グリフォンと和平を結び春に谷を出て聖なる丘の奪還に立ち上がることにしたユニコーンたちが、草原で荒れ狂うコーアを追って旅立ったジャンの不在のうちにテックを中心にまとまりワイヴァーンと闘い、ジャンと知り合った者たちの援軍を受けてワイヴァーンを倒し、聖なる丘を取り戻すまでのファンタジー。
ユニコーンの中にも掟派(谷のユニコーンたち)と自由派(草原のユニコーンたち)があり、ワイヴァーンにも主戦派(毒針のある蛇たち)と和平派(毒針のない蛇たち)が対立するという構図で、一枚岩ではなく、やはりそれぞれの種族の中にもいろいろな考えの者がいるという設定となっています。
和平を主導していたジャンがコーアを追い、さらにはコーアからテックの出生の秘密を聞かされてユニコーンの谷に戻る気を失いドラゴンの下で無為の日々を過ごして闘いが佳境に至るまでユニコーンの隊列に加われず、他方ワイヴァーンの中の和平派がワイヴァーンの王ライネックスの暴虐に耐えきれず逃亡するという前提で、ジャンを欠いたユニコーンと主戦派のワイヴァーンの間で闘いが始められました。第2巻までで平和主義者になったジャンとファンタジーとして、またストーリーの設定上どうしても欲しいワイヴァーンとの闘いを両立させる苦肉の策という感じです。
3巻の前半は父と子、掟と自由、闘いと平和というような2項対立を軸に進む感じですが、読み終えてみると自由と平和と(自由な)愛というあたりにテーマがあった感じです。
自らがかつて自由を主張し掟からはみ出していながら王子になるや厳しい掟を張り巡らせ掟を破る者を徹底的に弾圧し罵るコーアは、何を象徴しているのでしょうか・・・。
タイトルとか第1巻からはジャンが主人公の物語のはずなんですが、2巻3巻でジャンは肝心なときにいないし、むしろテックやレルやジャンとテックの子どもたちやジャ=リラ、さらにはセスなど他のユニコーンが後になるほど魅力的に描かれ、主人公の特定しない群像物みたいな読後感です。ジャンが最後に神アルマに対してすねているのがよくわかる感じ。テックが実はジャンの姉ではなかったという落ちは、流れとしてはお約束みたいなものですが、そうでなくてもよかったような。

原題:The Son of Summer Stars
メレディス・アン・ピアス 訳:谷泰子
東京創元社 2007年1月25日発行 (原書は1996年)
ユニコーンの中にも掟派(谷のユニコーンたち)と自由派(草原のユニコーンたち)があり、ワイヴァーンにも主戦派(毒針のある蛇たち)と和平派(毒針のない蛇たち)が対立するという構図で、一枚岩ではなく、やはりそれぞれの種族の中にもいろいろな考えの者がいるという設定となっています。
和平を主導していたジャンがコーアを追い、さらにはコーアからテックの出生の秘密を聞かされてユニコーンの谷に戻る気を失いドラゴンの下で無為の日々を過ごして闘いが佳境に至るまでユニコーンの隊列に加われず、他方ワイヴァーンの中の和平派がワイヴァーンの王ライネックスの暴虐に耐えきれず逃亡するという前提で、ジャンを欠いたユニコーンと主戦派のワイヴァーンの間で闘いが始められました。第2巻までで平和主義者になったジャンとファンタジーとして、またストーリーの設定上どうしても欲しいワイヴァーンとの闘いを両立させる苦肉の策という感じです。
3巻の前半は父と子、掟と自由、闘いと平和というような2項対立を軸に進む感じですが、読み終えてみると自由と平和と(自由な)愛というあたりにテーマがあった感じです。
自らがかつて自由を主張し掟からはみ出していながら王子になるや厳しい掟を張り巡らせ掟を破る者を徹底的に弾圧し罵るコーアは、何を象徴しているのでしょうか・・・。
タイトルとか第1巻からはジャンが主人公の物語のはずなんですが、2巻3巻でジャンは肝心なときにいないし、むしろテックやレルやジャンとテックの子どもたちやジャ=リラ、さらにはセスなど他のユニコーンが後になるほど魅力的に描かれ、主人公の特定しない群像物みたいな読後感です。ジャンが最後に神アルマに対してすねているのがよくわかる感じ。テックが実はジャンの姉ではなかったという落ちは、流れとしてはお約束みたいなものですが、そうでなくてもよかったような。

原題:The Son of Summer Stars
メレディス・アン・ピアス 訳:谷泰子
東京創元社 2007年1月25日発行 (原書は1996年)