Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東京国立博物館「新指定国宝・重要文化財」展

2013年05月04日 21時16分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日上野の東京国立博物館の「新指定国宝・重要文化財」展を見てきた。根津美術館も行く予定だったが、この展覧会を見終わったのが16時過ぎだったので本日は諦めた。またの機会にすることにした。

 上野駅を降りるとものすごい人波にびっくり。駅員が公園口の改札口に大勢出て、案内におおわらわであった。これはどうしようかと思ったが、ほとんどの人は動物園に吸い込まれていった。科学博物館と国立博物館に行く道ではとても少なくなった。西洋美術館もそれほどの人出ではなかった。
 国立博物館、平常展示はやはりいつもよりは人は多いが、特に気になるほどではなかった。いつもより多いのは外国人とくに欧米からと思われる観光客と、子連れの家族連れ。私も国内旅行でも、韓国やベトナムに行ったときも、必ずその土地の博物館・歴史資料館・美術館を訪れるようにしている。私はそれがその土地・国の文化・歴史への敬意の表し方だと思っている。子供を連れて来るというのも私にはいい教育だと感じる。今回騒ぐ子供もいなくてとてもよかった。

   

 さて今年度の国宝指定の目玉は「木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像」(快慶、文殊院蔵) と3体の「木造阿弥陀如来坐像」「木造不動明王及び二童子立像」「木造毘沙門天立像」(運慶、願成就院蔵)。
 特に快慶の像は残念ながら写真展示で大きさも細部もわからないのだが、動きがいい。幾度が雑誌か何かで見たような気がするが、確実な記憶ではない。しかしこれは是非実物を見たい。運慶の作品では「不動明王及び二童子立像」が気に入った。背の光背も多分当時のものと思うが、像の表情と光背の関係がとてもいい。憤怒の相と、目くるめくような炎の形象が見る人に迫ってくる。圧倒される。
 そしてこの不動明王の脇侍のとりすましたような顔が、不動明王と光背を見た人には対照的な静かな世界を暗示させるように立っている。三体でひとつの動的な宇宙を垣間見るようで面白かった。また衣服の形象がとても自然だ。慶派の特徴でもあると聞いたことがあるが、衣服の線とくに衣紋が美しいと思う。
 運慶といい快慶といい、このような完成された作品が今頃に国宝指定というのも不思議な気がした。
 もうひとつ、福島の長福寺というお寺の「木造地蔵菩薩坐像」。地蔵菩薩の坐像というのにまず私は珍しいと思ったが、今回の東日本大震災で被災して修復のための修理中に鎌倉時代の「元亨四年」の銘が見つかったとのこと。何が原因で由緒いわれが確定するがわからないものがある。
 さらに彫刻の部で「木造摩多羅神坐像」(覚清、鎌倉時代、清水寺)というのがあった。摩多羅神というのは初めて聞く名で、日本の神像ではなく、仏教とともに伝来したインド由来の神なのかと思われるが、これはこれから調べてみることにする。なかなか不思議な表情でどのように表現していいかわからない。

 絵画作品で見落としてはいけないのが長谷川等伯の「紙本墨画老松図襖貼付」と「紙本墨画猿猴捉月図襖貼付」(桃山時代、泉涌寺)。残念ながら写真での展示だった。後者は有名なのでこれも「今頃ようやく」という思いがする。「老松図」ははじめてみたような気がするのだが、なかなか面白い。
 狩野探幽の「紙本金地着色四季松図 六曲屏風」(江戸時代、大徳寺)は二本の松だけだったが、壮年期の松と老松と思しき松が左右に一本ずつ描かれている。
 壮年期の松の幹と葉には雪が積もっていてそれが松の盛んな生命力を演出している。枝に対する葉の割合も多い。老松には赤く染まった蔦が太い幹全体にからまり年季を思わせる。一木に対する葉の割合が心なしか少ない。幹の高さも低め。人間の老境をも感じさせる。幹の写生と葉の緑の対比、老壮の対比、雪と蔦の対比、ここら辺が見所。
 土佐光吉の「紙本金地著色源氏物語図」はとにかく細部まで丁寧に描かれている。美しい彩色だけでなく、色の配置、構図のとり方など西洋美術にはない描き方や、細部までの驚くべきこだわりに驚いた。ことに緑色が美しく感じた。実際は読めないのだが、流麗なかな文字の美しさに見入った。

 展示期間が極端に短いのはとても残念。普段はなかなか人の眼に触れることは少ないので、多くの人の眼に触れてもらうには、いろいろな制約はあるだろうが、もう少し長めの展示であって欲しい。
 今回の指定されたものの一覧表は用意をされていたが、できれば図録までとはいわないが解説の一覧なども欲しい。実費程度の負担は揶揄無を得ないと思う。
 贅沢を言えばキリがないが、写真も撮影できないのだから、A4で数ページのパンフなどがあればさらにうれしい。


「快特」‥不思議な言葉

2013年05月04日 12時09分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日千葉市まで出かけたが、横浜からは品川まで京浜急行を使ったほうが少し安いとのことであった。また「快特」の時刻もちょうどよい具合だったので品川でJR総武線直行の横須賀線に乗り換えた。乗り換えの移動時間も短いのだが、接続は10分ほども待つことになった。
 帰りは、品川で乗り換えるのも面倒になり、そのままJRで横浜駅までたどり着いた。横浜駅ではすでに19時を回ってしまっていた。夕食時間に間に合わないのではないかと思い、タクシーで帰る旨を自宅に電話するとそれはもったいないとのご託宣。やむなく地下鉄利用で帰宅した。
 家ではインコの餌やりで苦闘していた。インコを手で包んでスプーンでやっているのだが、これがインコにはもう苦痛になってきたらしい。スプーンも嫌がるようになってきた。そして集中してたべなくなった。そろそろ自分で食べるような環境にしていかなければならないようだ。
 また横浜は終日晴れていたようだが、千葉市内は雲が多かった。夕方には雲はなくなったが風が冷たかった。横浜と千葉の天候と気温の差がずいぶんあるなと感じた。

 さて、京急に乗ったのだが、私はどうも私鉄で当然のように使われる「快特」という変な言葉が性に合わない。「快速特急」の略語がいつの間にか「快特」として通用させられたのだろうが、もともと「快速特急」というの言葉自体が不思議な言葉である。もとをたどれば「快速特別急行」という長ったらしい名称になる。
 急行と快速、快速と特急とどちらが早いのか、という戸惑いは昔からあった。私の理解では、昔国鉄だった頃、急行と特急はそれぞれ急行券、特急券が別途購入の必要があった。もうひとつ準急というものもあったが、この準急と快速は普通乗車券だけで乗車できていた。快速は近郊の通勤電車での名称だったようだが、これは自信はない。まず私の言葉の理解の前提はこれだ。それを私鉄も踏襲していたかのように思っている。もっといえば「特急」だって「特別急行」の略である。
 ところが私鉄でいつの間にか快速が急行や特急より止まる駅が少ない電車の呼称となり、さらに「特別快速」「快速特急」なるものが生じてきた。こうなるともう準急・急行・通勤特急・特急・通勤快速・快速・特別快速・快速特急とそれぞれの会社線によってゴチャゴチャになってきた。どれが止まる駅が少ないのか、早く遠くまで行くのか、乗車券だけで乗車できるのか否か、会社線に載るたびに時刻表と路線図をじっくりと見なくてはわからなくなってきた。少なくとも私にはそう思われた。全国の私鉄に統一名称を強要するのはもっといけない言語統制であるからこそ、私鉄の経営陣には呼称制定に慎重になってほしいと思う。
 残念ながら「快速特別」「特別快速」の時刻表表記での略称「快特」「特快」が 正式な呼び名になってきた。言葉というのはそもそもそのように変化するものではあるが、この形容矛盾というか形容過多というか不思議な呼称の正式な採用に当たって、会社の経営陣は言葉の専門家に諮問したのであろうか。日本ではどうもこのような習慣はないようだ。今でもないから、過剰敬語が氾濫し、それが当たり前のようになっている。もう一度、準急・急行・特別急行・快速などという言葉に戻って考え直したほうがよいのではないだろうか。特急という言葉はある程度馴染んでいるということについては私も否定しない。
 「快特」「特快」も略称として利用者が使ったり、時刻表の略式表記なら私も了解できないことはない。四字熟語は日本語には長すぎるので、短く省略するというのは一般的な傾向として定着している。しかし正式名称として鉄道会社が当然のように使う段階ではまだ無いと思う。
 JRでは、私の聞き間違いかもしれないのだが、車内アナウンスでは特急を「特別急行」といっているようだ。社内規定では多分まだ「特別急行」なのかも知れない。私はこれについては好ましい事態と感じている。
 今では使われなくなった新幹線の「超特急」という言葉も不思議な言葉であった。そして国鉄末期の「E電」なる造語。あの当時の国鉄経営陣の言葉のセンスのなさはあまりにひどかったその証左であろう。しかし日本の保守政治家、保守政治家を支える経営者達の言葉に対するあまりの無神経ぶり、センスの無さは特筆すべきものがあるのではないだろうか。本来ならば保守政治家こそが「伝統文化」への繊細な理解があってしかるべきなのだが、日本ではその正反対らしい。

 むかし横浜市でも細郷市長が就任してしばらくして「殿」という言葉は冷たい感じがするというので公文書は「横浜市長殿」ではなく「横浜市長様」としろということになった。その昔「拝啓天皇陛下様」という喜劇映画があったが、ここではこの喜劇性を表す言葉として「陛下様」という変てこな敬語を使ったのである。だから「市長様」というのは言い方としては大変失礼な言葉遣いなのだが、これがこの市長はわからないようだった。そして市の総務局長から早速依命通達があり、全市「市長様」となった。そればかりではなく、対外的な発送文書も、また許可文書も「社長様」となってしまった。国語の正しい言葉遣いに対するチェックがまるで行われなかったことに私は驚いた。
 本来は「横浜市長」「○○社社長」でいいはずである。あるいは「市長殿」でも許容範囲であったはずだ。「様」を使う場合は個人名のあとにつけるものだから、「横浜市長細郷道一様」「○○社代表取締役社長△△◎◎様」なら理解できたのだが‥。
 まだ若かった私はこの意見を表明する場面もなく、最初は私の語感がおかしいのかと疑問に思った。また不思議だったのは、当時の幹部特に事務職のトップがどうしてこんなに言葉に鈍感なのかと不思議だった。議会の議員もだれも疑問を呈さなかった。学校の教員からも、また教育委員会からも国語の専門家としての立場からの異論もなかった。だから今はどうなっているか知らないが当時「○○学校長様」という学校では教えないはずの表現が庁内文書として流通していた。
 未だこの習慣は続いているとおもう。私は現役当時自分のつくる文書では、定型で出す文書で変えられないものの外は、極力可能な限り「社長様」のような宛名書きは避けてきた。そんなことをしているうちに、うろ覚えなのだが機関委任事務で市長が管理者になっている場合と、本来市長が管理者である場合では、表記の仕方が違うということをいわれた。どちらがどちらだかもう忘れてしまったのだが、申請書など(たとえば下水道管理者である横浜市長から、道路管理者である横浜市長に出す申請書など)「横浜市長」宛の表記と、「横浜市長○○△△様」との表記を使い分けしなくてはいけないのだという。しかし業務がシステム化してしまってからはこのようなことを考えることもなくなり、すべてシステム任せとなってしまった。上司の誰もがそのようなことは特に目くじらを立てることは最近はなくなってきた。

 中田宏市長のとき「総務局・市民局‥などは意味がわかりにくい。市民に何の仕事をしているのかわかりにくいので局名を変えろ」となった。そして考え出されたのが「市民活力推進局」「行政運営調整局」‥なる長たらしいそれこそ訳のわからない局名であった。これなども議会も含めてだれも文句をいわなかった。かえって提灯持ちのヨイショ発言などをするとんでも議員まで現れる始末。当の市長本人は大層ご満悦でこの長ったらしい局名を「「市活局」「調整局」などのように短く略して呼ぶことはまかりならない」と宣言する始末であった。
 もともと市民の活動や実践の力を後押しをするためのそれこそ市民活力を活用するための部所が市民局と言う名称になったのである。逆に「市民活力推進」という言葉は「お上」が市民の力を引き出すという意味合いになる。市民にとても失礼な語感を持つということがわからない市長とその取り巻きであった。総務という言葉も社会に定着している。
 しかし内部では多くの幹部職員は、こんな言葉への強制は従わなかったようだ。中田市長の時代に特有な「面従腹背の市役所」が現出した。中田市長はあたかももともと横浜市役所の体質が「面従服背」と公言してはばからなかったが、自らが蒔いた種であることが理解できないでいた。まるでスターリン時代・毛沢東時代のソ連・中国のような言葉・言語に対する政治姿勢であった。とても怖ろしい政治家であると私は直感した。
 中田宏が150周年のイベントの赤字と、構造的財政赤字の始末のつけ方がわからなくなって逃げ出すように辞任し、庁内の空気が極めて柔らかくなった。「のびのびと意見を出し合い、いい議論が出来るように早くなるといいが‥」とぽつんと私の昔の上司で当時はトップの一人となっていたある幹部が言った言葉が忘れられない。組合の役員であった私とは時々庁内で顔を合わせると挨拶をしていた方で、何となくウマがあうという感じの先輩であった。

 一般的に正しい言葉使いや歴史的な必然で生れた言葉にはそれぞれの歴史がある。(「正しい」にはいろいろな議論があることは承知をしているがとりあえずここでは「一般的に流通を許されている語」としておこう)。また時間によって洗練されて意味が豊富化されるものがある。それらはとりあえずまず尊重しなければならない。若者言葉の流行り廃れが激しいのは言葉遣いに無理があり、角があり、言葉に柔らかさと他者への配慮がないからである。これを無闇に自分の言葉であるかのように使用する愚行はみっともない。
 言葉を政治や組織の責任者が他者へ使用を強制することは許されることではない。「快特」などや「様」の使用、「四字熟語」の使用の流通のしづらさなど、言葉を社会に発信する立場の人は、言葉に対する配慮、豊かな言葉への感性、そして小中学校で教わる最低限の表現方法をいつも考えていたいものだ。