前回からずいぶん時間が経ってしまった。
房総半島では薬師仏信仰が旺んだったらしいと前回書いた。薬師仏が多いということはその眷属でもある十二神将の像も多いということになる。実際に展示物をみると十二神将が3組あった。東明寺、小松寺、密蔵院というお寺のもの。いづれも平安時代につくられた薬師如来立像を守るように作られた鎌倉時代と南北朝時代のものである。
平安時代の薬師仏の柔和な姿態と対照的な鎌倉・南北朝時代の神将像は、一組の像群としてみるとちょっと不思議な世界である。薬師仏が立像で優美ですっとした立ち姿なのだが、十二神将像の方ははもともと武神として人を威嚇するような攻撃的な姿態なのだがさらに鎌倉時代以降のよりリアルな迫力ある姿が周囲にあると、一層目立つ。その対称がいいのかもしれない。
十二神将はポーズも持ち物も特に決まりというのはないようだ。なので12×3組のそれぞれのポーズを見ていて飽きることかない。時間があっというまに過ぎてしまった。
特に南北朝時代の作という密蔵院の神将像は、他の二組に較べても異様だ。神将も仁王像も四天王像も、慶派も院派もどちらかというと上半身に力が入っている。足の筋肉自体も力が入っているが、全体としては腰が低くなく、上半身と下半身がバランスが取れていないというのが、私の昔からの印象だ。しかしこれは膝を曲げ腰を低く落として闘いのポーズとしてはもっともリアルに感じた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5c/ea/db968dabb71d649ed3897ba96e704a86_s.jpg)
解説にもあるとおり誇張表現で頭部はとても大きい。だからリアルというのはいいすぎなのかもしれないが、ここまで腰を低く落とした姿勢は私は気にいった。今にも動き出しそうな迫力がある。12体全部が保存されておらず4体は近年の補作ということで展示されていなかった。
しかし私が気にいったのはもっと別のポーズがあったからだ。このポーズの像、人を威嚇したり闘いのポーズではない。右側の像は左手をかざして遠くをのぞくポーズである。左の像はふと気を抜いて「おやっ」といった表情だ。ともにちょっと惚けた飄逸な感じがする。
作成した仏師の遊び心を感じないだろうか。仏師というとひたすら仏像に思いをこめた修業的な禁欲的な感じを抱いてしまうが、仏師といえども人。ユーモアを感じた。これがお寺の蔵にしまわれていたり、あるいは法要がないとき、灯明に照らされながらも静かな夜を迎えたとき、薬師仏と十二神将の一息ついた休息の場を想像して一人笑いが出てしまった。
京や鎌倉といった表の世界ばかりの仏像とはちがって、都から距離がある分、そのような仏像も許されたり、生き残ることが出来たのかもしれない。あるいはこれを拝むという行為の中で息がつまるような禁欲的な信仰の場からふと息を抜いた和む瞬間が求められたのかもしれない。
私が知らないだけで、このような像はあるいはたくさん作られたのかもしれない。そこら辺の知識は私にはないので、もともこのような像が普遍的なものであるならば、そのいわれなど、教えてもらえればありがたい。
しかし今回、このような十二神将像に出会えたこと、うれしかった。
(追記)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0f/ed/2f1bccb60d798a7c81d5d807aa791c35_s.jpg)
アップ後に気付いたことがある。実はこのカード、千葉市美術館で販売していて、私はすっかり密蔵院の十二神将の図だと勘違いしていた。アップしたあとにこのカードを購入したのを思い出し、裏をみたら「重文 十二神将立像 戌神 鎌倉時代13世紀 東京国立博物館蔵」となっている。
ちゃんと見れば顔の形がまるで違う。これはとても情けない話だ。(もっとも千葉市美術館はこの期間、東博の所蔵品の仏像の販売は紛らわしいから止めて、とはいえない。)ちゃんと見ない私の間違いである。
どこのお寺にあった十二神将像なのか、東博にいったら是非確認をしてきたいと思う。これが房総半島のお寺に先行してあるということは、ひょっとしたら鎌倉時代のこの像に影響を受けたり、模倣(今の感覚で模造品という意味ではないし、顔の表情はまるで違っている。)なのかもしれない。
さて、この東博の戌神の方が顔は比べ物にならないくらい凛々しい。キッとした眦・眉・口元などこれはくだけた表情ではない。全身像も見てみたい。他の組になっている神将像も是非見たい。先ほどの密蔵院の像がくだけた姿態にも見えるという私の思いとは違って、戦に臨む顔、人を威圧する顔だ。先の私の思いは変えなくても良さそうだ。
房総半島では薬師仏信仰が旺んだったらしいと前回書いた。薬師仏が多いということはその眷属でもある十二神将の像も多いということになる。実際に展示物をみると十二神将が3組あった。東明寺、小松寺、密蔵院というお寺のもの。いづれも平安時代につくられた薬師如来立像を守るように作られた鎌倉時代と南北朝時代のものである。
平安時代の薬師仏の柔和な姿態と対照的な鎌倉・南北朝時代の神将像は、一組の像群としてみるとちょっと不思議な世界である。薬師仏が立像で優美ですっとした立ち姿なのだが、十二神将像の方ははもともと武神として人を威嚇するような攻撃的な姿態なのだがさらに鎌倉時代以降のよりリアルな迫力ある姿が周囲にあると、一層目立つ。その対称がいいのかもしれない。
十二神将はポーズも持ち物も特に決まりというのはないようだ。なので12×3組のそれぞれのポーズを見ていて飽きることかない。時間があっというまに過ぎてしまった。
特に南北朝時代の作という密蔵院の神将像は、他の二組に較べても異様だ。神将も仁王像も四天王像も、慶派も院派もどちらかというと上半身に力が入っている。足の筋肉自体も力が入っているが、全体としては腰が低くなく、上半身と下半身がバランスが取れていないというのが、私の昔からの印象だ。しかしこれは膝を曲げ腰を低く落として闘いのポーズとしてはもっともリアルに感じた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5c/ea/db968dabb71d649ed3897ba96e704a86_s.jpg)
解説にもあるとおり誇張表現で頭部はとても大きい。だからリアルというのはいいすぎなのかもしれないが、ここまで腰を低く落とした姿勢は私は気にいった。今にも動き出しそうな迫力がある。12体全部が保存されておらず4体は近年の補作ということで展示されていなかった。
しかし私が気にいったのはもっと別のポーズがあったからだ。このポーズの像、人を威嚇したり闘いのポーズではない。右側の像は左手をかざして遠くをのぞくポーズである。左の像はふと気を抜いて「おやっ」といった表情だ。ともにちょっと惚けた飄逸な感じがする。
作成した仏師の遊び心を感じないだろうか。仏師というとひたすら仏像に思いをこめた修業的な禁欲的な感じを抱いてしまうが、仏師といえども人。ユーモアを感じた。これがお寺の蔵にしまわれていたり、あるいは法要がないとき、灯明に照らされながらも静かな夜を迎えたとき、薬師仏と十二神将の一息ついた休息の場を想像して一人笑いが出てしまった。
京や鎌倉といった表の世界ばかりの仏像とはちがって、都から距離がある分、そのような仏像も許されたり、生き残ることが出来たのかもしれない。あるいはこれを拝むという行為の中で息がつまるような禁欲的な信仰の場からふと息を抜いた和む瞬間が求められたのかもしれない。
私が知らないだけで、このような像はあるいはたくさん作られたのかもしれない。そこら辺の知識は私にはないので、もともこのような像が普遍的なものであるならば、そのいわれなど、教えてもらえればありがたい。
しかし今回、このような十二神将像に出会えたこと、うれしかった。
(追記)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0f/ed/2f1bccb60d798a7c81d5d807aa791c35_s.jpg)
アップ後に気付いたことがある。実はこのカード、千葉市美術館で販売していて、私はすっかり密蔵院の十二神将の図だと勘違いしていた。アップしたあとにこのカードを購入したのを思い出し、裏をみたら「重文 十二神将立像 戌神 鎌倉時代13世紀 東京国立博物館蔵」となっている。
ちゃんと見れば顔の形がまるで違う。これはとても情けない話だ。(もっとも千葉市美術館はこの期間、東博の所蔵品の仏像の販売は紛らわしいから止めて、とはいえない。)ちゃんと見ない私の間違いである。
どこのお寺にあった十二神将像なのか、東博にいったら是非確認をしてきたいと思う。これが房総半島のお寺に先行してあるということは、ひょっとしたら鎌倉時代のこの像に影響を受けたり、模倣(今の感覚で模造品という意味ではないし、顔の表情はまるで違っている。)なのかもしれない。
さて、この東博の戌神の方が顔は比べ物にならないくらい凛々しい。キッとした眦・眉・口元などこれはくだけた表情ではない。全身像も見てみたい。他の組になっている神将像も是非見たい。先ほどの密蔵院の像がくだけた姿態にも見えるという私の思いとは違って、戦に臨む顔、人を威圧する顔だ。先の私の思いは変えなくても良さそうだ。