蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

石川啄木  (bon)

2021-04-14 | 日々雑感、散策、旅行

     男子ゴルフ界は、このところ静かな感じでしたが、先ごろ(4/11)松山英樹(29)は、
     ジョージアのオーガスタでのマスターズ・トーナメントに優勝し、ドカンと大きな衝撃を
     呼び込みました。10年目に手にした偉業は、それを成しえなかったかっての名プロ尾崎将司や
     青木功らからも祝福のメッセージがあったそうです。

 

 石川啄木は、1912年(明治45年)4月13日に、26歳の若さで肺結核で亡くなったのです。
小説も書き、詩も書いたが歌人として最もよく知られ、どちらかといえば、貧困、生活苦、
後悔をテーマにしたその作風から 繊細で、望郷と漂白の天才詩人との評を受け、庶民の思
いを代弁してくれるような人物を想像しますが、実際は、二度のカンニングで退学させら
れたり、借金で遊興したりとかなり人間臭いところがあったそうですが、先輩たちにはかわ
いがられるところがあったそうです。

 『働けど 働けどなお 我が生活(くらし)なほ楽にならざり ぢっと手を見る』     
 『東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる』
 『たはむれに 母を背負ひてそのあまり 軽(かろ)きに泣きて 三歩あゆまず』
 
『ふるさとの訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく』

       石川啄木(22歳のころ)
        (ウイキペディアより)

 当ブログ9年前の2012.4.13に記事アップしていましたので、その部分を以下にコピペし
ました。

『 中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の金田一京助らと知り合うほか、後の
野口雨情や与謝野鉄幹の『明星』派の影響を受け、文学への志を抱いたとあります。
 16歳の時中学で問題を起こし中退して上京する。『明星』に投稿した短歌が掲載され
たこともあって文学で身を立てるつもりだったが、仕事は何も見つからず、家賃を滞納して
下宿を追い出され半年も経たずに帰郷したりする。

 17歳の時に初めて“啄木”の号を名乗り『明星』に長詩を発表して注目される。19
(1905年)で、処女詩集『あこがれ』を刊行すれば、一部で天才詩人と評価されるが、父
が金銭トラブルで住職を罷免され、またこの頃、中学時代からの彼女と結婚したことで、
4歳年上の金田一京助の援助を受けて、本郷に止宿して、生計のため小説を売り込むが成功
せず、逼迫した生活の中にあったという。

 盛岡中学を中退した後、北海道にわたり代用教員、地方新聞記者、新聞校正係など職を
転々とし貧困と病弱に苦しみながら詩歌、小説、評論を書いた。

     JR盛岡駅の 自筆
        (ネット画像より)


 この啄木を金田一京助は、自身が結婚するまで、友人として金銭を含むさまざまな支援
をしている。 

 啄木は、浅草に通い娼妓と遊んでいたこともあり、「彼の借金のほとんどはこうした遊
興に費やされ、それが為の貧困だった」そうで、 そんな状況を、当時息子だった金田一
春彦はその様子をみて幼心に「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と疑ったこと
があったという。


 啄木は、若いにかかわらず与謝野鉄幹に連れられて、森鴎外の歌会に出席したり、夏目
漱石ほかそうそうたる面々との交流があったそうである。

 このブログをアップするにあたって、ちょっと調べてみて、これまでに知る啄木の作品
や、
貧困と病弱な境遇からくる彼のイメージとは少し異なった部分、例えば浅草の娼妓、
中学でのカンニング、早熟?など・・かなり人間臭い一面を発見しました。

 さらに、晩年・・といってもまだ25歳あたりの頃、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借
用して、それまでにも社会主義思想にひかれていたが、「大逆事件」の幸徳の「陳弁書」を
読んで、さらにより深く社会主義思想に入ったというから、ますます生々しい血潮を感じ
たのでした。

 「新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓えたる腹に沁むがかなしも」  
 「児を叱れば 泣いて、寝入りぬ。 口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな」 』

      石川啄木歌碑(青森県大間町)
        (ウイキペディアより)

 

 

「初恋」 作詞:石川啄木 作曲:越谷達之助 ソプラノ:森麻季

 

 

 

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