戦争末期になると、制空権は完全に米軍がにぎってやり放題であった。空襲警報がラジオで放送されると間もなく南の空にグラマン艦載機が何十機も上空高く編隊を組んで現れ北に向かう郡山近くの飛行場や町をばくげきするためである。20km以上離れても爆撃の音が鈍く聞こえた。悔しくてよく泣いたのを覚えている。その音が消えると間もなく身軽になった敵機は、あちこちの施設を雷のような音を立てて機銃掃射するのである。建物の陰に隠れて見ていたが駅の給水塔をよく狙われていた。当時は汽車が動力源、給水塔が破壊されれば交通マヒになることを狙っていたのであろう。それを防ぐために塗料をぬり縞模様にしていたのを覚えている。日本の飛行機が全く見られないのが悔しかった。
空襲警報でトウブグンカンクジョウホウというのを東のほうの軍艦からの情報とそのころ思っていたが、東部軍管区情報と後にわかる。