Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

北風が唸りはじめた

2018年01月13日 23時22分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いつものとおり夜のウォーキングを少々。とても北風が強く、そして寒かった。昼間より格段に強い。そしてだんだん強くなり、今はベランダから風の唸り声が聞こえ始めた。
 明日の朝の最低気温は本日ほどには低くならないというが、この風が続くとしたら体感気温はかなり低くなりそうである。

 明日は、久しぶりに団地の管理組合の資料整理をする予定。午後からは出かける予定。寒さは控えめにしてほしいものである。

寒さを楽しむ

2018年01月13日 21時36分39秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は13時に落ち合って歩き終わったのは15時半ころ。途中道路を建設中の横浜藤沢線の敷地の中も歩くなど、歴史探訪だけでなく、地層のわかる露頭を求めても歩いた。予定より多く、1万4千歩近くをカウントした。寒い中、微地形、小尾根、谷を現在と昭和40年代の地形図も参照しながら。遥か遠い昔の地質巡検などを思い出した。途中湧き水などや小さなせせらぎの水をくみ取っては水質検査をしたり、懐かしい一コマを体験させてくれた友人に感謝である。もうこのようなことを体験することはないものと自己規定していたので、戸惑いつつも楽しかった。
 水田には氷もあり、せせらぎの道でも氷や霜柱を多数見つけ、冬を実感した。

 しかし寒波の中、寒さが身に染みたことも確かである。

★しんしんと寒さがたのし歩みゆく    星野立子
★くれなゐの色を見てゐる寒さかな    細見綾子
★日をのせて川波寒く流れをり      清崎敏郎

歴史の尺度の違い

2018年01月13日 19時58分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日一緒に歩いた友人は地質の専門家。中期更新世以降の地質年代に詳しいので今から十数年前という年代からが専門である。私はせいぜいさかのぼっても、現在残っている集落の痕跡などからは鎌倉時代よりも新しい千年という尺度で歴史を見るしかない。
 過去にさかのぼる年代の物差しがまるで違うのだが、それでも私にとっては学生時代は一応地球物理学専攻なので露頭の分析を一緒にすることで、昔を少しばかり思い出した。関東ローム層、下末吉層、上倉田層等の用語を聞きながらいろいろ楽しんだ。二人の共通の話題は、港南区が武蔵国と相模国の国境をまたいだ地域で、東京湾に流れる大岡川の支流の日野川は武蔵の国、そして柏尾川を通って相模湾に流れる馬洗川、永谷川は相模の国である。これを分ける分水嶺の尾根道を想定しながら歴史散歩を楽しむことができた。
 久しぶりの港南区の歴史に触れて、楽しめた。
 珍しくお酒を飲まずにコーヒーで打ち上げをして別れて帰宅した。


港南区内の馬洗川と鎌倉道探索

2018年01月13日 11時49分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は学生時代の友人と横浜市港南区を流れる馬洗(うまあらい)川の源流までをたどることになった。源流とはいえ、今は野庭の農専地区を通って住宅地の中にある小さな公園が源流地点である。馬洗川というのは柏尾(かしお)川の支流で、北条政子が馬を洗った川という言い伝えがある。馬洗川に沿って鎌倉下(しも)の道があり、栄区の鼬(いたち)川から北上してきた道がここから弘明寺に向けて尾根沿いの道になるため、恰好の水場、休憩場所であったと思われる。
 政子の井戸の名の由来は、政子の領有地(化粧料)の地とも、あるいは弘明寺や井土ヶ谷の浄蓮寺に政子自影の木造があることから、信仰に通った道であったからとも言われているが、定かではないらしい。ただ、付近の野庭という地名は野場が起源なので、現野庭団地にあった関城(せきしろ)の練兵場だったといわれている。そのために政子の名を冠した由来が語られた可能性もある。
 馬洗川は旧野庭高校跡地で二つに別れ、下(しも)の道は支流沿いにあったようだが、本日は本流の「永谷平川」をたどって源流の野庭三谷町(のばみたにまち)公園まで歩いてみる予定である。ただしこちらの川沿いの道にも古い庚申塔があり、下(しも)の道は動いた可能性もある。なお、ここの傍にある小山台小学校・中学校付近は、「鎌倉下の道」と尾根沿いを進む「早駆の道」の分岐点でもある。
 久しぶりの港南区の旧鎌倉街道歩きである。30年近く前に「道の日」のイベントで地元の小学生を集めてハイキングコースとして紹介しようとした道の一つであった。残念ながらもっと自然豊かな道もあったので、そちらにした経過がある。三谷の名の由来は旧金井村、野庭村、小菅ヶ谷村の交点に由来すると聞いたことがある。

 私が昔参考にしたのは「こうなん道ばたの風土記」(編集:港南の歴史研究会)という100頁にも及ぶパンフレット。今は絶版となっているらしい。これに続くものが出版されていればありがたいのだが‥。
 そしてこの風土記によると、本日歩く道のすぐ傍に荒畑寒村の里親の家があり、寒村はこの里親、臼居久兵衛を大変慕っていたというエピソードも記されている。


寒林・寒木

2018年01月13日 02時21分24秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 普通は使うことはない言葉で季語として使われるものがある。私このような季語が俳句で使われることは基本的には好まない。しかし寒林・寒木という季語は普段使われる言葉ではないが、嫌いではない。冬に落葉樹が葉を落とし尽くした姿をいう。冬木立という語よりも寒さが厳しい感じがする。

★寒林や手をうてば手のさみしき音    柴田白葉女
★寒林へするどきまでに風と陽と     庄司 猛


樹木の多い団地の中も冬の剪定が進み、いっそう寒さが進んだ。