」では無いことが理解できる。が、人間の先入観とは怖いもので、この施設の入り口には発掘当時のままに「ゴミ捨て場にずぎなかった・・・」との石碑がある。



7%の発掘で100体ほどの人間の骨も確認されている。それゆえ、少なくとも全体で1000体を超える人骨が、2万トンとも言われる貝殻、あるいは魚の骨や犬の骨、土偶・土器などとともに環状に埋められていると考えられる。ところが、円形の貝塚中心部からは何も出てこない。つまり、ここはストーンサークルのような神聖な場所だったのだ。人々は、生命の再生を願ってここの中央部で祈ったのだろう。極めて重要な史跡であることは疑いない。1960年代の考古学者の視点が狭いものであったにしても、この一帯を開発しようとした動きに歯止めをかけ保存運動に取り組んだ人たちに感謝と敬意を表したい。


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加曾利貝塚―2012春

2012年04月13日 | 考古・エッセイ
4月8日、例によって、墓参のついでに加曾利貝塚によってきた。 ここにくると、不思議と気持ちが落ち着く。

Kasori1

今は、公園のようになっているが、この下に大量の貝の堆積層がある。さらに、この奥には、小さいながら博物館もある。

Kasori2

観察しやすいように、このようにトンネルが掘ってある。

Kasori3

こちらが、内部。

ガラス越しなので反射で見にくいが、貝の堆積した様子が見える。 最近の研究で、ここでは単に貝を食べていただけでなく、干した貝を作っていたらしいことがわかってきた。その干し貝は自分達の保存食としていただけでなく、交易品として他の産地の産物と交換をしていたらしい。つまりは、ここは縄文期の「干し貝生産加工場」だった可能性がある。最盛期、ここでは4~5千人が生活していたと推定されている。当時、日本列島の全人口が数十万人といわれているから、かなりな規模だったことは間違いない。縄文期は、我々が想像する以上に豊かな世界だったらしい。

Kasori4_2

復元された住居。


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加曾利貝塚

2011年11月24日 | 考古・エッセイ
 千葉市郊外にある縄文遺跡、加曾利貝塚は日本でも有数の規模で国の史跡でもある。
今は緑豊かな公園のようになっており、博物館や復元された住居、貝の層が見られるようになっている。
ウチの墓はこのすぐ近くにあるので、23日は墓参がてら足を延ばしてみた。千葉市の中心部に近い自宅からは自転車で30分ほどで行ける。ちょうど紅葉の季節で、遺跡内は爽やかな空気につつまれており、何か得をした様な気持ちになれた。

Kc3n0078
 復元された縄文時代の住居。携帯電話のカメラで撮影。逆光気味だが、向こう側に人がいて順光で撮れなかった。
まだ鉄のノコギリなど無い時代、当時の人は石斧で木を切り出して蔓などで縛って作ったと思われる。当時、これだけの家があったら今でいう「豪邸」だったろう。
 ここは現在はかなり内陸部なのだが、縄文時代は気候が温暖だったようで当時の海岸線は今よりかなり内陸部に入りこんでいたようだ。それでもここのすぐ近くが海岸だったわけではない。このすぐ裏側、少し下がったところにある川を利用して海から魚介類を舟で運んだのではないかと言われている。その川が下の坂月川。

Kc3n0080
 とても千葉市内とは思えない風景。川は直接には写っていないが、中央右にある橋の下に流れている。川沿には遊歩道があり、その奥に千葉タウンモノレールが写っている。
 縄文時代と言うと原始的なイメージがあり、また、貝塚というと貝殻しか出て来ないように思われがちだ。が、実際には貝に交じって黒鯛などの多くの魚の骨が出てきており、この遺跡を見ると当時の食生活はかなり豊かで流通も発達していたことが想像できる。


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