田舎の学校も空襲に備えて防空壕を掘ることとなる。山間の学校ゆえ近くの羽黒山の裾に作ることとなった。壕は2面から木枠で補強しながら掘り進み完成させた。正面入り口には爆風を防ぐために小山も作られた。それらは、いずれも村人の勤労奉仕でつくられたのである。どのくらいの期間で作られたか定かでない。当時、村始まって以来の土木工事のような感覚で眺めたものである。完成すると度々避難訓練をし、百名近くの児童が駆け込んだのである。東京では多くの人々が空襲で亡くなられていることは報道管制されても噂になっていたのでみんな真剣であった。
その壕も潰れて跡形もなく、そこにあったことさえ今の人は知らない。