蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

鉄道開業150年  (bon)

2022-10-15 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日、10月14日は、1872年(明治5年)に新橋(汐留)~横浜(桜木町)間29㎞
を英国製蒸気機関車が走ってから150年を迎えたのです。
 1870年1月(明治2年12月)には、東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが
始まっていますから、開国して一気に近代化を目指した動きがあったのですね。

       1号蒸気機関車
         (ウイキペディアより)

 明治の初め、鉄道発祥国からイギリス人技師らお雇い外国人を招き、本格的工事
が始まったのでした。 枕木などは、経費、工事の点から木材製とし、橋梁も木
製と決め、軌間は当時の輸送量を勘案し、費用削減、カーブの多い状況などから
狭軌が採用されたのだそうです。

 鉄道は当時の日本人にとっては未知のものであったことから、線路を敷設する
ことに、多くの反対運動があり、結局、薩摩藩邸などがあった芝 -品川付近では、
築堤を海上に築き、その上に線路を敷く方法がとられたりして、全線29kmのうち、
1/3にあたる約10kmがこの海上線路になってしまっているそうです。 このことは
いつかの「ブラタモリ」でもやっていました。幾多の困難を克服して、ようやく
開業にこげつけたのですね。


  昨日の新聞(読売新聞10/14朝刊1面)には、鉄道開業の午前10時に新橋駅を
出発した10両編成の特別列車の3両目には明治天皇が、4両目は西郷隆盛、大隈重
信、板垣退助、5両目に勝海舟、山縣有朋、6両目には渋沢栄一ら明治の元勲らが
勢ぞろいしたとあります。国を挙げての鉄道建設に取り組む姿が絵のように浮か
んできますね。

 その後、急速に鉄道網が発展し、人の往来が多くなり、産業の発展に大いに貢
献して行くのです。この辺りの鉄道営業距離総延長の発展推移(下図)を見ても
急速に拡大された模様がよくわかります。

        鉄道総営業距離
   
                   (天野光三氏論文より)

 上図からわかりますが、日露戦争後の景気落ち込みなどから私鉄の経営難を解
消するため日本の鉄道は、1906年に、鉄道国有法が可決され、大手私鉄17社を買
収し翌年国有化が完了したのです。
 その後も、鉄道は目覚ましい発展を遂げ、東海道新幹線をはじめ 日本中に新幹
線が開通し、1987年の民営化後は、列車そのものも快適さが増し、豪華列車など
も登場しています。

              

  少し話は戻りますが、拙ブログ2011.12.30の「ページ先生」から列車ダイヤ
の話題を引用しました。

 鉄道は急激に発展し、列車本数が増える他、急行列車などの速度の違う列車の
導入など各列車の時刻通りの安全な運行を計画する時刻表を作成する必要があり
ました。
 明治27年頃までは、列車の時刻改訂とか、臨時列車の運転計画などはすべて英
国人技師の一人、ページ先生(w.f.ページ氏)が一手に引き受けていました。東
海道線の運転計画は当時といえども
簡単にはできないはずなのに、ページ先生は
一人で、列車の行き違いや待避の関係を
手際よく処理し、実に正確な時刻表を作
り上げていたのでした。
 当時の日本の鉄道人は、「この時刻表を頭の中で組み立てるのだとすれば、驚
くべき緻密な頭脳の持ち主である」「どうしてこんなに上手に列車計画をたてら
れるのか」とページ先生をひどく尊敬していたそうです。 しかし、不思議なこ
とに、ページ先生が仕事をするときはいつも個室に入り、誰もその中に入れなか
ったのです。そして計画が出来上がると、常に時刻表として渡してくたそうです。
ページ先生の頭とともに、個室の中の作業も長い間の謎であったそうです。

 しかし、その謎も解明される時が来ました。先生の使用している列車ダイヤ
発見してしまったのです。先生の緻密な頭脳も、個室の秘密作業も、そのタネは
「列車ダイヤ」であったのです。      

       列車ダイヤ
        (ネット画像より)

 東京オリンピック・パラリンピックが開催された1964年(昭和39年)には東海
道新幹線が開業し、東京~新大阪間が4時間で(当時)結ばれることとなりました。
日本の狭軌線路は国力拡大に伴う輸送力増強のボトルネックでありましたが、戦
後に国鉄総裁に就任した十河信二が標準軌(広軌)での新幹線の敷設を実現し、
大量の高速輸送が可能となったのです。

 しかし、その後高速道路の拡張やモータリゼーションの普及・浸透につれ、人
口減少地域などでは鉄道は、その採算性が問題となるほか、災害などで路線復旧
などの莫大な費用負担の問題等もあり次第に路線廃止の動きが出てくるのです。

 平成(H)12年以降でも廃止路線は、H12年の西日本鉄道・北九州線、H13のと鉄
道・七尾線などを皮切りに令和3年まで全国で45路線が廃止され、3セクなどの運営
に委ねられてきました。

     廃止路線推移
     
                     (国土交通省ページより)

 新聞(読売新聞)記事によれば、北海道夕張等でのバス路線への切り替えや、
京都丹後鉄道は2015年から民間企業「ウィラー」の子会社により運営している例
があります。ウィラー社は鉄道事業ではなく高速バスやタクシー運営会社で、鉄
道の駅から先の不便さを補うため本業ノウハウを活用したり、この10月には宮津
駅に、待合室にカフェを開店し鉄道と住人との距離を縮めているとあります。

 また、滋賀県の例では、現在検討中とあります「交通税」の導入があります。
これまでは受益者負担の原則で運営されてきた鉄道ですが、さらに一歩踏み込ん
で交通網維持の負担を広く住民に求めようとする方法なんですね。
 常に鉄道を利用しない人にも負担を強いる形となり今後議論を呼ぶことになる
でしょうが、考えてみれば、そこに鉄道があるということがその地域にとって何
らかの貢献をしていることでもあり、共同利益の視点からの提案なんでしょうね。
 集合住宅でも、エレベータの費用は住人全体の負担となっていますし、通行し
ない道路も住民全体の費用として分担しているなどから考えれば頷ける部分もあ
るでしょう。

              

 開業150年を迎えて、さらなる高度化に向けた議論と廃線、地域利便などの視点
から今後のかじ取りがさらに重要度を増していると考えられます。

 

 

汽車ぽっぽ ~お山の中ゆく~ (本居長世 作曲)

 

 

 

 

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